第30話 鮮烈な赤

「やあ子槻」

「ああ玲。こんなに短期間で会うとは、それこそいつ以来だろうな?」

「中学校以来じゃあないか? あのときは毎日嫌でも顔を合わせざるを得なかったからな」

 玲は軍帽を取って子槻へ軽く手を上げると、春子のほうへやって来る。

「春子さん、開店おめでとう。ささやかだけれど」

 一抱えもあるチュウリップの花束を渡される。生花の澄んだ香りが空気に広がる。

「ありがとうございます。とてもすてきです」

「君という花の前ではこの花たちもまったく敵わないけれどね」

「当たり前だろう。春子は花よりも愛らしくてよい香りがするのだ」

 玲と子槻がそれぞれ何か言ったが、まともに考えると赤面してしまいそうなので聞かなかったことにする。

「お、おかけになってください。お茶を淹れてまいります」

「お構いなく……と思ったが、ほかにお客さんがいないのならお言葉に甘えようか」

「はい、そうなのです。お客さんがいないのです……」

 うつむいた春子に、玲が慌てて手を振る。

「ああいや……まだ皆眠いだけさ。昼をすぎればやって来るよ」

 そう願います、と口にしようとしたとき、引き戸がひらく音がして、驚いて顔を上げた。

「ごめんくださいまし。子槻さん、あら、綾部さまのところの……玲さん?」

 藤色の着物に髪を結い上げた中年の婦人が子槻を見て、玲を見て、春子に視線を移す。

「ごきげんよう。春子さん」

 水谷男爵夫人、清美が穏やかに目を細めていた。

 春子は輪郭が薄く日の光を帯びた清美を見つめて、抱えていた花束が潰れそうなくらい思いきりお辞儀をした。

「いらっしゃいませ! ようこそお越しくださいました!」


 格子縞香水店をひらいてから一週間がたった。初日、清美が桜の香水を買い求めて、あつらえ品も依頼していったあと、義母が激励に来てくれた。そのあともひとり令嬢がやって来て、ほかのお客さんもぽつぽつと訪れてくれた。通りすがった人はまだいないようだが、閑古鳥が鳴くのは避けられてありがたいかぎりだった。

 今は昼をすぎてお客さんがいないので、接客部屋の隣にある部屋のふすまを開け放って、あつらえ品の香水を作っている。こちらは接客部屋と違って畳に低い机に座布団なので、心の底から落ち着く。天野家の中で一番落ち着く部屋なので、いっそここで生活したいのだが、「離れは目が届かないだろう。不届き者がやって来たらどうするのだ」と子槻に血相を変えられ、断念した。

 ちなみに、「あつらえ品は近頃オオダアメイドというのだよ」と子槻が教えてくれたので、春子も慣れないながら言ってみている。

 そうして香料を混ぜ合わせていたら、引き戸の音がした。春子は急いで草履を履いて接客部屋へ出る。

「いらっしゃいませ……」

 店内に佇む人影に、春子は息をのんだ。

 鮮烈な赤だった。赤い牡丹が、金の散った薄紅の着物に描かれている。帯は月白色に金糸の丸文。帯留はべっこうのきつね。赤い大きなリボンのついた髪は黒く腰の下まであり、肌は白粉などいらないほど整っている。

 その白い面の中で、切れ長の黒い瞳が、強く春子を見つめていた。

(ど、どこかの貴族のお嬢様だろうか)

 先日の夜会では会っていない。全員を覚えているわけではなかったが、これだけくっきりした印象の令嬢なら記憶に残るはずだ。宣伝した誰かの家族だろうか。はたまた初めての通りすがり客か。

 令嬢は春子から視線を外すと、棚に並んだ色ガラスの香水瓶のほうへ歩んだ。

「あ、ど、どうぞご覧になってください。何かあればお申し付けください」

 令嬢は振り向くこともなく、もしかして礼を失してしまったのだろうかと春子はひやひやする。ぶしつけに見つめてしまったからだろうか。

 けれど牡丹の着物は当たり前に、たっぷりとした黒髪も、香水瓶を手に取る所作も、すべてが響き合って『綺麗』だ。身分ある婦人はお供をつけるもの、と子槻の両親も言っていたが、どうやらひとりのようなので、お忍びなのだろうか。

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