第4話 人さらいでは

「し、子槻(しき)さま、落ち着いてください」

 女中の少女が慌てたようにやって来て、椅子を押さえる。気付かなかったが、どうやらずっと壁際に控えていたらしい。奉公しているのか、くるっとした黒い目にまだ幼さがあって十三、四歳に見える。茶色っぽい髪は肩の上で切られていて、頭の上部から少しだけ取った髪を、後ろで小さな団子のように丸めていた。

「おお落ち着いてなどいられるか! は、春子が、こここんな、みだらな」

「子槻さま。恐れ多くも申し上げますが、先ほどから聞いているかぎり、おふたりの会話はかみ合っていないように存じます」

「何だと。どのあたりがだ?」

 青年は驚きに目をひらいて少女を見やる。少女は困ったように渋い顔をした。

「春子さま、震えていらっしゃいます。ちゃんと一から十までご説明申し上げてお連れになったのですか? 人さらいと間違えられておりませんか?」

 春子は小さく声をもらしそうになった。ここに着いたときから、わずかな違和感はあったのだ。たくさんの女中がいて、スリッパまで出されるなど、そんなに巨大な団体なのだろうか、と。けれど。

「人さらいでは、ないのですか?」

「ああ、やはり」と少女が呆れともつかない痛ましい顔になる。

「断じて人さらいなどではない! 春子、おかしいおかしいとは思っていたが、もしかしてわたしのことを忘れてしまったのか? それとも姿形が変わったから分からないのか?」

 青年が不安そうな瞳で見つめてくる。混乱で、殺されると思っていた緊張感は吹き飛んでしまっていた。

「あの……わたしは、あなたのことを存じ上げません」

 青年の瞳が、揺れた。傷付いたような、けれどそればかりではない苦しげな何かがつまっていた。途端に春子は自分が悪いことをしてしまったような思いで胸がうずく。

「子槻さま。ひとまずお名前など簡単なことからお話ししてはいかがですか? お名前を知らないと不安ですし」

 少女が取りなして、青年はようやく揺れた瞳をふっきった。りりしいというよりは愛らしさの残る、落花生の瞳で春子を見つめる。

「天野子槻だ。こちらは女中の森このりだ」

 子槻が少女を手で示すと、少女は「森このりと申します」と深く腰を折った。

「櫻井春子と申します……天野さま」

「存じているよ。子槻でよい」

「ええと、では、子槻さま」

「それだと仰々しい」

「ええと、じゃあ、子槻さん」

 子槻は「うむ」と満足そうに微笑んだ。

「春子。君を迎えに行ったのはほかでもない。君が十のときに、わたしが妻を迎えられる年になったら君を迎えに行くと約束したからだ」

「十、ですか?」

 十歳といえば母が亡くなったころだ。春子は今十八歳なので、子槻の見ためからして同い年か年下かといったところだろう。そのころ親しい男の子がいた記憶はない。もしかしたら子槻はとんでもなく若く見えて、十も二十も年上なのかもしれないが、そんなに年上の異性に結婚を申しこまれていたなら逆に記憶に残っているはずだ。

「覚えて、いないです」

 人さらいではない、と言われてから反動で力が抜けて警戒を解きかけていたが、不可解な人物には変わりないのだ。うそをついてだまそうとしている可能性だってある。

 けれど子槻は本当に悲しそうな瞳をして、こらえるように細めた。

「では、わたしのことは? わたしは二年前までけやきのねずみ、槻子神だった。君の近所の山中にまつられていた神だ」

 一気に訳が分からなくなる。たしかに春子の生家のそばには山があって、御神木と鳥居しかない小さな神社があった。そこには言い伝えがあって、ねずみ、きつね、うさぎ、たぬきが祟りを恐れた狩人の手によってまつられ、神になったのだ。そう母に教えられた。

「その……子槻さんは、神様、なのですか?」

 もちろん本気で言ったわけではない。けれど子槻の話はそうとしか聞こえず、もしかしてものすごく思いこみの激しい病気なのではないか、と浮かんできた。

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