第28話 大人のチョコレイト
「子槻さん、手首を出してください」
子槻はためらいを含んだ表情ながらも、素直に手を出した。まくり上げられた手首に、春子はふたの裏についたガラス棒から点々と液体をつける。子槻の瞳が揺れる。
「チョコレイトの香りをちゃんと香水にしました」
夜会の前、春子が作ったチョコレイトの香水はまだ試作品だったから、もう少し調整したいということで夜会には持っていかなかったのだ。それを、香水として自分が納得いくように完成させた。
トップノオトはレモン、オレンジ、隠し味にライム。ミドルノオトはダバナと少しのコニャックで、ラストノオトのカカオとビイワックスを洋酒の香りで包みこんだ。砂糖漬けにしたオレンジの皮に、洋酒とチョコレイトをまとわせたお菓子を思い出しながら作った。
チョコレイトのかかったオレンジは、勤めていた喫茶店でたまに余りが出ると食べさせてもらって、何ておいしいお菓子なのだろうとため息が出た。チョコレイトだけでもおいしいのに、オレンジの皮を甘くしてチョコレイトで包もうなどと考えた人は天才ではないかと思った。
だから、この香水は甘くて、少し苦みがあって、洋酒の香る、ちょっと大人のチョコレイトだ。
「よい、香りだ。食べたくなる」
子槻の表情が緩んで、春子は微笑んだ。
「お腹がすいてしまうので、つけていく場所を選ばないといけませんね」
「違いない。腹が鳴ってしまうと困るからな」
子槻は穏やかな顔で手首をかいで、小さく息を吐き出した。
「困らせてしまって悪かったね、春子。傷にも障るから、そろそろ戻るとしよう。ゆっくりお休み……本当はこのままずっと付き添っていたいのだが」
「え、ええと、さすがに、このままずっとは、ちょっと」
夫でもない異性が夜通し部屋にいるなど、ふしだらすぎる。たとえこのりが一緒だったとしてもだ。
「わ、分かっている。冗談だ。さすがにそこまでわたしも破廉恥ではない」
春子の反応を深刻に受け止めてしまったのか、子槻が気まずそうに顔をそらす。頬が薄く赤みを帯びる。恥ずかしがるのなら最初から言わなければよいのでは、と春子は心の中でつっこんだが、自分も頬が少し熱くなったので口には出さない。
そうして子槻は名残惜しそうに春子の部屋を出ていった。子槻が去ってから、このりも一礼して部屋を出ていこうとする。
「あ、このりさん、待って。よければ香水をつけていきません?」
このりが扉の前で振り返って、黒々とした瞳をさらに大きくする。先ほど子槻とチョコレイトの香水の話をしているとき、このりが興味津々の顔つきで見つめていたのだ。
「よろしいのですか?」
そう言いつつ、このりはすでに春子のそばまで戻ってきて、顔全体を輝かせている。このりは子槻よりしっかりしているが、未知のものに対する素直な目の輝きは、仕えている子槻にそっくりだ、と微笑ましくなる。
このりの手首にチョコレイトの香水を落とすと、このりは驚いて、それから溶けるように笑顔になった。
「おいしそうです。あたし、香水をつけるの初めてです。おいしそうだけど、それ以上にとってもいい香りです」
「よかった。このりさんはほかにどんな香りが好きですか?」
「ううん、焼いた鮭の匂いとか、日なたの洗濯物の匂いでしょうか……と、そんなものは香水にはなりませんよね」
「鮭の香りはわたしには作れないかもしれませんが、お日様の香りはわたしも好きですよ」
「春子さま、女中には敬語でなくてよいのですよ」
にこやかなこのりの顔を見て、春子はそういうものなのか、と思った。今まで女中のいる生活などしたことがなかったからだ。
「あ、じゃあ、このりちゃんって呼んでもいいですか? でなくて、いい、かな? 年の近い子がいなくて寂しくて。わたしのことも春って呼んでもらえれば」
友達からは大体「春ちゃん」と呼ばれていた。
このりは少しだけはにかんだように、けれどすぐ弾けんばかりの笑みで頷いた。
「ええ。もちろんです。とても光栄です。では、あたしからは春さま、と」
微笑み合うと、何だか恥ずかしくて、くすぐったかった。甘いだけではないけれど、誰もが嬉しくなってしまうようなチョコレイトの香りが、漂っていた。
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