神様サンダルウッド

第42話 恋する乙女

 風を通すために開けた引き戸から、午砲の音と草木の青っぽい香りが入ってくる。お昼か、と春子は畳の部屋から香水店の店内へ目を向けた。オオダアメイドの依頼はおかげさまで順調に入っているが、ひっきりなしにお客さんが来る、とまではいかない。

 春先に店を出してから、もう季節は残暑になった。手元の精油瓶に視線を落として、まずは目の前のことをひとつひとつ確実にこなしてお店を築いていこう、と思った。

 けれどひとつだけ、気になることがある。

 最近、子槻がおかしい。

 少し前までは呼ばずとも毎日のように閉店後、顔を見せに来ていたのに、ぱたりと来なくなった。仕事が忙しいのだろうかと思ったが、日曜日も来ない。このりに聞けばいいのだろうが、こちらが会いたがっているように取られても複雑なので、聞けずにいる。

(別に、今までがおかしかっただけで、これが普通なんだと思うけど)

 不安といえば不安だ。子槻に何かしてしまっただろうかと記憶を探るが、心当たりがない。それとも、春子がずっと子槻をあしらっていたから、ようやく気付いたのだろうか。机のかたわらに置かれた、可愛らしいねずみ短檠を見る。

 春先、ねずみ短檠を持ってきてもらったときに作っていた子槻への香水は、まだできていない。忙しかったのもあるが、何だか春子から見る子槻の姿がゆらゆらと変わっていって、香水の軸を決めかねているのだ。

(休憩しようかな)

 何となく集中できなくなってしまって、春子は立ち上がった。お茶でも淹れようと草履を引っかけたとき、あいた引き戸の向こうに柿色の着物を着た少女と、侍女が立っていた。よく来てくれる、はつらつとした令嬢だ。

 春子が「いらっしゃいませ」と声をかけるより早く、令嬢が春子に迫ってくる。

「春子さん、急で申し訳ないのだけど、香水を作ってもらえないかしら」

 令嬢は慌てた様子で、頬が紅潮している。

「承りますが、どうかされましたか?」

「明日、婚約者とオペラを観に行くことになったの。まだ一度しかお会いしてないし、次にお会いするのももっと先だと思っていたから……ああどうしましょう」

 令嬢はせわしなく視線を動かしたあと、「ああごめんなさいね」と我に返って春子を見つめた。

「そういったわけで、勇気が出るような香りを作ってほしいの……」

「おまかせください!」

 春子は頬が熱くなった。恋する乙女の何と美しいことか。ぜひ力添えする香りを作らねば、と心の中でこぶしを握る。

 令嬢には店の机についてもらう。顧客の要望を聞くために置いてある大きな机だ。春子も精油箱を持ってきて向かいに座った。

「今この場でお作りして、お持ち帰りいただく形でよろしいですか?」

「この場で作ってもらえるの? 今日も明日も急には変わりないけど、明日急いで取りに来ようかと」

「お気に召さない可能性もありますから、今作ってしまいましょう」

 本当は香水は少したったほうが混ぜ合わせた香り同士がなじんでよいのだが、なじんでいないならいないで個々の香りが立ってよい、ということにする。

「勇気の出る香りということで、使いたい香りなどありますか? お花の香りとか、甘いとか、すっきりしているとか」

「ううん……重いよりは軽やかなほうがいいかしら……」

 オオダアメイドでどんな香りにしたいか聞いて、はっきりと答えられる人はそう多くない。いろいろ提案して、お客さんの思っている香りを引き出すのが春子の腕の見せどころだ。

「参考にさせていただきたいのですが、明日のお出かけは楽しみですか? 緊張していらっしゃいますか?」

「た、楽しみよ。とても緊張しているけど」

 そうして令嬢は机の上で組んだ手を小さく動かす。

「お見合いの席でしか会ってないけど、とても誠実な方だったの。恋愛結婚みたいなすてきなものじゃないけど……」

「そんなことありません! すてきです」

 春子は思わず身を乗り出していた。お見合いだろうが自由恋愛だろうが、令嬢は恋する乙女で、恋する乙女はもれなく美しいのだ。

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