覚醒する者、見失う者、燻る者
1.
案内された部屋は手狭ではあったものの、ホテルのように整えられていて快適だった。
シャワーを済ませた羽花は、クローゼットに掛かっているワッフル生地のナイトウェアに袖を通し、ベッドに潜り込んだ。
今日はなんて日なんだろう。
異形の怪物に襲われた日。
高熱に倒れて死を告知された日。
人間を捨てて妖魅になる決断をした日。
あまりに濃密過ぎて、花隈駅のベンチに座っていたのが遥か昔のことのように思える。
ベッドはフカフカだしナイトウェアの着心地も抜群ではあるのだが、ドキドキとして眠れない。
明日の朝、両親にどんな言い訳をしようかという悩ましさよりも何よりも、自身に起きている劇的な変化についてずっと考えてしまう。
――私は何者になるのだろう。
手の中に溶けて消えた羽根は吸い込まれるように魅力的な黒で、とても綺麗だった。
おかげで熱は下がった。それどころか疲労感までも消し飛び、生まれてから今日までずっと感じ続けてきた脆弱ささえもなくなって、エネルギーが身体中に満ち満ちている。
手のひらをじっと見る。今のところ外見的な変化は見られない。だが自分の中で何かが変わろうとしていることを確かに実感できている。
「……私は、変わる」
口に出して言ってみる。
「……私は、翔べる」
そう言って目を閉じる。
想起されるのはセミやトンボの変態だ。
それを今の自分に重ね合わせる。
水の中、土の中でしか生きられなかった彼らは、ひとたび翅を得たときに一体何を思うのだろう。
凱斗はベッドの中で穂積の言葉を反芻する。
『貴方達にはウイルス退治に協力してもらうからそのつもりで』
高圧的だったが嫌な感じではなかった。それでいて有無を言わさぬ強い語気も感じられた。
もう一度、指先に火種を灯してみる。
短時間ではあったが訓練の成果は如実にあり、凱斗は炎を意のままに操れるようになっていた。怪物退治も絵空事ではなくやれそうな気さえしている。
えぐられた右肩の傷はすっかりと治ってしまった。
妖魅の中には自己修復機能が備わっている者もいて、どうやら凱斗がその能力を持っているということらしい。
自在の炎。修復する身体。
戦うことに適した二つの能力は、野球選手として戦う集団に属し、その中で頭角を現し性能を証明し続けてきた自分に相応しいと思えた。
――俺は強い者になる。
駅のホームで感じたあの恐怖は、今は微塵もない。それどころか、やられたらやりかえさなければという闘争心が胸の中で燃えてさえいる。
ただ……貴方達、か。
三人を指しているに違いないその言葉に凱斗は懸念を露わにする。羽花を危険なことに巻き込みたくはない。それに、泣き虫の涙人があの怪物に立ち向かえるとも思えない。最悪、自分一人だけが参加することになるのかも知れない。
ただまあ凱斗が一人で悩んだところで答えが出るものではない。
今日はもう寝てしまおうと、凱斗は布団を肩口まで引き上げて目を瞑った。
涙人はベッドの上で体操座りをしたまま動けずにいた。
自分が普通じゃない、という事実を明確に突きつけられ、心の整理がつかないままだ。
頭の中もぐちゃぐちゃで、どうしていいのか分からない。
――僕は何者なのだろう。
子供の頃からずっと考え続けていて、未だに答えが出ていないその問いに、妖魅、という要素が加わりさらに答えが遠のいていったように思う。
凱斗も羽花も驚いた顔をしていた。
していたと思う。きっと。
穂積に宣告されたとき、涙人は二人の顔を見ることができなかった。
怖い。
ただただ怖い。
自分が普通じゃないことが怖い。
そしてそれを知られることが怖い。
でも……ウイルスによる死を避けるために二人ともが妖魅になる選択をしたことは、自分にとって……どう捉えればいいのだろう……。
あーだめだ。
涙人はぎゅっと目を閉じる。
考えがまとまらない。ネガティブな気持ちが湧き上がり、思考は堂々巡りする。答えのない設問にひたすら心を掻き乱される。
……そうだ、カラピンチャ。
そんな負のスパイラルの中で、涙斗はふと思い出した。騒動の最中、花隈駅のベンチの脇に置いてきてしまったカレーリーフのことを。
きっと寒い思いをしているに違いない。明日、取りに行かないと。こんなことならもう少し水をあげておけば良かった。朝一なら間に合うかな。始発があるから五時半には改札は開いてるはずだけど駅員さんはいるのかな……。
ふふふと涙人は笑った。
植物のことを考えると自然と楽しい気持ちになれる。何も解決していないけれど、少しだけ気分が晴れ、平静な心が戻ってくる。
カラピンチャに感謝しないといけないな。
涙人は頷き、微笑んだ。
明日は早起きしなくちゃ。
涙人は緩慢な動作で立ち上がり、タオルを片手にシャワールームへと向かった。
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