第24話 その人だけの香り
最近、同じような色をどこかで見た、と思ったとき、子槻が顔をかたむけてほんのわずかに近付けてきた。春子は反射的に体ごと引いたが、踊りの体勢のせいで離れられない。
「いい香りだ」
春子は今日、自分自身が見本として桜の香水をつけている。そのことか、と少し安心した。
「そ、そうですね。桜はみんな好きですし」
子槻はおかしそうに笑う。
「それもそうだが、それだけではないよ。香水はやはり人の肌につけてこそだ。同じ香りでも混ざり合って微妙に違ってくるだろう。『春子の』桜の香り、とてもいい匂いだ」
香水はその人の肌の香りと混ざり合って、同じ香水でもその人だけの香りになる。子槻の言っていることは正しい。笑顔にも何の含みもないように見える。だから春子の思考がおかしいだけなのかもしれない。けれど、『春子の肌の香り』と混ざり合った香りをいい匂いというのは、春子自身の香りをかがれたようで、それは。
(子槻さんの破廉恥!)
声には出さなかったものの、春子は子槻の足を思いきり踏んでいた。羞恥からの無意識だ。意図的にではない、断じて。
足を踏んでしまったことを謝って、春子は何とか踊り終えることができた。続けて踊りたがる子槻をなだめすかして、踊りの輪から離れる。
「厠に行く」ということを何とか遠回しに伝えると、「ではまっすぐ戻ってくるのだよ。危ないことがあったらすぐまわりに助けを求めなさい。よいね?」と過剰に心配された。大げさでは、と思いつつ、子槻は心配性の気があるので素直に頷いておいた。やはり不安そうな顔で見送られながら、広間の扉へ歩き出す。
子槻には言わなかったが、足の裏が痛い。草履は全体的に底が厚いが、靴はかかとの部分だけが高くて、足が折れ曲がるからだろう。足が全部包まれているのも窮屈だ。つくづく洋風の履物は脱ぎたくてたまらなくなる。
足をかばいながらゆっくり人のあいだを縫っていると、耳に低い音が引っかかった。
「あの娘、さっき天野商事のきつね憑きと踊っていた……」
早速子槻の評判を落としてしまったかと背中が冷たくなったが、それより気になる単語があって、迷っているふりをして歩みを落とす。
「ああ、天野商事のきつね憑きか。あれだろう。一度死んだはずなのにきつねに憑かれて生き返ったという」
「病気を治すため祈祷して逆に憑かれたのではなかったか?」
「どちらにせよあの髪の色がきつね憑きの証だろう」
聞こえてくる声音はあきらかな揶揄で、春子は勇気を出して声のほうを振り返った。含み笑いをしていた燕尾服の男性ふたりが、春子の視線を受けて露骨に顔をそらす。春子はぱっとしない気持ちながらも、広間の出口へ歩き出した。
天野商事のきつね憑き、とは子槻のことだろう。たしかに子槻の髪はきつねのような色合いをしているし、瞳も赤かったが。そう考えたところで、思い出した。どこかで見た色合いだとは思っていたが、このあいだ部屋にいた人懐こいねずみと同じなのだ。
そういえば子槻は最初に会ったとき、自分はねずみだ、神だ、とよく分からないことを言っていた。あのねずみは子槻だったのか。
(いや……さすがに、それは)
人がねずみになるなどということを無邪気に信じられるほど、春子は子どもではなかった。不思議なことが本当におこればすてきだな、とは思うが、空想を信じるかはまた別の話だ。
けれど、子槻には尋ねてみたかった。「きつね憑きなのですか?」とはさすがに失礼すぎて聞けないが、春子は子槻のことを何も知らないのだ。
なぜ、『涙香』のことを知っているのか。
もう少し、子槻のことを、知りたい。
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