第10話 ぎゃふんと言わせてやろう

 春子のほうを向いた國彦へ、恐ろしいことを言ってしまったと思う気持ちを押しこめて、目を合わせた。

「まあ、殿方に口答えするなど何ということ! 恥を知りなさい!」

 それまでずっと口をひらかなかったハナが衝撃に耐えられなくなったように悲鳴をあげる。卒倒せんばかりに嘆きを連ねるハナを、國彦が手で制した。背広の下から金の懐中時計を取り出して見やる。

「六時までに持ってきたまえ。そのあと予定が入っているのだ。二時間もあれば充分だろう、それ以上は待たん」

「二時間って……あの!」

 短すぎる、と訴えようとしたときには國彦はハナを支えるようにして廊下を歩き出していた。当然、振り返るはずもない。ハナは恐縮そうに頭を下げて、支えられながらも半歩下がってついていき、ふたりとも廊下を曲がって見えなくなった。

 考えなければいけないことがたくさん頭の中を回って、思わずかたわらの子槻を仰ぐ。

「春子、わたしは君と君の香水を信じているよ。さあ父上をぎゃふんと言わせてやろうじゃないか」

「ぎゃ、ぎゃふんですか?」

 子槻も「世迷い言をあらためよ」などの条件を出されているのに、なぜここまで自信満々で笑顔なのだろうか。本人にとっては世迷い言ではないから直さなくてよい、という『とんち』なのだろうか。

 何にせよ時間がない。春子は頭の中を整理しながら、子槻とこのりにこれからやらなければいけないことを伝えた。


 最大の問題は手元に香水の材料、精油がないことだった。春子の家まで戻って作ったとしても往復でほぼ二時間かかってしまい、肝心の香りを考える時間がほとんどない。頭の中で組み立ててぶっつけ本番で混ぜ合わせることも不可能ではないが、そもそも何を作ろうかがまったく浮かんでいない。

 話を聞いた子槻は、慌てた様子もなく真剣に頷いた。

「精油なら会社の倉庫にあったはずだ。香水の材料になる香料のことだろう? 春子の家へ戻るより早い。わたしが今すぐ取ってくる。四十分で戻る」

 精油は国内ではほとんど生産されていない。子槻の商事は舶来品も扱っていると言っていたから、在庫があるのだろう。精油は子槻の言葉に甘え、取ってきてもらうことになった。

 春子はこのりに頼んで、スポイト、エチルアルコオル、ガラス棒、はかり、筆、小さな瓶をたくさんと、和紙を数枚用意してもらった。そうして先ほどの洋間を借り、着物のたもとをたすきがけにして、和紙を細長くちぎりながら考える。

 いつも使っている道具とも、材料とも違う。けれど子槻が精油を取って戻ってくるまでに、何の香りを作るのか決めておかなくてはならない。迷って悠長に香りを組み合わせている時間はないのだ。

 茶色の机にくっきりと映る石油ランプの輪郭と、並べられた瓶と、自分の顔を見つめて、春子は椅子に座り直す。

 何を作れば國彦を納得させられるのか、分からない。そして何を作っても納得してもらえない可能性のほうが高い。それでも、やるからには本気でやる。

(今まで作った中で最高だと思ったものを再現する? それなら処方を思い出しながらだから少しは早くでき上がるはずだけど)

 さすがに正確な滴数までは覚えていない。答えは家にある処方帳の中だ。

(バラとか、ネロリとか、花の精油をこれでもかって使う?)

 精油はもともととても高価だが、花の精油はとびきり高価だ。ふだんの春子ならためらってしまうくらい花の精油をふんだんに使ったらどうか。けれど、そんな香水は富裕層にはありふれた当たり前のものかもしれない。作りたいのは、平民が作った品などとばかにできないくらい、ぜひとも使いたいと望んでしまうような香りなのだ。

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