交換条件
1.
「……あ」
凱斗が呟いた。
右手の人差し指。その指先に小さな火種が付いていた。
二枚重ねの油皿――骸露を取り入れたことによる変化が早くも萌芽したことをそれは意味していた。
「……すごいな」
針谷が感嘆の声をあげる。
体内に骸露を取り入れたとしても、肉体と精神が適応し妖力を発揮するまでには最低でも三日はかかる。
凱斗のように短期間でこうして能力を発露させることは極めて稀だった。少なくとも針谷はこれまで出会ったことがない。
「
針谷の提案に対し、凱斗は戸惑いながらも言われた通りに念じてみた。
瞬間だった。
垂直に立てた指の先から天井を焦がすほどの火柱が出現した。
「わわ! 消してくれ! 俺が悪かった!」
針谷が慌てて大きな声を上げた。
凱斗もまずいと思い、すぐに指を折って火柱を鎮火させる。だがかなりの火力だったようで、消えて尚も高い熱量が店内に鮮やかな爪痕を残していた。また、火柱はたった一瞬だったにも関わらず、凱斗の鼻先と前髪を撫で、かなりの焦げ臭さを辺りに漂わせていた。放った凱斗自身がその火力にたじろぎ、目を見開き硬直している。
「こんなにも骸露と親和性の高い奴がいるとはな……」
凱斗自身も十分に驚いている様子だったが、妖魅の能力に明るいはずの針谷までもが驚きを隠さずにそう漏らした。
「……ミカ。彼を地下三階へ案内してやってくれ。これならもう実践を積ませてやったほうがいいだろう」
「はいにゃん♪」
笑顔で敬礼し、ミカは凱斗の手を握った。
「私はどうしたらいいの?」
凱斗の様子を目の当たりにし、戸惑う様子もなく羽花はそう言った。
好奇心。それは強い好奇心だった。目の前で瞬く間に性能の片鱗を見せた凱斗に対し、羽花の中では淡い対抗心すら芽生えていた。それは彼女の目の輝きを見れば明らかだった。
「いや、なんというか……妖魅への変化は本来ならそこそこ時間のかかるものなんだ。お嬢ちゃんが選んだのは天狗の羽根だから……」
「ええー!? 天狗ってあの赤い鼻の!?」
天狗という解答は羽花にとって予想外のものだった。自分が天狗になった姿を思い浮かべ、その珍妙な出立ちに思わず声が上擦った。
「違う違う。天狗ってのは本来、
それを聞いて羽花はほっと胸を撫で下ろした。年頃の女の子としては、自分があの赤ら顔に長い鼻の天狗になってしまうのは流石に厳しい。想像しただけでゾッとする。
「鴉天狗……」
ただ、羽花の思い描く鴉天狗は、頭巾を被り
「なんというか、妖魅としてどんな姿になるかは本人次第なんだ。骸露の持っている従来の妖力と、自身の想像力が合わさることで容姿が形成されるとでも言うか……」
羽花は自分に嘴の生えた滑稽な姿を頭の中で思い浮かべ、それに何度もバツをつける。
「そもそも、妖魅は"人の想い"から生まれるものだと言われている」
針谷が神妙な表情でそう言った。
「たとえば、風や草や小石で皮膚が傷ついた時に、昔の人は、これはきっと妖怪の仕業に違いないと考えたそうだ」
「
「ご名答」
聡明な羽花に針谷は思わず目を細める。
諸説あるが、三匹の鼬が風の速さで駆け抜けていく際に、一匹が人を転ばし、もう一匹が鎌で傷つけ、最後の一匹が傷口に薬を塗りつけるというのがお話としては有名だろう。掛け軸などに描かれるのは、両方の前腕が鎌になっている鼬が
一方の羽化は、針谷の妖魅に関する解説を聞きながら胸の高まりを抑えきれずにいた。
江戸時代やそれ以前から、人々はただの自然現象に想像力を紐付けていた。それは羽花にとって実に面白く、素人ながら脚本を書いている身としては非常に興味深い話だった。
「そういった話が口伝で広がり、沢山の人が信じるようになると彼らは生物学の概念を飛び越え、妖魅としてこの世に生を受けることになる。
家鳴り――温度や湿度等の変動が原因で、家の構造材が軋むような音を発する現象を、昔の人は家鳴りの仕業だとした。江戸時代の浮世絵師、
山彦――山や谷の斜面に向かって音を発したとき、それが反響して遅れて返って来る現象は、山彦が返事をしたのだと考えられていた。地域によっては
とりたてて自分自身を読書家だとは思わないが、脚本に携わるようになってから羽花は気になった本は片っ端から読むようにしている。そんな中、民俗学に関する本を読むと、妖怪や妖魅に関する話にいくつも突き当たるのだ。針谷の出した二体の妖魅は典型的な自然現象から創作されたもので、羽花は複数の文献でその名を見知っていた。
「沢山の人の想いや、たとえ一人であっても強烈な感情、それは喜怒哀楽関わらずだが
そう言って針谷はエイジングの進んだ置き時計の木肌を指先で軽く撫でた。艶光りするその佇まいは、持ち主が手入れを欠かさず長く愛情を注いできた証だった。
「妖魅の生まれる理由はいくつもある。例えば垢舐めなんてのは掃除をサボる怠惰さへの戒めだったんだろうな。ちゃんと風呂掃除をしないと怖い妖怪がやってくるぞっていう」
人の想いから"生命"が生まれるという概念。針谷の話を聞きながら、羽花にはびりびりと脳が痺れるような独特の感覚があった。これは羽花の中で上質な物語に触れた時に決まって起こるものだった。
そして、自分がその渦中にいることが、羽花にとっては楽しくて仕方がなかった。針谷の話を聞きながら姿勢が自然と前のめりになる。
「ところでお嬢ちゃん、熱の具合はどうなんだい?」
針谷に問われるまで羽花は気がつかなかった。
すっかりと熱は引いていた。
むしろ病弱で、今日のほんの少しの疲労でさえ蓄積させ疲弊していたのが嘘のように身体が軽かった。むしろ力が漲ってさえいた。
試しに拳を握ってみる。
いつものへなへなとした感触ではなく、ぐっと強く握ることができた。こんなことは羽花の人生ではじめてのことだった。
元来、羽花は自分の肉体の脆弱さに辟易としていた。
飛べない鳥。欠陥品。ポンコツ。B級品。久助。出来損ない。誰にも言っていないが自傷を試みたことさえある。
もう一度、拳を握る。
その力強い感覚に身震いさえ覚える。
生まれて初めて強靭な翼を手に入れられるかもしれないと羽花は思った。変容する恐怖を遥かに凌駕する期待感とそれに付随する高揚感で羽花の心は満ち溢れていた。
凱斗のように妖魅としての能力の発現はまだ見られないまでも、華奢だった自身の肉体が超常的な何かによって書き換えられつつある感触を、羽花は全身全霊で感じていた。
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