第44話 あきらかにおかしい
「身分なんて、駆け落ちしてしまえばいいじゃない。気持ちが本物なら困難なんて乗り越えられるわ」
たしかに駆け落ちしてしまえばすべて解決、というような風潮はあるが。そもそも、子槻への気持ちは恋情ではないような気がする。
それに、もっと心が重く深く沈む問題がある。
「ごめんなさい、困らせてしまったわね」
令嬢は春子の様子を見て引き下がってくれた。できたての香水を持って帰る令嬢の後ろ姿を見送ってから、春子は椅子に腰かける。
万が一誰かに恋をしても、春子はその道を選ばない。
『じゃあなおさら、育てのご両親も、生みのご両親も、春子さんに幸せになってほしいと願われているでしょうね』
令嬢の言葉が蘇る。義父母は幸せを願ってくれるだろう。顔も覚えていない父も、願ってくれるかもしれない。
母は、きっと春子の幸せを願ってくれる。きっと、春子のしたことを許して、願ってくれる。
だから、幸せを選べない。自分が自分を許してしまったら、誰が罪を覚えているのだろう。背負っていくのだろう。
だから、幸せを選ばない。店を出すという幸せを、自分に負けてつかんでしまった以上、この先を望むことは、許されない。
あんぱんの袋を持って、春子は子槻の私室の前にいた。
どうしてこうなったかというと、子槻にずっと避けられているからである。心当たりなく避けられているのは、やはり気になる。それに何かしてしまったのなら謝りたい。
あんぱんはお客さんからの差し入れで、とりあえず差し入れのおすそわけに来ただけだから、と自分に言い訳してここまで来た。私室の場所は、前に子槻が頼んでいないのに教えてくれたのだ。このりは「嫁入り前のご婦人に嬉々として私室をお教えするなど、いかがかと存じますが」と呆れていた。
やっぱりやめようか、と扉の前で逡巡する。けれどずっと廊下でまごまごしているのも不審だ。ええい、ままよと、木目の美しいこげ茶の扉を、叩く。
「す、すみません夜分に。春子です。あの」
気まずさを埋めるために発した言葉が、勢いよく扉がひらく音でぶった切られる。身構えた春子の前に、長着の白ねず色が飛びこんでくる。
目を見開いて、唇を震わせた子槻が、いた。
「な、なな何をやっているのだこんな夜分にひとりでこんなところに来るなど!」
「ご、ごめんなさい、迷惑でしたよね、出直します」
「違う! そうではない、わたしの部屋だったからまだよかったものの、間違って男の使用人の部屋に入って連れこまれたらどうするのだ! 危険極まりない!」
「へ、部屋は子槻さんが直接教えてくれたので間違わないと思いますが……それにこのあたりに使用人さんの部屋はないのでは」
「そういう問題ではない! もっと危機感を持ちたまえ、春子はとても愛らしいのだからどこの誰が目をつけているか……」
はたと子槻が口をつぐむ。そうして急に咳払いをして目をそらす。
「な、何の用だい。用がないなら帰りたまえ。わたしは忙しいのだ」
最初からそう言われていれば「やはり何かしてしまったのだろうか」ともやもやしたかもしれない。けれど取ってつけたような態度が妙すぎる。あきらかにおかしい。最初の態度はいつもの子槻だ。
「ええと、お客様にあんぱんをいただいたのでいかがかなと」
抱えていたあんぱんの袋をさし出すと、子槻は振り向いて目を輝かせる。けれど我に返ったように、またつんと顔をそらした。
あきらかに、妙だ。
「そ、そういうことならいただこう。用が済んだのなら帰りたまえよ」
あんぱんの袋はしっかり受け取った子槻を見て、春子は言葉を探す。
「ええと、あの、最近何だか避けられている気がするのですが……もし粗相があったのなら言ってもらえれば」
「粗相など!」
勢いごんだ子槻は、またもやはっとしたように目を泳がせた。
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