第38話 ふたつの香水

「そうだ、せっかくだからお夕飯を食べていきなさいよ。天野さんもご一緒に。ねえお父さん、いいでしょう?」

「ああ、そうだな。たいしたおもてなしはできないが、それでもよろしければ」

 義母の弾んだ声に、義父が応じる。春子にとっては願ってもないことで、思わず歓声をあげそうになった。けれど子槻を無理やり付き合わせるのは悪い。一緒に夕飯を囲みたい気持ちを押し潰して、口をひらこうとする。

「ご迷惑でなければ、ぜひ」

 春子より速く、子槻のにこやかな声がかぶさる。

「あらあら、じゃあ腕によりをかけて作らなくっちゃ。狭いですけど、お上がりになってくださいな」

「店ももう閉めるか。天野さん、年寄りの晩酌に付き合ってくださいますかね」

「ええ、喜んで」

 はしゃぐ義父母から、春子は隣の子槻を仰ぎ見る。

「いいのですか? 付き合っていただいて」

「食べていきたいのだろう? 久しぶりに会ったのだから、よいに決まっているではないか」

 柔らかに微笑んだ子槻から、春子はぎこちなく目をそらして頷いた。小さく、「ありがとうございます」と付け加える。ふだんは突拍子もないことを言うのに、肝心なところで子槻は春子の気持ちをくみ取ってくれる。それが何だかじわりと温かい。

 そうして、春子は義父母と子槻と共に夕食を囲んだ。鰆の焼き物に、のらぼう菜と菜の花のおひたし、あさりのみそ汁、たけのこご飯のほこほこした味と香りに包まれた。会えなかったぶんを埋めるように、春子はあふれ出てくるたわいない言葉を義父母と交わした。

「お父さんもわたしも心配してるんですけどね、春ちゃんもそろそろお嫁にって。縁談も」

「ああ、それなら心配ありません。わたしのつ」

「今日の猫、可愛かったですよね! ほら、沈丁花のところにいたのら猫です!」

 困り顔の義母を遮った子槻を春子がさらに遮って、誤解は何とか回避できた。「ね、猫……」と子槻はわなないていたが、それ以外は円満に、温かい声と光と香りに満ちていた。


 行灯の光のもと、香水店の畳の部屋で、春子はふたつの香水を作っていた。ひとつは、あの名前も聞きそびれてしまった刀のような令嬢のもの。もうひとつは、子槻にあげようとしているものである。

 春子の家から帰ってきて、もう十時を回っていたが、高揚した気持ちのまま休んでしまうのが惜しくて離れにやって来た。そうして香水を作っているのである。

 ひとつの香水の香りをずっと確かめながら作っているとよく分からなくなってくるので、ふたつの香水を交互にかぎながら並行して作る、というのはよくやる。けれど子槻への香水は作る予定ではなかった。帰ってきてから、作りたいと浮かんできたのである。

 子槻を春子の思う香りで表現して、日頃のお礼として渡したかったのだ。たとえ気に入ってくれなくても、けれど子槻はどんな香りでも受け取って、感激して、微笑んでくれそうだと、気恥ずかしくなる。

 子槻は背広のかすかな毛織物と、白檀の甘やかな香りがする。どんな香りが合うだろうか。白檀を中心にして、バラのような香の紫檀、甘辛い沈香も少しだけ入れてみたい。これだけだと樹木系しかなく落ち着きすぎだから、みずみずしさも加えたい。

(プチグレンビガラアドかプチグレンレモンか。いやでもそれじゃまた枝だし。柑橘系? みかん?)

 頭の中でみずみずしい香りを探し求めていると、引き戸が引かれた音がして、飛び上がった。畳の部屋から恐る恐る接客部屋をのぞくと、行灯のわずかな橙色に白っぽい長着が浮かび上がる。

 同じように白っぽく浮き上がる短髪は、紛れもなく寝巻きを着た子槻だった。

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