第32話 めいめい亭

「つ、次からはちゃんと言ってもらえれば……分かりました。遊びに、行きましょう」

 子槻が勢いよく顔を上げる。

「よいのか?」

「次からはちゃんと前もって言ってくださいね……わたしも外に行きたくないわけではないので」

「ああ、必ず言おう。では行こうか!」

 今さっきまでのしおれっぷりがうそのようにいきいきしだした子槻に、春子は手を向ける。

「着替えてきてもいいですか? なるべく早く済ませますから」

 せっかく外に出るのだから、よそゆきの着物を着たい。帯も帯結びも帯留も草履も髪のリボンも、何なら半襟だって変えて縫いつけ直したい。

 子槻は顔を輝かせて、強く頷いた。

「もちろんだよ。洋装するのならこのりに手伝ってもらいなさい」

「違います! 洋装はもうこりごりです!」

「なぜだ? 春子の洋装、とても愛らしかったのに……もしや恐ろしい思いをしたから洋装が嫌な記憶になってしまったのか?」

 たしかに、あのときの鮮烈な感情と恐ろしさは時折蘇って体が冷たくなる。洋装を避けてしまうのも無関係ではないのかもしれないが、それよりも着心地の窮屈さがまさって、当分は遠慮したかった。何しろドレスも履物も下着も苦しくてたまらないのだ。洋装は恥ずかしいながら憧れもあったが、もう充分である。

「それなら今日わたしとの思い出で上書きしてしまえば」

 大真面目に言い放った子槻を軽く受け流して、春子は店に『臨時休業』の貼り紙をした。


 ふたりは帝国屈指の一等地、銀柳に降り立った。

 銀柳は春子の働いていた喫茶店がある街だ。柳の街路樹にデパアトメント・ストア、洋食店、断髪洋装の婦人と、国内でもっともモダンな場所である。

 まず春子の働いていた喫茶店でお茶を飲み、散歩をして、最後に春子の義父母に顔を見せにいくことになった。春子の要望のみで決まってしまった予定に、子槻は嫌な顔ひとつせず「春子と一緒ならどこでもよいのだ」と弾んだ笑顔を見せた。いつでもまっすぐな子槻に、春子は戸惑いながらも首筋が熱くなった。

 大通りから一本外れた裏通りに入って、『めいめい亭』と掲げられた店の木の扉を押す。扉についたベルが低めの音をたてる。

「いらっしゃいませ……あれ、春ちゃん!」

 着物に白いレエスの前かけをした女給の少女が駆け寄ってくる。

「久しぶり、みっちゃん」

 黒髪を引っつめた少女、みつ子は年が近かったので、女給仲間では一番仲がよかった。

 再会を喜び合っていると、みつ子の目がかたわらの子槻を捉えて、すぐ戻る。

「いけないいけない。騒いでたら店長に怒られちゃう。こちらのお席でよろしいですか?」

 案内されたのは窓際のふたり席で、ガラス窓にかかるレエスの窓かけが可愛らしい。茶色い机を挟んで、子槻と向かい合わせに座る。

 茶色が基調になった店内は三時すぎということもあって混雑していた。三月も終わりとはいえまだ足元は冷えるからか、ところどころに火鉢が置かれている。天井のシャンデリアは笠がすずらんのような形で、夜会で見たガラスが連なるシャンデリアより、春子はこちらのほうが好きだった。

「ご注文決まりましたらお呼びください」

 みつ子が離れていって、春子は正面で帽子を取る子槻を見つめる。

「すみません、蚊帳の外で」

「構わないよ。わたしの知らない春子が見られて嬉しい。お店もとても愛らしいね」

「そ、そうなんです。このすずらんみたいなシャンデリアが可愛くて」

 気恥ずかしさを店の内装の話でごまかしていると、ふと視界の端でみつ子が小さく手招きしているのが見えた。

「あの、さっきの子が呼んでいるようなのですが……少しいいでしょうか?」

「ああ、行ってきたまえ。話したいことがたくさんあるのだろう?」

「すみません。先に頼んでいてください」

 春子は子槻に品書きを渡すと、席を立ってみつ子のもとへと向かった。「どうしたの?」と首をかしげる春子を、みつ子はお客から死角になる柱の陰まで引っぱっていく。

 そうしてみつ子は真剣な表情で春子と向かい合った。

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