第33話 わたしだけ特別
「春ちゃん」
「な、何?」
「何あの異人さん! お付き合いしてるの?」
みつ子の顔が一気に好奇心でらんらんとする。小声にはしてくれているものの、完全に食いつかれている。
「ち、違うよ! 香水のお店を出すのを援助してくれた人! 話したでしょ?」
「異人さんだったの? わあ、帝国語喋れるの? それとも春ちゃんが外国語で?」
みつ子が柱の陰から子槻をうかがう。のぞき見が気付かれてしまわないかはらはらするが、そんな春子の気持ちとは裏腹に、そっともうひとり女給仲間が柱の陰に加わる。
「何? 春ちゃんやっぱりあの異人さんと男女交際してるの?」
どうやら気になっていたらしいほかの女給たちも集まってくる。
「すっごくハンサムではないけど、顔は整ってるわ」
「可愛い小動物って感じ?」
「もしかして異人さんだから親に反対されて、駆け落ちするために店を辞めたの?」
柱の陰からのぞきつつ言いたい放題の女給たちに、春子は「違います!」と呆れながら答える。子槻が異人なのかはよく分からないが、交際していないし、よく聞けば失礼だし、駆け落ちなど『か』の字も出ていない。
「こら、お前たち何をやっとる! 仕事をしなさい」
店長の声に、女給たちは「いけない」と首をすくめてそそくさと散っていった。みつ子も「じゃあごゆっくりね」と手を上げて足早に去っていく。
春子は何だかぐったりしながら、席へ歩んだ。けれど、言いたい放題の皆でも、憎めないし好きなのだ。
「すみません、お待たせしました」
春子が席につくと、子槻は品書きから顔を上げた。
「もう済んだのか。ちゃんと話せたかい?」
「子槻さんの話題でみんな大興奮でした」とは言えず、春子はあいまいに微笑んで頷いておく。
「何を頼んだんですか?」
これ以上話を広げられないよう、春子は子槻の持っている品書きをさす。
「ああ、まだ迷っていてな」
「そうですか。ううん。僭越ながらおすすめは『オレンジのチョコレイトがけ』ですね。このあいだのチョコレイトの香水はこれを思い出しながら作りました。ほんのり苦みがあって、甘すぎずおいしい、奇跡のお菓子ですね」
「ではそれにしよう」
子槻が力強く即断して、春子は「勧めておいて何だが、本当に大丈夫だろうか」と少し不安になる。
それに子槻は紅茶、春子はあいすくりんと牛乳入りの紅茶を頼んだ。注文を取りに来たみつ子の目が子槻を見つめて輝いていたが、春子は気付かなかったことにしておく。
みつ子が戻っていって人心地ついたとき、「そうだ!」と子槻が思い出したような声をあげる。春子は勝手に体が跳ねる。
「ど、どうしました?」
「春子、最近このりが春子のことを『春』と呼んでいるだろう」
子槻の表情は厳しくなかったが、何かまずかったのだろうかと春子は鼓動が速くなる。
先日、「春」と呼んでほしいとお願いしてから、このりは「春さま」と言ってくれるようになった。別に呼び捨てでも「ちゃん」付けでもないので、問題ないと思っていたのだが。
子槻は不満そうに口をへの字にする。
「さっきの友人も『春』と呼んでいただろう。『春』は小さいころからの春子の愛称だろう? わたしも春と呼びたい」
子槻は駄々をこねる少年のようなふくれっ面で、けれどその駄々がささやかすぎて、春子は呆然とする。
「いいですけれど」
「本当か?」
子槻は表情と声を一緒に弾ませる。
「みんな春と呼んでいますし、特に支障は。育ての父母にも春と呼ばれていますし……春子と呼んでいる人のほうが少なくて、今は子槻さんくらいかもしれません」
思い返して、「あ、あとそういえば綾部さまが」と付け加える前に、子槻が顔をこわばらせる。
「わたししか、いないのか。それならばむしろ春子と呼んだほうがわたしだけ特別に」
春子が玲のことを言おうか迷っているあいだに、子槻は表情を引きしめる。
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