第25話 生きてきてしまった

 厠は外で、館から少し離れた場所にあった。用を済ませて、春子は広間へ戻ろうと歩き出す。あたりには橙色のガス灯がぽつぽつと立っていて、石張りの足元と西洋式の庭園を淡く浮かばせていた。

(ちょっとくらいなら、いいかな)

 子槻はまっすぐ戻ってくるようにと心配していたが、少しひとりで落ち着きたかった。春子は西洋庭園へ足を踏み入れる。

 黒の曲線を描く鉄の柱に、葉が絡みついている。両脇には白く厚い花弁の花と淡い紫のすみれが咲いて、空気に甘い香りが含まれているようだった。道の先には柱と同じ黒の曲線でできた腰かけと東屋があり、ああいうところで慕い合う男女が語らったりするのだろうか、とわずかに鼓動が速くなった。

 連鎖のように子槻の顔が浮かんできてしまったが、すぐにかき消した。子槻が春子に優しいのは、恋慕ではなくて多分父親のような慈愛だ。春子の父は春子が覚えていないくらいに亡くなったそうなので、想像でしかないのだが。

 館の中とは違う、土と葉とかすかな花の香りがする冷たい空気で体を満たしていると、東屋の向こうで橙色の明かりが揺れたのが見えた。ガス灯の炎かと思ったが、それにしては位置が低いし、頼りなく動いている。行灯か手燭か、誰かがいるのか、春子はそっと近付いていく。

(あ、でも人目を忍んで会ってる方々だったら、静かに去らないと)

 逢瀬に遭遇してしまったら恥ずかしい。そんなことを考えながら段々明かりに近付いていって、それがむき出しの炎だと分かったとき、春子は息を止めた。

 庭園の、冬の枯草と生え始めた芝生のところに、燕尾服の青年が立っている。目を見開いて地面を凝視して、丸めた新聞を持っている。新聞の中ほどには、炎が。震えているのか、不安定に揺れる炎が青年の顔を覆う影の形をせわしなく変えていく。

 春子の心臓が、嫌な速度で鼓動を増し始める。どうひいきめに見ても、こんなところで火のついた新聞を持って立っているなど、普通ではない。頭の中に、『夜会荒らし』の単語が蘇る。本当にそうだったとしても、そうでなかったとしても、誰かに知らせなければ。足音をたてないように、きびすを返す。

 瞬間、石張りの道に靴のかかとが引っかかった。音と共に靴が脱げて、転びそうになったのをこらえる。全身の血が引いた。振り返ってはいけない。このまま走り出さなくては。

「待て!」

 声に、体がすくんだ。足が動かなくて、芝生を踏んでくる足音が近付いてきて、振り返るしかなくなる。

 青年の背後では、芝生が炎を吹き上げていた。新聞を投げたのだろう。油でもまいてあったのか、火の大きさが尋常ではない。

 煌々とした炎を背に、青年が懐から短刀を取り出す。ガス灯など比べ物にならないほど強い橙色のなか、青年が顔を引きつらせるのがはっきりと見える。

「僕が、僕がやらねばならんのだ!」

 青年は雄叫びをあげながら、駆けて、短刀をつき出した。

 春子は迫り来る切っ先を、見ていた。感情が追いつかない。刺されて、死んでしまうのか、と思って、ふとろうそくを吹き消したように心が奈落へと落ちる。

 でも、これで死ぬことができる。死にたいと思って、けれど自分では怖くて死ねずにいた。生きてきてしまった。だから、これで。

『お前を迎えに行こう。だから、二度とそんな悲しいことを口にしてはならない』

 声が、聞こえた気がした。

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