3.
「何か飲むかい?」
針谷に促され、羽花はソファーからカウンターのスツールに座りなおした。ようやく泣き止んだ涙人も隣に座る。
ミカと凱斗、そして穂積もいなくなった空間は少し寂しげではあったが、バーとしてはそんな静かな佇まいも悪くないなと羽花は思った。
「君たちにはまだお酒は出せないからね」
言いながらシェーカーを取り出す。
オレンジジュース、レモンジュース、パインジュースを同量ずつ入れ、氷を入れてシェイクする。
しゃかしゃかとリズミカルな音を立て、中でジュースと氷がほどよく混ざり合ってゆく。
針谷はトップを外してカクテルグラスに注ぎ込んだ。
「シンデレラっていうカクテルだよ。もちろんノンアルコールだ」
羽花は差し出されたグラスを持ち上げ、一口飲んでみる。キリッと冷えていて美味しい。オレンジでもレモンでもパインでもない不思議で高貴な香りが鼻に抜けてゆく。こうしてカクテルグラスで飲むと何となく大人になったような気分になり、羽花にはそれがとても心地良く感じられた。シンデレラという名も骸露を受け入れ変化を望んだ今の自分にぴったりだ。もしかしたらそれをイメージして作ってくれたのかもしれない。
続いて針谷はタンブラーを取り出した。氷を四つ、そっとトングで流し込む。
グレナデンシロップ、少量のレモンジュースを入れてから、ジンジャーエールを静かに注ぎ、バースプーンで軽くステアしカットレモンを添えて涙人の前に置いた。
「これはシャーリーテンプル。子供でも飲めるように考え出されたカクテルさ。当時有名だった子役の名前がつけられている」
涙人は軽く頭を下げてからグラスに触れた。グレナデンシロップが溶け込んだクリアな赤が美しい。恐る恐る飲んでみると、ピリリとしたジンジャーエールにシロップの甘さとレモンの酸味が重なり合って爽やかな印象になっている。
「……美味しいです」
「そりゃよかった」
針谷は満足そうに微笑んでから、自分のためにギネスの缶を開けた。
「……骸露って、沢山あるわけじゃないですよね?」
飲み終えたカクテルグラスを指先で玩びながら羽花が尋ねる。
「もちろんさ。貴重な品だよ。買えるものじゃないから数も限られている」
「そんな大切なものをどうして私たちに?」
んー、と唸りながら針谷は腕組みをした。二人から視線を外し、言うべき言葉を選ぶ。
「まあ、そうだな。半分は人助けさ」
針谷はそう言って二本目のギネスを空にする。
「高熱で死んでしまうような状況を打開する方法を俺は他に思いつかない」
それは確かなことだった。現にあれだけ高熱だった羽花が、まるで嘘のように平然としていられるのは明らかに骸露のおかげだ。
「もう半分は、何というか、人員確保だ。まあ……最初から上手くいくと思ってはないがね」
「どういうことですか?」
「復活を遂げたあいつを、誰かが鎮めないといけない。だが生憎とうちのメンバーで戦力になる二人ともが北欧に出張中なんだ」
針谷の言うあいつが『ウイルス』であることは明白だった。
意図を理解し、涙人は目をギュッと閉じる。
「スウェーデンのネットワークから難しい案件で力を貸してほしいと直々に言われてね」
すまなさそうな針谷に対し、羽花は妙に前のめりに問いただす。
「妖魅って、妖魅ってもしかして世界中にいるんですかっ!」
「それは愚問というやつだ。何せ人の想いから生まれる生命体だからな」
そもそも針谷自身がヨーロッパの生まれである。輸入され愛され生命を得たのがこの東洋の島国だったというだけの話で。
「妖魅のネットワークは世界中に広がっているんだ。それに、妖魅も今の時代に合わせて進化しているからね。コンピュータや電子データの妖魅も多い。人間様の文明を拝借しながら情報交換は常にしているさ」
羽花がぱあっと笑顔になる。妖魅という存在の面白さに想像力が止まらない。
「包み隠さず言わせてもらうなら、俺は君たちにウイルス退治を手伝って貰えたらと思ってるんだ」
やはりそうか……。針谷の言葉に涙人は暗澹たる気持ちになる。そんなの無理で無謀で滅茶苦茶だ。あんな怪物に自分たちが対峙するなんて、ましてや活動を止めるなんてできるわけがない。
対照的にテンションを上げていく羽花に涙人は何かを言おうとするが、その情熱に満ちた瞳に言うべき言葉を見失う。
「人類の存亡を賭け、あの化け物をやっつける必要があるってことですよね!」
羽花の言葉は力強く言った。握られた拳にはある種の探究心さえ感じられる。
「んー、化け物って言い方はあまりしたくないな。あいつらにはあいつらの事情がある。ただそれが人間にとって都合が悪いってだけの話さ」
自分自身もウイルスもお互いに妖魅だということを針谷は理解していた。ただそれでも妖魅が人間社会に溶け込み、この先も生き延びていくためにはウイルスの活動は何らかの形で止める必要があると考えている。その上での依頼だった。
俯く涙人と漲る羽花を交互に見ながら針谷は言った。
「無理難題なのは百も承知だ。返事はいつでも構わないし、断られて当然だとも思っている。ただまあ今日はもう遅いからここに泊まっていくといい」
「あ、え? うわ……いま、えっと、何時ですか?」
「午前一時十三分。とっくに終電もなくなったし親御さんへの言い訳は明日の朝にでも考えてくれ」
狼狽する羽花にそう告げ、
「地下四階が宿泊施設になっている。部屋は沢山あるから好きなところを使ってもらって構わないよ」
このビルは登記上でも物理的にも地下一階までしか存在していない。はずである。
「ここの構造って……」
どうなってるの? と羽花は凱斗と同じように後半の言葉を胸の奥で呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます