第37話 小間物屋の家
子槻が再び泣きそうな、けれど負けじと挑むような目をしまに向ける。
「猫め……愛らしいふりをして春子の手を独占しおって……! いや、しかし今ばかりは寛大に譲ってやろう。わたしは帝国男児だからな! う、うらやましくなど……もう一度ねずみになれば撫でてもらえるのか……」
何だか子槻の声が消えていったが、もしかして猫が嫌いなのはねずみだからなのだろうか。そうすれば追いかけられたという話もつじつまが合う。そう考えてしまって、春子は冷静になった。真面目に捉えてしまったが、人はねずみに変身したりしない。
しまを存分に撫で、ぶちにあいさつをし、別れを惜しみながら春子は子槻と共に小道をあとにした。
歩いていくと、草土の香りが、夕げの香りへ移り変わっていく。
春子は群青の通りに橙の光がもれ出る店へ、足早に向かっていった。店は引き戸などなく、軒先まで座布団やら植木鉢やらがあふれていて、何でも屋のていだ。
店の奥、吊りランプの光の下で、くしやまな板や白粉の缶に囲まれながら髪の白い長着の男性が座っていた。上がりかまちに腰かけて、眼鏡の位置を直しながら新聞に目を落としていた男性が、顔を上げる。
「おお、春ちゃん? 春ちゃんかい? どうしたんだね急に」
「こんばんはおじさん。急でごめんなさい。近くまで来たのであいさつに寄ったの」
春子は義父のもとへ歩む。小間物屋の家を離れてからまだ一か月ほどしかたっていないのに、何だか胸がじんわりとする。
「元気にしてたかい。おい母さん、春ちゃんが来てるぞ!」
義父が上がりかまちの奥を振り返った。奥は住居になっていて、春子もこのあいだまではそこで暮らしていたのだ。
「はいはい。何ですか? お父さん」
着物をたすきがけにして、白い髪をまとめ上げた女性が出てくる。春子と目が合って、目を丸くされて、いっぱいに微笑まれた。
「まあまあ春ちゃん! 元気にしてる? ちゃんと食べてる? 香水のお店はうまくいってる?」
下駄を引っかけて下りてきた義母は春子の前に立って、心配するように春子の両頬に触れる。
「うん。元気だし、ちゃんと食べてるし、香水のお店も順調だよ」
「そう? それならいいけど」
義母は手を離して、ふと春子の横へ視線をずらす。春子が振り返ると、微笑ましいものを見るように柔らかな表情をした子槻が佇んでいた。
「あ、ご、ごめんなさい。ひとりで話しこんでしまって。紹介もせずに」
「久しぶりなのだから当たり前だろう。気に病むことはないよ」
そうして子槻はカンカン帽を取って、義父と義母を交互に見る。
「以前、春子さんの香水の店の件でごあいさつにまいりました、天野商事の天野子槻です。こんばんは」
「ああ、そうよね。春ちゃんのお店でもお会いしましたもんね。男前だった記憶があるもの」
義母は納得したように手を叩く。
義父と義母が「春子がいつもお世話になっております」とあいさつすると、子槻は「いいえ、こちらこそ。わたしのほうが彼女に学ぶことが多いのです」とそつなく返す。とてもまともだが、いつ妻と言い出すかと春子ははらはらしていた。「ややこしいので言わないでください」と定期的に釘を刺しているので大丈夫だと信じたいが。
子槻が義父母に会うのは初めてではなくて、春子が天野家に住みこむことになったとき、一緒に説明に来てくれたのだ。春子は大げさだしひとりで平気だからと断ったのだが、「婦人が知らない場所に住みこみで働くなど、さぞ心配されるだろう。わたしも共に行って説明するのが筋というものだ」と押しきられた。住みこみでなければ嫌だと行ったのは子槻自身なのだが。どうにか納得してもらえたので、結果的にはよかったのだろう。
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