第43話 果物の香り

 初々しくて、可愛らしくて、緊張を和らげてくれる、勇気の出る香り。春子はぴんとくる。

「果物の香りはお好きですか?」

「ええ」と令嬢は頷く。試してみたかった精油があったのだ。

「では果物のようなみずみずしい香りをお作りします。少しかかりますので、外に出られても結構です」

「迷惑でなければ見ていてもいいかしら? 興味があるの」

 了承して、春子は精油瓶を並べた。使いたい精油を希釈していくと、ふわりと香りが立ち上る。

 主役はマグノリア、カモミイルロオマン。これだけだと草っぽさが出てしまうので、溶剤抽出のバラを加える。トップノオトは少し迷って、マンダリンとオレンジを入れた。失敗できないので、一滴一滴慎重に調整していく。

 ベエスにラブダナム。最後に、隠し味を加えた。

「かいでみていただけますか?」

 春子は短冊状の和紙に混ぜ合わせた香りをつけて、対面の令嬢に渡した。作り始めてから数時間はたっているだろうに、令嬢は興味津々のまなざしで和紙を受け取って、かぐ。目を見開く。

「いい香りだわ。りんごのような」

「はい。りんごといっぱいの果物を想像して作りました」

 マグノリアとカモミイルロオマンは花だが、みずみずしいりんごの香りに似ている。マグノリアはさらにパインアップルにも似ている。パインアップルはとても珍しい果物で、春子は天野家に来てから初めて食べた。それにみかんに似たマンダリン、蜜のようなラブダナムの甘さが混ざる。

「隠し味に、ピンクペッパアを入れました。全体を引きしめて、背中を押してくれるような」

 ピンクペッパアはさわやかな香とわずかな辛みがある。甘い果物だけでなく、一歩踏み出せるようにと。

 令嬢の顔がほころぶ。

「とても好きよ。気に入ったわ」

「ありがとうございます。よかった」

 春子は胸を撫で下ろして、つられて微笑んだ。

 作った香水を赤い色ガラスに移して、箱に包む。

「明日、すてきな一日になるといいですね」

 すると令嬢はおずおず春子をうかがってきた。

「その、はしたないけど、春子さんはそういう方はいないの?」

 せめても声をひそめているのは、壁際に控えたままの侍女に対する配慮か。聞こえていそうだが、侍女は特に何も言わない。喫茶店の女給時代のお喋りを思い出して、春子は思わず笑ってしまう。

「特には。家からの手紙には縁談のことがちょくちょく書いてありますが……」

 義父母から来る手紙には、縁談を匂わせるようなことが書いてあった。今すぐにではないが、そういう話がある、と。いずれは義父母の決めた相手のもとへ嫁がねばならないだろうと思うが、まだ、もう少し夢を見ていたい。

「お店をやってること、ご両親は何て?」

「夢だったので、今はやらせてもらっていますが……実は両親は亡くなっていて、義父母にお世話になっているんです」

 言ってから、いくら常連のお客さんでも話すべきことではなかったなと後悔した。うっかり雰囲気に流されて口にしてしまったが、案の定令嬢は顔を曇らせる。

「ごめんなさい、立ち入ったことを聞いてしまって」

「いいえ、こちらこそ暗くしてしまって申し訳ありません。義父母には本当によくしてもらってるんです」

「そうなの。じゃあなおさら、育てのご両親も、生みのご両親も、春子さんに幸せになってほしいと願われているでしょうね」

 少しだけ、心に引っかかった。

「子槻さんは?」

 唐突に尋ねられて、春子は首をかしげる。

「ええと、申し訳ありません、ただいま仕事に出ておりますが」

「そうじゃなくて、お相手として子槻さんは? という話よ」

 春子は数拍思考が止まって、我に返った。

「ええ、いえ、そんなまさか! 身分が違いますし、いつもお世話になっていますし、そういうことでは……」

 あとは最近、避けられている。そう思って、胸がわずかに痛む。

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