第3話 渡せるのは命だけ
春子はももの上で組んだ指先が震えているのを感じた。
人力車が走ることおそらく一時間、木々深い洋風建築の屋敷にたどり着いた。たくさんの女中に迎えられ、噂でしか聞いたことのないスリッパを出され、柿渋色のじゅうたんを踏みしめながら、洋間に通された。
同じくじゅうたんの敷きつめられた洋間は、真ん中に脚の長い大きな机と、椅子があった。壁に沿って置かれた飾り棚の上には、香炉や石油ランプが置かれ、華やかな色合いを見せている。腰高の、上は手を伸ばしても届かなそうな高さの窓には、たっぷりとした白いバラレエスの窓かけが引かれ、雨で薄暗い空と木を透かしていた。
そうして、青年に促されて向かい合わせに座り、ももの上で手の震えを押しこめている。
着物に白いレエスのエプロンをした女中の少女が、春子の前にカップを置いた。バラが一輪描かれた陶器の中に、柔らかく湯気を上げる赤茶の液体、おそらく紅茶が入っている。土のように深い茶色の机は何か塗ってあるのか、卓上の石油ランプの明かりが反射していた。カップと共に舶来のものなのだろう。こんな状況でなければ、こんなに珍しい品々に囲まれて、心が浮き立たずにはいられなかったはずなのに。
人力車に乗ってから、何ていうことをしてしまったのだろう、と全身の血が引くほど激しい恐怖が押し寄せてきた。自分を見失って平静ではなかったとはいえ、人さらいならば養父母に身代金の要求がいってしまうかもしれない、ということくらい思いつくべきだった。迷惑をかけるために、えたいの知れない青年についてきたのではない。犯罪人ならば、殺してくれるのではないかと思ったから。
カップが触れ合う音に体を跳ね上げて顔を上げる。紅茶を一口飲んだ青年が、湯気のように柔らかに微笑する。
「飲みなさい。寒かっただろう?」
ほろを下ろした人力車の中で、青年は毛布を渡してくれた。けれど風は足元や首筋から熱を奪っていって、別の感情も手伝って、今も手足はかじかんだままだ。そばに火鉢が置かれているが、体の中までは届かない。
本当は目の前で静かに湯気を放つ紅茶を飲みたかった。けれど出されたものをのんきに飲める状況ではない。
「要求は、何でしょうか。お金でしょうか」
お金ならば払えない、渡せるのは命だけだと言おうとして、声が震えてつまった。青年は小首をかしげる。
「お金? お金ならば心配しなくていいよ。君を不自由させないくらいはあるはずだからね。人になるときに君をずっと幸せにできるようにと、そこは気を付けたのだよ」
相変わらず言っていることがよく分からない。けれど要求がお金ではないのなら、覚悟はできている。
「では、こ、殺して、ください。足りないのなら……は、辱めても、最後に、殺されるなら、それでも」
言葉にしたら、うそのようにもやがかっていた感覚が一気に晴れた。今まで、まだ心のどこかで、本当はうそなのではないかと思っていた。殺される、という実感がなかった。けれど言葉にしたら違う。
今から殺されるのだ、と指の奥の震えが体中に吹き出した。歯の根まで震え出す。辱めを受けるかもしれないとは考えていた。受けたくはない。本当は、死にたくない。けれど辱めを受けたなら、この死にたくないという思いも屈辱に塗り潰されてなくなるだろう。
青年が椅子を倒さんばかりに大きな音をさせて立ち上がる。反射的に、身がすくんで、心臓が痛いくらいに強く鼓動する。
「は、春子、な、なな何てことを……そ、そういうことは、ちゃ、ちゃんと婚礼を終えてから……」
青年は机に両手をついて、なぜかとても困惑した表情をしていた。頬がうっすら赤いようにも見える。
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