第34話 本当の持ち主

「春子、やはりわたしは春子を春子と呼ぶことにする。わたしはいつだって春子に特別でありたいのだ」

 真面目に、自信いっぱいに見つめてくる子槻に、春子は玲のことを飲みこむ。同時に、呼び方ひとつでここまで感情を揺らす子槻が何だか可愛らしく思えて、袖で口元を押さえて笑っていた。

 みつ子が運んできてくれたオレンジのチョコレイトがけ、あいすくりん、紅茶を、それぞれふたりで味わった。

「うむ。たしかに美味だ。香水とまったく同じではなく、けれど春子が思い出しながら作ったというのがよく分かる」

 子槻がオレンジのチョコレイトがけを口にしながらしきりに頷いて、春子は見立てが合っていてよかった、と胸を撫で下ろした。三月にはまだ肌寒いあいすくりんも、牛乳入りの熱い紅茶と交互に口に入れて、甘く溶けるのを幸せいっぱいに味わった。


 喫茶店で話をしてから、デパアトメント・ストアをのぞいて回った。春子は冷やかしのつもりで、反物や宝石のついた指輪などを眺めていたのだが、子槻が「どれがいいのだ?」とか「これがほしいのか」とか聞いてくるので、断るのが大変だった。

 メロン、オレンジ、ぶどうが綺麗に並べられたガラスのケエスの前を通りすぎると、子槻が春子を見つめてふと目を細める。

「君の着物と同じ柄だな」

 せっかくの外出なのだから、ぜひよそゆきの着物に着替えたいと、春子は果物柄の着物にしたのだ。水色にオレンジ、ぶどう、さくらんぼなど、さまざまな果物が散る。帯留も色ガラスのさくらんぼだ。

 実は着替えてすぐ「フルウツとはハイカラだね。春子は何を着ても愛らしいが、いっそう愛らしいよ」と手放しでほめられたので、戸惑いながらも礼を言っておいた。多分子槻は何かの術で春子のことが九割増しほど美しく見えているに違いない。

 外に出ると日は傾き始めていて、最後に日乃出公園を散歩してから春子の家へ行こう、ということになった。

 銀柳から歩いて十五分、日乃出公園に入る。

 西洋式に綺麗に整えられた花壇には、たくさんのバラの苗が植えられている。残念ながらまだ花は咲いていないが、もう少し暖かくなればきっととりどりの色があふれるのだろう。春子は子槻と花壇のあいだを抜けて、園内の土の道を歩く。

 道の横には見上げてもまだ足りないくらい立派なけやきが何本もあって、今は落葉しているが、夏にはそれはそれは快い木陰になるに違いなかった。

 藤棚、太鼓橋、東屋と回ってきて、鶴の銅像がしぶきをあげる大きな噴水の前で、子槻が風にカンカン帽を押さえる。

「風がでてきたね。寒くないかい」

「平気です。歩いているので暖かいです」

 子槻は「そうかい」と安堵したように微笑んで、帽子を取った。強い風に吹き上げられたきなこ色の髪が、後ろで砕ける水の粒と、濃い橙色の夕日と混ざり合って、細い鎖のようにきらめいていた。

「綺麗」

 春子は思わず呟いていた。子槻が不思議そうに振り向く。

「あ、いえ、その……子槻さんの髪の毛がきらきらしていて綺麗だったので」

 気を悪くしてしまうだろうか、と不安になったが、子槻は柔らかく表情を崩した。

「春子にほめられるのはとても嬉しい。大方きつね憑きだの何だの言われるが、わたしはきつねではなくねずみだし、けれども春子にならば何と言われても構いやしないよ」

 子槻と春子は自然と立ち止まっていた。春子は夜会で子槻がきつね憑きだと噂されていたのを思い出して、視線をさまよわせる。

「異人さんの血が混ざっているのですか?」

 仰いだ子槻の表情はとても穏やかで、けれどほんの少し眉が悲しそうな形をしていた。

「わたしが君を迎えに行くと約束したあと、わたしは人間になるために人の体を探したのだ。神のままでは年も取らないし、君と添いとげることができない。何より神のままでは、人と、君と気持ちを分かち合うことができない。だから、探して探して、ようやく体を譲ってくれる少年を見つけたのだ。名を、天野響生(あまのひびき)という。この体の、本当の持ち主だ」

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