第7話 自分を許してはいけない
「君にとっては思い出したくない香りかもしれない。けれどつらいだけの香りではないと、今日わたしがつけて君の記憶を上書きしたかったのだ。これは君とわたしをつなぐ約束で、目印だったから」
訴えるように言葉に力をこめていた子槻が、そこで気付いたように目を見張る。
「春子。もしかして『涙香』のことも忘れているのか?」
覚えている。子槻の言っていることは分からないのに、『涙香』のことは覚えている。忘れられるはずがない。いっそ忘れられたら楽だったのにと思ってしまった自分を心の中で激しく罵る。
忘れて楽になりたいなどと思う資格はない。『涙香』は春子にとって、逃れられない罪だ。
だから、自分を許してはいけないのだ。
「覚えて、います」
答えて、目の前が揺れているような心地がした。「春子」と手を伸ばそうとした子槻より速く、わきに控えていたこのりに体を支えられる。
『涙香』は、つけてはいけない。たとえ神でも、殺してしまうから。
「子槻さん!」
春子のものではない、女性の悲鳴めいた声が空気を裂く。春子は驚いて声のほうを振り返った。
柿渋色のじゅうたんが続く廊下に、髪を大きく膨らませるように結い上げた女性が立っていた。着物は濃い藍色の裾に白い桜が描かれていて、しっかりとした滑らかな地から上等なものだと分かる。走ってきたのか、女性は胸に手を当てて、肩で息をしていた。
「母上。どうされたのですか」
子槻が呼ぶと、女性は子槻のもとまで小走りにやって来る。
「出かけるときはちゃんとお言いなさいといつも言っているでしょう? あなたが出かけていたと聞いて」
「母上、子どもではないのですから、そんなに心配なさらずとも大丈夫ですよ」
「いいえ、いいえ。子槻さんに何かあったら、もう帰ってこなかったら、わたしは……」
笑って応じた子槻に対し、子槻の母は今にも泣き崩れそうにかぶりを振った。春子のことは目に入っていないようだ。
「ああ、ちょうどよい機会です。紹介します、母上。櫻井春子さん、わたしの妻です」
春子は耳を疑った。母が春子を振り返って、うろんな者を見るまなざしを向けてくる。
「違います! そのお話はいったん置いておくことになったのではないのですか」
「ああ、そうだったね。失敬、つい癖で」
(癖って何!)
声には出せないので、心の中でつっこむ。
母はいぶかしむ目つきのまま、春子を上から下、また上まで眺めた。
「あなたが? いつも子槻さんが話していた?」
(いつもって何! いつも話してたの?)
春子の体を支えてくれていたこのりが「子槻さま……」と呆れたように呟く。
けれど子槻は何がいけないのかというふうに、はつらつと春子に笑いかけて母を示す。
「春子、こちらは母の天野ハナだよ」
「あ、さ、櫻井春子と申します」
春子が立ち直って姿勢を正すと、ハナは嫌なものを見るようにまなざしを変えた。
「供も連れず約束もなしに押しかけてくるなど、卑しい平民の娘なのでしょう。子槻さん、目をお覚ましなさい。あなたはだまされておりますよ。結婚相手ならお父様がお探しくださった方がたくさんいるでしょう?」
「母上、それは聞き捨てなりません。春子に失礼です。天野家とて平民です。貴族ではない」
「平民の中にも階級は存在するのですよ」
子槻は厳しい顔つきでハナをいさめたが、ハナはまったくこたえていないようで切々と子槻を見上げる。
たしかに洋風建築の屋敷に住み、商事を経営する子槻と、女給として働き、家にわずかばかりのお金を入れるだけの春子では、同じ平民でも住む世界が違いすぎる。ハナの険のある物言いには心が削り取られたが、言い分はもっともだ。そもそも名のある家の娘は働いたりしない。女性が働きに出ること自体が卑しいという考えだからだ。
ふと、かたわらのこのりが申し訳なさそうな顔をして春子を仰いでいることに気付いた。女中と女給、働きに出ている者同士、通じ合うものがある気がした。心配ない、平気だと伝わるように、微笑んでみせる。
「騒々しい。何事だ」
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