第8話 君の夢

 子槻とハナが押し問答を続けるなか、新しい声が割って入る。春子が振り向くと、ハイ・カラアにネクタイ、栗色の背広を着た壮年の男性が歩んできていた。口の上に綺麗にひげをたくわえていて、髪は後ろへ撫でつけられている。隙のない身なりと同じく、目にも一切の油断がない。

 ハナが緊張したように口をつぐむ。男性は子槻の前で立ち止まった。

「父上、ちょうどよいところに。紹介します。櫻井春子さん、わたしの妻になってくれる女性です」

 子槻は朗らかに男性に笑いかけて、春子は心の中で絶叫した。喉は凍ってしまって、声が出せない。あきらかに、まずい。ハナと比べてもさらに冗談で押し通せるような相手に見えない。

「春子。こちらは父の天野國彦だ」

 けれど子槻は場の雰囲気などまったく気にせず、朗らかなまま國彦を手で示した。

 國彦はほんのわずかに目を細くして、子槻を見やる。

「子槻。世迷い言はいいかげんにするようにといつも言っているはずだが」

「世迷い言などではありません。いつも言っているはずです。わたしにはずっと妻にしたい女性がいると。それが春子です」

 子槻に手を向けられ、春子は縮み上がる。否定しなければとせめて一言でも声を絞り出そうとするが、國彦の温かみを感じさせないまなざしに喉がつまる。

「突然えたいの知れない娘を連れて来て妻にするなど、世迷い言以外の何だというのだ」

「わたしは本気です」

「お前を平民の娘と結婚させるつもりはない」

 子槻はそこで初めて不服そうに眉をひそめた。

「父上も母上も同じようなことをおっしゃる。そんなに身分が大切なのですか? ならば春子が益をもたらす者と分かってくださればよいでしょう。春子は香水が作れます。舶来のものにも理解がある。わたしにも、商事にとってもよき妻となってくれるに違いありません」

「子槻さん」

 さすがに春子も焦って遮っていた。子槻は弁論の熱が冷めやらぬ様子で「何だい」と振り向いたが、春子の顔を見て思い出したようにうろたえた表情になる。

 春子はみぞおちのあたりにたまった重いものを押さえながら、國彦と目を合わせる。

「お約束もなくこのお宅に立ち入ったこと、申し訳なく存じます。けれど子槻さんとは今日初めて会ったばかりで、あまりに身分も違いますし、子槻さんの申し出を受けようとは考えておりません」

 視界の端で子槻が傷付くようにうなだれたが、ここでうそをつけば余計に話がややこしくなる。睨まれているわけではないのに、拒絶しか感じない國彦の瞳から目をそらしたくなるのを必死にこらえる。

「ですので、おいとまさせていただこうとしていたところでした。お騒がせいたしました」

 腰を折る。ずっと体を支えたままでいてくれたこのりの手が、着物を小さくつかんだのが伝わってきて、ほんの少しだけ、ひとりではないと思えた。

「すまない、春子」

 子槻の痛ましい声に、春子は思わず顔を上げる。

「わたしはまた君の気持ちを無視してひとりで熱くなってしまった。許しておくれ」

 子槻は痛みをこらえるように両眉を寄せていて、うそのない目で春子を見つめていた。ここまで真剣に感情をぶつけられると、少し場の雰囲気が読めないところもあるけれど根は悪い人ではないのだろう、と思ってしまう。

「賢明な判断だ。子槻、お前よりずっと」

 感情の読み取れない國彦の声に、子槻は別人のように冷静な表情をはりつけて振り向く。

「妻のことは春子の気持ちを考えてからお話しすべきでした。けれどわたしにも商事にも益になるというのは変わりありません。先ほど春子は香水が作れると申し上げました。うちの敷地内にわたしのお金で香水の店を出すことを許可していただきたい」

「ま、待ってください、それは」

 店をやりたい、などとはまだ一言も言っていない。けれど子槻は今度は確信のある澄んだ瞳で春子を振り向いた。

「妻のことがなければ君は店を出したいのだろう? ずっと前から君の夢だったのだから」

 そんなことはない、急すぎる。そう、とっさに言えなかった。

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