第6話 沈丁花ではない
「あの。なぜわたしなんでしょうか。約束だったとはいえ、十なら子どもの遊びのような約束だったのではないのですか? わたしは、覚えていないのですが」
最後は申し訳なく視線を落とすが、すぐに子槻の柔らかく懐かしむ表情に引き戻される。
「いいや。あれは遊びなんかではなかったよ。君も、わたしも。約束したから迎えに行ったのではない。あのとき、約束してもいいと、そう決心するくらい春子が特別だったから、迎えに行ったのだよ」
子槻の声は、ほんの少し困ったような微笑みは、慈しみに満ちていた。
けれど春子は覚えていない。何も思い出さない。慈しみを、受け取ることはできない。
「そう、ですか。でも、やっぱり結婚は……そんな、急に」
「なぜだ? 素性も知れただろう。全部忘れているのならこれから知っていけば」
悲しげに声を大きくした子槻に、このりが小さく子槻の名を呼んで制す。
「春子さまにも考える時間が必要かと存じます。今日はこのあたりでお開きにされては」
「しかし」
「ご婦人にはたくさん考えなければならないことがあるのです」
このりは子槻を案じるように顔を曇らせていた。
子槻は苦しげに瞳を細めて、ふっきるように微笑を作って、春子のほうを向いた。
「いかんせんわたしは君のことになると我を忘れてしまう。また君のところに行くよ。わたしの気持ちはいつまでも変わらないから、どうか考えておくれ」
春子があいまいに頷くと、子槻は思い出したように付け加える。
「それとは別に、香水の店のことも。そばにいられるなら、それだけで嬉しい」
この家の敷地内に春子の香水の店を出してもよい、という話だ。
正直、心が揺れ動いた。けれどほんの数時間前に会ったばかりの人を頼るなど、ありえざることだ。考えるまでもないことだと、春子はこのりに促されて椅子を立つ。結局、紅茶は一口も飲めないまま湯気を失ってしまって、申し訳ないことをしてしまった、と思った。子槻も立ち上がって春子の前にやって来る。
「家まで送っていくよ」
「いえ、そこまでしていただかなくても。最寄りの駅さえ教えていただければ」
そうしたら鉄道に乗って帰ろうと思っていた。また人力車で子槻とふたりになると、何を話せばいいのか分からない。
けれど子槻は屈託なく微笑む。
「遠慮することはない。雨も降っているし、鉄道のほうが遠回りになってしまう。それに、もう少し君と一緒にいたい」
春子としては気まずいから鉄道で帰りたいのだが、子槻の頭の中にはそんな考えはないらしい。春子が言いよどんでいるうちに、さっさと廊下へ出てしまった。どうしようと困り果てて、春子もあとを追う。
そうして、風に、香った。甘く、少しとがったような花の香りが。
沈丁花に似ている。けれど、沈丁花ではない。
春子は廊下に佇む子槻の腕を、とっさに引いていた。子槻が目を丸くして春子を見る。
「あ、ご、ごめんなさい!」
よく知りもしない男性に触れるなど、はしたないことこのうえない。本当はふたりきりで言葉を交わしたり、人力車に乗ったりするのもご法度だ。春子はそこまで厳しく言われなかったが、春子より上の世代は、「嫁入り前の娘が男性と気安く言葉を交わしたり、一緒に歩いたりするなど何てはしたない」と眉をひそめる。
春子は慌てて子槻の腕をつかんでいた手を離した。
「どうしたんだい春子。やはり妻に」
「あの、今香水をつけてらっしゃいますか?」
子槻が何か言いかけていたようだが、構わず遮る。近くに花瓶はない。来たときはきっと平静ではなかったから、香りを感じなかったのだ。
子槻はなぜかほんの少し居心地が悪そうな、沈んだ顔をした。
「つけているよ。少しだけ。君に昔もらった『涙香(るいか)』を真似て作らせた。あれはつけてはいけない香だから。けれどこの香りを君とのつながりにして迎えに行くと言ったから……」
春子の心臓が大きく嫌な音を打ち始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます