第9話 香水を作る理由

 今日会ったばかりの人の言葉をうのみにするなど、本当にばかげているし、どうかしている。えたいも知れないし問題しかない。

 けれど、答えられなかったのだ。ほんの少しでも、怪しくても、可能性の端をつかむことができるかもしれない、とよぎってしまったから。春子ひとりではきっと届かない、その届かないものを手に入れられるかもしれないと期待がかすめてしまったから。

 どうして、突拍子もないことを言うのに、春子の心の中にあるかすかなものを丁寧にすくい取っていくのだろう。

 國彦が、静かに長く息を吐いた。

「子槻、いいかげんにするように」

「いいえ。わたしは真剣です」

「お前の勝手な振るまいも世迷い言もすべていちいち指摘しなければ分からないのか。どこの誰とも分からぬ娘の店を敷地内に出すなど、なぜ許されると思ったのだ。逆に問おう」

「わたしは春子を昔から知っており、香水作りの腕もたしかです。なぜ許さないのか理由をお聞かせいただけますか?」

 國彦は一度口をつぐんで、瞳を細めた。

「身元の分からない娘の店を敷地内に出すということは商事の信用にも家名にも関わる。責任を取れるというのなら家の外で勝手にやるがよかろう」

「いいえ。離れがあるでしょう。あそこは使われていない。初期費用はできるかぎり抑えるべきです。それに何より、わたしは春子がそばにあって、そばで香水を作るところを見ていたいのです」

 はたで聞いている春子にも、もはや子槻の主張はただのわがままなのでは、と思えてきた。そのぶん、飾りのない本音であることはよく分かったが。

 けれど、子槻は自分が間違っているなどとはみじんも思っていない、堂々とした姿勢を崩さない。

「先ほど、家名と商事の信用に関わるとおっしゃいましたね。ならばどちらもおとしめず、商事の宣伝になればいいだけのこと。春子」

 子槻が突然春子を振り向いて、春子は肩を跳ね上げて「はい!」と反射的に返事していた。

「今ここで香水を作っておくれ」

 頭の中にまったくなかった言葉に、春子は声を出せなかった。

「実際に春子の香水をかいでみれば父上も納得されるはず。もし納得されたなら店を出すことを許可いただけますね」

 子槻は何の迷いもなく國彦へ向き直ったが、春子は次第に指先が冷たくなっていくのを感じた。

(そんな、無茶な)

 仮に春子が最高の香水を作ったとしても、國彦は絶対に受け入れないだろう。すべては國彦の口先だけで決まってしまうのだ。

 國彦は子槻以上に堂々とした態度で子槻を見据えた。

「いいだろう。そんなに自信があるならば作るがいい。ただし納得できなかった場合には今後お前の世迷い言すべてをあらためよ。そこの娘とも二度と会うな」

「分かりました」

 子槻はまったくためらわず、芯のある目を國彦からそらさなかった。

 春子が声を出せずにいると、國彦は子槻に視線を止めたまま目を細くする。

「もっとも、どんなにうまく作ったところで、どこの誰とも分からぬ娘が作った香水など、富のある者が受け入れると思えんがな」

「父上」

 とがめる声をあげた子槻を遮って、春子は一歩前に出た。気付いた子槻が気遣わしげな視線を投げてくる。

 本当は、香水を作るべきではない。子槻の提案も、春子は店をやると答えていないのだから、断ってこのままおとなしく去るべきだ。

 けれど、店とは関係なく、香水を作る理由が、生まれ始める。

「ご無礼を承知で申し上げます。わたしのことを平民とでも何とでもさげすまれるのは構いません。けれど平民が作った香水だからと、品物までさげすまれるのは納得いきません。平民が作ろうが貴族が作ろうが美しいものは美しいですし、素晴らしいものは素晴らしいです。でき上がった品物に身分は関係ありません。ですから、香水を作らせていただきます」

 香水は、小さなころから作っていた。完璧とはいかなくても、望むものを作れるくらいの技量はある。だから身分で香水を切り捨てられてしまうのは、とても歯がゆくて、悔しくて、耐えられない。

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