ねずみオオダアメイド

第29話 開店の日

 木とい草の空気に満たされた、日曜日の午前十時。春子は落ち着かない鼓動を持て余しながら、店内入口の引き戸の前に立つ。ガラスの向こう、光あふれる木立を眺めた。

 格子縞香水店、開店の日である。

 改修された店内は元が和室だったということもあり、引き戸などそのまま残してもらった。隣の調合部屋にはふすまや畳もあるが、接客部屋は舶来のつやつやした茶色の机が置かれて、和洋折衷になっている。同じくつやつやした棚に、色も形もとりどりの瓶に入った香水を並べた。今ある香水だけでなく、顧客の希望を聞いて作るあつらえ品も扱う予定だ。けれどそのためには絶対に必要なものがある。

 春子は木立しか見えない引き戸から、かたわらに立つ子槻を仰いだ。子槻は心配そうに瞳を細める。

「春子、座っていてもよいのだよ。腕は? 痛まないかい」

 相変わらず心配性な子槻に、春子は「平気です」と苦笑する。店番は春子ひとりでもよかったのだが、最初だからやはり心配だということで立ち会ってくれているのだった。日曜日だから仕事は休みなはずなのに、きっちりこげ茶の背広を着ている。

 すでにある香水にもあつらえ品にも必要なもの、それはお客さんだ。

 夜会から二週間、宣伝させてもらった人々には開店の手紙を送ってある。勤めていた喫茶店も急いで引き継ぎを終わらせ、謝りつつも円満に辞めてきた。なのでこれから毎日、念願だった香水の店で働くことができる。しかし。

 開店から三十分たっても、まだ誰も来ない。

「お茶でも淹れようか」

 子槻が奥の引き戸を開けて歩んでいく。離れのときからある小さな台所をそのまま残してあるのだ。

「あ、お茶ならわたしが」

「いけない。傷に障るだろう。それにわたしだってお茶くらい淹れられる」

 なぜか挑むような声で制されてしまい、春子はおとなしく茶色の机のそばまで戻る。着物の下の左腕はまだ包帯が巻かれているが、かすかに痛む程度だ。

(お茶、淹れられるのかな)

 思わず口元が緩んでしまう。

 そういえば店名の『格子縞香水店』は春子が考えた。子槻に店名を決めようと言われたとき、悩んで、自分の格子縞の着物が目に入ったのでそれにしたのだ。子槻は「春子とわたしの名前から一字取ってつけたらどうだろうか。ふたりの子どものように」と真面目な顔でとんでもないことを提案してきたので却下した。

 もちろん、春子は今日たんぽぽ色に橙色の格子縞の着物を着ている。後付けだが、格子縞のように香水で人と人が交わるきっかけを作れるように、と割と気に入っている。恥ずかしくて口には出せないが。

 子槻が緑茶を運んできてくれて、ふたりで机に向かい合わせに座って飲んだ。水の量が多かったのか、薄かったが、おいしかった。

「おいしいです」

「そ、そうだろうか。薄くなってしまったが……」

「渋いよりは飲みやすいです」

 子槻は「もっと練習せねば」と決意を秘めた目をしていた。

 これはこれで心地よい時間だが、お客さんは来ない。天野家の離れ、という位置なれど、塀などはないので通りかかった人が看板を見て入ってきてくれればいい。けれどいかんせん木々深いところにあるので、もともと人が通らないのだそうだ。

 なので子槻は最初は上流階級の人々からあつらえ品の依頼を受けて、慣れてきたらもっと大々的に宣伝しようと考えていたのだという。店を出させてもらえただけでとてもありがたいので、立地に文句などつけるわけにはいかない。

 せめて呼びこみでもしてこようかと引き戸に目をやったとき、何か動くものが見えた。思わず立ち上がると、引き戸がひらく。

「こんにちは。春子さん」

 紺色の軍装に、このあいだはしていなかった軍帽をかぶっている。そして胸元には、抱えるほどの大きなチュウリップの花束。

 夜会で会った子槻の友人、玲が微笑んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る