調香師少女と元神青年 涙の香水
有坂有花子
桜ファンタジィ
第1話 きなこ色の短髪
雨は、沈丁花の香りを濃く、重くしてくれるから、嫌いではない。
お気に入りの小道で、春子は傘を肩に預けて、紅色と白の花弁に目を落としていた。民家のあいだを通り抜けるための裏道である。その民家の軒先に沈丁花があって、ここで立ち止まって香りをおすそ分けしてもらうのが春子の楽しみだった。
緑の葉の中にひらいた花は本当は花ではない、と母から聞いたことがあるが、何だったのか忘れてしまった。
母の墓まいりの帰りである。雨が降りそうな空だから、と養母が傘を持たせてくれた。足元の水たまりを見て、草履ではなく下駄にしてきてよかった、と思う。着物は淡い緑に薄い薄い桃色の桜が散っていて、汚したくはなかったけれど、見せたかったのだ、母に。
甘酢っぱい香りがした気がした。一気に、鮮やかに、蘇る。罪が、痛みが、涙が。そうして、全身を突き刺されているように消えたくなる。痛みもなく消えられたら、どんなに楽だろうか。けれど現実は痛みや苦しみなしにこの世から消えることを許さない。
いつも昼時の残飯目当てにやって来るのら猫たちも、雨だからなのか一匹もいない。ここには春子しかいない。底まで沈んでいた気持ちがぼんやりとした虚無に変わるまで、沈丁花の前で立ち尽くしていた。
沈丁花は、近付いたほうが意外と香りがしない。離れたほうが香ってくるのだ。春子は数歩、沈丁花から遠ざかった。冷たい空気を、甘くて少しだけ酸っぱい香りを求めて、吸いこんだ。
「いい匂い」
帰ろう。そう思って、すっかり冷えてしまった足を動かそうとしたとき、土を踏む音が聞こえた。近付いてくる音に道を譲ったほうがいいかと、振り返った。
傘から落ちる滴の向こうに、青年がいた。ハイ・カラアにえび茶色のネクタイを締め、消炭色のチョッキと背広を着ている。足元は黒い革の靴だ。けれど何よりも目を奪われたのは、黒の洋傘、コウモリから浮かび上がる、きなこ色の短髪だった。
(異人、さん?)
もう少し都会に出れば外国人居留地というものがあって、異人がたくさんいるという。けれどこのあたりで異人を見るのは初めてだった。
(あれ、でも目が青くない)
異人というのはもれなく青とか緑の目をしている、と思っていたので、春子は思わず見つめてしまった。落花生の中身の形に似た目は黒っぽい。
黒っぽい瞳が微笑んで、ようやく知らない異性を無遠慮に見つめてしまったはしたなさに気付く。顔をそらそうとしたとき、青年の表情が変わった。
泣きそうな、けれどあふれ出る喜びを抑えきれないという微笑みに。
「やっと……迎えに来たよ。春子」
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