第2話 わたしを殺してくれるかもしれない

 とつとつと雨が傘を鳴らす音が少し大きくなってきていたので、聞き間違いかと思った。けれど、外国語ではなくて綺麗な大東和帝国語だった。理解できてしまって、春子はただ呆然と青年を見つめる。少年から抜け出したばかりのような、どこか愛嬌のある面立ちを。

「ああそうか、この姿は初めてだから分からないのか。わたしだよ。槻子神(つきねのかみ)、けやきのねずみだ」

 青年はあふれる慈愛と興奮をいっぱいに表した微笑みで声を弾ませる。春子は呆然としていた意識の中からようやく思考をたぐり寄せて、傘の柄を握りしめた。

(異人の知り合いなんて、いない……!)

 青年はさも春子を知っているふうな口ぶりだが、春子にはまったく覚えがない。名前を知られているのも気にかかるし、わたしだよと言われても知らないし、何を言われているのかさっぱり分からない。実は外国語なのだろうか。ただの危険な人物か。すでに冷えきっていた手がさらに冷たくなった気がする。

 逃げ出すべきか。踏んぎりがつかず、ぬかるみ始めた地面から少しだけ下駄の歯を動かしたとき、青年が感極まったかのように目を細めた。

「本当に綺麗になった……春子。こんな雨のなか立ち話も何だ。話しきれないほど話したいことがたくさんあるから、ぜひうちにおいで。そこに俥を待たせているから」

 そうして青年は春子のほうへ手をさし伸べてきた。西洋式の仕草だ。今度こそ、春子は半歩後ろに下がった。

 これは、人さらいだ。さもなくば人買いだ。東洋人を巧みな言葉でかどわかし、外国へ売り飛ばすのだ。それか最近新聞に載っていた、西洋にかぶれている者を成敗するという名目で犯罪を繰り返している団体の差し金か。

(でもわたし洋装じゃないんだけど……舶来の帯留をしてるから? あ、髪形のせい?)

 帯締に舶来品の金色の鳥を留めていたり、昔ながらの大量の油で結う髪形をせず、お下げ髪を丸く結い上げているだけだからだろうか。結び目には白いリボンもつけてしまっている。

 けれど西洋かぶれを断罪する団体なら、きなこ色の髪をした青年のほうが先に成敗されそうだが、と考えが散らかり始めたところで我に返る。何にせよ危険だ。逃げなければ。今すぐに。不思議そうな目をして手をさし出したままの青年から、体を翻そうとした。

 動いた空気に、雨に打たれた土と、葉と、草と、甘酸っぱい沈丁花の香りが、強く立った。引き出されるように、涙の感情が、自責が後悔が罪悪感が鮮やかに再現される。

 そうして、思い出す。死にたかったということを。

 振り向けば、雨ののれんの中で青年が手をさし伸べ続けている。不思議そうに、けれど何の疑いもなく。目の前の色が、よく分からなくなる。雨が目に入って視界がかき混ぜられたときのように。

 春子は青年に近付いていって、さし出された手の上に、手を置いた。西洋式はよく知らないので、合っているかは分からない。雨の滴を感じる手は、ほのかに温かかった。

 青年は大きくひらいた瞳に光をたたえて、はしゃぐように微笑んだ。

「春子、声を聞かせておくれ。まだ君の声を聞いていない」

 青年の表情は本当に至福に満ちていて、知り合いならばつられて微笑んでしまうくらい毒がなかった。顔をよく見ると、眉の下はくぼんでおらず、鼻も高くなかったので、異人ではないのかもしれない。けれどどうして髪がきなこの色なのだろう、と思ったが、どうでもいいことだった。

「はい」

 声を発すると、青年は喜びをかみしめるように微笑んだ。そうして、春子の手を引く。

 雨が作り出す庭の匂いをかぎながら、思う。

 この人ならば、わたしを殺してくれるかもしれない、と。

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