第31話 遊びに行こう
令嬢はひととおり香水瓶を手に取り終えると、引き戸へ身を翻して歩き出した。
「あ、あの! さし出がましいことですが、オオダアメイドもやっておりますので、よろしければまたいらしてください」
令嬢が足を止めて振り返る。切れ長の流れるような瞳が、品定めするふうに春子を見る。
「では、作ってみるがよい」
今度こそ機嫌を損ねてしまったかと春子の鼓動が速まったとき、低めの声が響いた。
「オオダアメイドとはあつらえ品のことだろう。作ってみるがよい」
「ええと、では、どういう香りがお好きかなどご要望をお伺いしたく」
「お前が好きに作るがいい。どういうものができ上がるか、見てやろうではないか」
令嬢の表情は冷ややかで、けれどそれを押さえこもうとしているような、一色ではない感情を帯びていた。睨もうとしてためらったように難しい顔をしているので、微笑んだらさぞかし綺麗だろうにもったいない、と場違いなことを思ってしまった。
「それでは、わたしがお嬢様に合うような香水をお作りします。それでよろしいでしょうか?」
「それでよい。気に入ろうとも気に食わなくとも、代金は支払う。お前がどんな仕事をするのか見極めたいだけのことよ」
「が、頑張ります。十日ほどかかりますので、でき上がりましたらご連絡します。お名前とご連絡先を伺っても」
「また来る」
令嬢は春子の言葉を切ると、静かに、引き戸まで閉めて店を出ていった。
「あ、ありがとうございました!」
春子は遠ざかっていく令嬢の後ろ姿が見えなくなるまで外を見つめていて、ようやく息を吐き出した。
(やっぱり武家の貴族のお姫様だったのかな)
言葉遣いが昔めいていたのと、何となく切れ味鋭い刀のような雰囲気があったからだ。春子の予想でしかないのだが。
あの令嬢に合う香水を、と広すぎて難しい注文を受けてしまったが、浮かんできたものはある。かぐわしい月下香、鋭い薄荷、妖艶な龍涎香。令嬢を体現するような香水を、と香料の組み合わせがつぎつぎ浮かんでくる。とても作りがいがある。
忘れないうちに書きとめようと、春子は畳の部屋に上がった。龍涎香まで書きつけたとき、勢いよく引き戸がひらかれた大きな音に飛び上がった。
「春子! 遊びに行こう!」
近所の子どもの誘いかとつっこみたくなるような声のぬしは、当然誰だかもう分かっている。春子は草履を履いて接客部屋へ戻る。
藍色の長着に灰色の羽織、小麦色のカンカン帽をかぶった子槻が、落花生の中身のような瞳をきらめかせて、立っていた。
「あれ、長着珍しいですね」
「そうかい? 帰ってきてからはいつも長着だよ?」
そういえば数回見かけたかもしれないが、大抵子槻は帰ってきてすぐ春子のところに駆けこんでくるようなので、背広の印象しかない。
「洋装は肩が凝るからな。やはり長着が一番だ。というわけで今日は仕事がない。遊びに行こう! 春子も仕事ばかりじゃあ疲れるだろう?」
「というわけでではありません! 何ですかまた急に」
「今日は家でも仕事がない。だから遊びに行こう。わたしはずっと春子と遊びに行きたかったのだ」
幸せをいっぱいににじませた微笑みに危うく流されてしまいそうになるが、踏みとどまる。
「ま、待ってください、お店をあけるわけには」
「臨時休業でよいのではないだろうか」
「そんな急に言われても……前もって言っておいてもらえれば、わたしもお店もちゃんと準備できたのに」
春子の苦言に、子槻は突然目が覚めたように表情を揺らめかせる。そうして慌てたように視線をさまよわせて、落とす。
「たしかに春子の言うとおりだ。わたしはまたひとりで先走って浮かれてしまった……すまなかったね」
まさに叱られた子どものようにしおれてしまった子槻に、春子のほうが慌てる。別に怒っているわけではなく、こうだったらと言っただけなのに、子槻は言葉を素直に受け取りすぎだ。
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