生きるためには

1.

 男の指示でタクシーは東へと向かう。

 三宮方面で車の数も人通りもかなり多い。

「……ホーム、誰もいなかったのに」

「あれは『人払いの結界』さ。恐らく奴の妖術だろうな」

 涙人の呟きを男が拾う。

「妖術……」

 聞き慣れない言葉を涙人が反芻する。

 肩を貸している羽花が小さく唸った。

 顔が赤い。

 額に手を当てると驚くほどの高熱を発していた。

 凱斗に至っては車内に担ぎ込まれた地点でかなり発熱しているようだった。

 涙人は自分の額を触った後、胸元の傷に触れた。

 極めて平熱。そして傷口は早くも塞がりつつある。

 受けた傷の位置だけで言えば心臓を貫かれていてもおかしくない筈だ。それがすでに瘡蓋かさぶたで覆われ痛みもほとんどない状態になっている。破れたままのシャツだけがやけに滑稽に映る。

「君、名前は?」

 男が尋ねる。

「……離宮、と言います。離宮涙人」

「学生さんかい?」

「はい、生高イクコーの一年です」

「俺は針谷だ。針谷時雄はりやときお

 男はそう名乗り、ふーっとひとつため息を吐いた。

 バックミラー越しに羽花と凱斗を見やり、指先で眉間を押さえる。

「彼らもきっと……ウイルスに侵されているに違いない」

「……どういうことですか?」

 ウイルス、という言葉にどうしても強く反応してしまう。今年の春にようやくワクチンができたとは言え、二〇二〇年に起こった新型コロナの猛威は今でも爪痕を色濃く残している。

「奴の持っているウイルスさ。人間にとっては極めて悪質なもので我々も手を焼いている」

 人間にとっては。

 涙人は引っ掛かりのあるその言葉について、咄嗟には言及できなかった。

 タクシーは生田新道を東向きに走り、大きなビルの前で止まった。昨年暮れに惜しまれながら閉店した東急ハンズの少し手前にある高層ビル。駅近なこともありクラブやラウンジが入っているのだが、新型コロナのせいで今は空き店舗も多い。

「その娘、担げるかい?」

 針谷の問いに涙人が肯首する。

「逞しいねえ」

 言われ慣れない言葉に戸惑いながら、涙人は後部座席から羽花を引き寄せるようにして降ろし、腕を取って肩に担いだ。

 針谷は凱斗を背負い、自分の胸元で凱斗の腕を交差させて担ぐ。

「おかえりにゃん♪」

 場違いに明るく可愛い声に涙人は顔を上げた。

 セーラー服に身を包んだ女性が出迎えてくれていた。丸顔で人懐っこい笑顔がまるで猫みたいだなと思ったら、実際に頭から猫の耳が生えていた。作り物にしてはよく出来ていて、彼女の仕草に合わせて時々ツンと動いたりする。よく見るとスカートからモフモフの尻尾もぴょこんと顔を出している。それは本当にアニメの登場人物を具現化したように可愛らしく魅力的で、涙人は軽く面食らった。

「ミカ、二名が被害を受けている。穂積に準備を」

「もう取り掛かってくれてるにゃん」

 針谷の指示にミカと呼ばれた猫耳娘が答える。会話の内容は涙人には分からないものだったが、何にせよ助けてもらえるなら有り難い。

 手の空かない男二人の代わりにミカがエレベーターでB2のボタンを押す。

 涙人は何気なく脇の案内板を見る。様々な店舗名が並んでいるのだが、どういうわけかB1までしか掲載されていない。――まるでB2なんて存在しないかのように。

 エレベーターは静かに動いて止まり、五人をB2へと誘う。

 ゆっくりと開いたドアの向こうでエジソン電球が二つ、優しい光を放っていた。

 エレベーターの正面。その店は昔のコンピュータゲームの隠しフロアのようにたった一店舗だけ配置されていた。古い洋館にありそうな木製の重厚なドア。そこに古ぼけた看板がかかっていた。


『BAR - Scotland yardスコットランドヤード -』


 看板にはアルファベットでそう綴られていた。

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