第5話 最初からひとつだけ

 子槻は春子の瞳に少しでも何かを見い出そうとしているように、痛々しい顔をしたまま、目をそらさなかった。

「本当に……忘れてしまったのか。全部。なぜだ? 記憶は消していないはずなのに」

 訴えるように高くなった声に体がすくむと、このりが「子槻さま」と声を挟んでなだめる。子槻は気付いて叱られた子どものように目を伏せると、今一度春子を見つめた。

「すまない、春子。わたしは君を怖がらせたいわけでも、かどわかしたいわけでも、金品を要求したいわけでもないのだ……も、もちろん、辱めたいわけでも」

 自分で言っておいて自分で動揺しているのか、子槻は目をそらしてまた戻す。

「わたしは君を妻にしたいから迎えに行ったのだ。君が約束を忘れていても、わたしのことを覚えていなくても、わたしは君が妻にほしい。どうか、わたしの妻になってくれないか」

 子槻の表情は苦しそうで、同時に強い芯があった。それでも、春子は目を泳がせる。

「お話は、分かりました。でも、そんな、いきなり結婚なんて」

「何が問題なのだ? 君のご両親にはごあいさつに行かなければならないが……お金のことを心配しているのなら無用だよ。うちは商事だ。君を幸せにできるくらいのお金はある」

「お金のことではなくて、その、失礼ですが素性のよく分からない方と結婚することは」

「素性が分かればよいのだな? わたしは天野家の長男で十八になった。今は家督を継ぐために父と共に天野商事を経営している。商事は舶来品も扱っているから、君の好きな香水もある。何なら家の敷地内に君の香水の店を出してもいい」

 通じない話に困り果てていた春子は、初めて目を見張った。

「どうしてご存じなんですか? 香水のこと」

 春子の夢は、いつか自分の香水で店を持つことだった。香りをなりわいとする村に生まれた母から香料のことを学び、小さいころから西洋風の香水を作るのが好きだった。こういう香りがほしい、と言われてうまくできたときの達成感はひとしおだったし、その人のために香りを作って、とてもいい香りだと言ってもらえると嬉しくて、ずっと香りを作り続けていきたい、仕事にしたい、と思った。

 十歳で母が亡くなったあと、春子は母と懇意にしていた小間物屋の老夫婦に引き取られた。娘ふたりを嫁がせた夫婦は春子にも優しく、作り続けていた香水を小間物屋の店先に並べてくれた。

 春子は首都に近い銀柳の街で喫茶店の女給として働き、家にお金を入れ、自分の香水の店をひらくために少しずつ貯金した。女給のお給金では店をひらく資金が貯まるのはいつになるか分からない。一生かかっても無理かもしれない。けれどずっと香りを作り続けて、仕事にしたいという思いはどうしても捨てられなかったのだ。

 子槻はわずかに寂しげな目をして微笑んだ。

「わたしは君のことを知っているのだよ。君は忘れてしまったようだけれど。君の母上、幸(さち)さんからも君のことを頼まれている。君に幸せになってほしいと。だからわたしの妻」

「母のこともご存じなのですか?」

 子槻が何か言い終わる前にかぶせてしまったが、幸は春子の母だ。母の名まで知っているということは、少なくとも場当たりの人さらいではない。春子が忘れているだけで、本当に会ったことがあるのかもしれない。

「君も、君の母上も、存じているよ。うちの敷地内に君の店を出そう。だから、どうかわたしの妻になってほしい」

 子槻の瞳は最初から最後まで、まっすぐだった。願いは、最初からひとつだけだったのだ。

 春子を妻に迎えたい。ただそれだけ。

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