第16話 アブソープション

「もう終わりだ」

「助けて、神様」


 そんな絶望的な声が、モニターの前に広がる無辺際で囁かれ始める。


「くそッ、くそっ――」


 そしてヴィンセントは、足元に絡みついた触手を切り裂こうと身体をひねる。連動するイズノメ。腰部からコンバットナイフを取り出し、一部を切り裂いた。

 だがそれも無駄で、すぐ別の触手が這い出てきて、更にその拘束を強化する。肉は白い機体の上へ上へと登っていく。彼の中で焦燥がつのり、顔を上げる。

 イズノメは、鈍重な身体をゆっくりとこちらに向けて、まるで威嚇する蛇のように立ち上がり、蠢く触手を従えながら、ゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。

 ……背中に冷たいものが垂れる。こんなはずではなかった。焦りが、やがて恐怖へと、徐々に変貌する。

 怪物のきのこ雲状の、琥珀の輝きの連なりが秘められたケロイドが上下に裂けて、粘液を滴らせながら、その奥の肉襞を顕にする。そこから光が漏れ始める。

 周囲の空気が吸い込まれて、収束する――そいつは嗤っているように見えた。まるで人間じゃないか、ふざけるな。だがそれさえ言えぬまま。数秒後、ヴィンセントは、

 マガツの放つあの放射熱炎に焼かれてしまうものと思われた。

 ――だが。その瞬間。


 マガツの横合いに、紅蓮の奔流が激しい明滅とともに突き刺さった。

 それは彼の体表面を焼き尽くして弾けさせ、その巨体を打ちのめした。一瞬夜空が、まばゆく光る。

 ……マガツはその直撃を受けて、真横に倒れ込む……ヴィンセントは、顔を上げた。そして人々も、モニター越しに、見た。

 地上から立ち去ろうとしていた川越もまた、後ろを振り返った。顔の煤を拭い、ビル越しの夜に向けて、言葉が溢れた。


「直次……」


 炎の余韻が白い煙と影に変化して、黒い暗闇に広がる。その充満を引き裂くように、廃墟たちの狭間から、その影が見える。

 ――カミナヲビ。その姿が、放射ののち一瞬訪れた静寂の中で、はっきりと浮かび上がった。その腹部から、排熱が立ち上る。


「『ビショップ』、戦線に復帰!」


 オペレーターは相次ぐ異常事態にヒステリックになりながら叫び、その声は撤退する船山達にも届いた。彼等もまた、呆然とその出現を見上げた。誰も彼もが。

 ……マガツは街路に倒れ込んで、車やガードレールを巻き上げながら地面を抉ったが、触手の助けを借りながら起き上がる。それから頭を振って土を落とし、

 自分に攻撃を当てた宿敵に向かい合う。黒紫の巨躯――イズノメよりもずっと、ずっと人型に近いモノ。

 ――その子宮の中は、黒いコールタール状の肉蔓に覆われていた。幾重にも絡みつきながら、直次に染み渡っていた。

 彼は頬まで覆った黒いそれらをものともせず、ただ前を向いて、憎悪の双眸と共に呟いた。


「勝負だっ……!」


 マガツは再びその口を開き、内部から溢れ出る熱に形を与えた。

 そして――再び、熱線。放たれた。あの戦車隊を全滅させたときと同じように。濁流となってまっすぐに、カミナヲビに放たれ。

 直撃。地を揺るがす爆炎が起きた。ビルの壁が揺れて、黒い煙が弾け、いっせいに広がる。

 ……静寂。マガツの眼前。彼は口を閉じる。


「やられた――!?」


 それは間違いだった。爆炎の中、彼は無事だった。その脚部が変化する。黒紫の装甲を突き破り、孔のようなスラスターが幾つも現れた。それは内部に蓄積したエネルギーを

 怒りとともに前方という指向性を与え、そして――爆発した。

 爆炎の中から、カミナヲビが飛び出した。そのアイセンサーが獰猛に光り、一瞬マガツを怯ませた。対応が遅れた。その四肢が、怪物に覆いかぶさった。

 衝突――組み付く。倒れ込む。後方へ、後方へ。時間が緩慢に。巨大な2つの影が混ざり合い、組み合わさり、ビルの群れの上へとなだれ込む。

 たちどころに灰色の質量達は断末魔の重い悲鳴を上げながら砕け散り、崩壊していく。その上に、マガツが、更にその上にカミナヲビ。

 砕け散り、その中腹で折れ曲がった高層ビルが揉み合う二体の上に落ち、更に砕け、無数の瓦礫を周囲へ吐き出していき、地面に生えた人造の棘の尽くが蹂躙され、砕け、撹拌される。

 ――人々の間で、どよめきが走った。一瞬だが、確定的な光景を目にし、彼らは釘付けになった。怪物が、倒された。あの巨人に、再び。それは彼らの中にある恐怖を止揚させ、その場を、一つの神話の戦いを目撃する場へと変えた。


 直次の中の激情が力となって、カミナヲビの拳から溢れた。彼はマガツにのしかかったまま、両腕をふるい、怒りのままに何度も彼を打ちのめす。それは攻撃でなく暴力。

 ひたすらに拳がマガツの身体を、顔面を殴打し、悶え苦しむ彼の両腕の妨害をものともせずに、ストンピングを続けた。赤い残像がアイセンサーからはしる。もはや、打撃でなく、蹂躙。

 だが、マガツもやられるばかりではない。殴打が続く中、彼とともに倒れ込んでいた触手たちがふらつきながら這い上がり、後方から迫り――カミナヲビを、拘束する。肩口を、首元を。

 肉の蔓が巻き付いて、上下運動を続ける巨人の動きを急激に抑制。食い込む痛みに直次は呻く。振り下ろす拳が止まる。マガツの手前で。それは強く、強く締め付ける。


「こ、の…………ッ」


 食いしばった歯は砕け散りそうで、唇の隙間から血が出る。両腕で首元の触手を引きちぎろうともがくが、動かない。見下ろすと、琥珀の目が歪み、必死の色が浮かんでいる。

 今、その口がガバリと開く。カミナヲビののしかかりは力が弱まって、マガツが上体を無理やり起こした勢いで、彼は後ろへよろめいた。それが大きなスキを生んだ。


「奴は」

「進化する」

「どこまでも」

「袋小路に陥るまで」


 マガツはそのまま、もがくカミナヲビの肩口に襲いかかり、その乱杭歯で、噛み付いた。

 ――赤黒い液体が飛沫のようにほとばしり、直接直次にダメージを、激烈な痛みを与えた。彼は絶叫し、両腕を離してしまった。同時に触手も離れるが、その時マガツは完全に立ち上がり、背を向けて、胴体部以上の長さがある尻尾を振り回し、膝立ちで力の抜けたマガツに巻きつける。そのまま人型は強烈な遠心力で振り回される。ビルに二度、三度巨体をぶつける。

 マガツが、身体をねじった。カミナヲビは、後方にぶん投げられた。大きな影が地面を覆い、巨躯が宙を舞い――距離を引き離して、向かい側に叩き落された。

 スパークする。がらんどうの廃墟に黒紫の巨人が衝突して、その形状のままにひび割れて粉々に砕け、崩れる。彼はスローに倒れ込んだ。


「……――何だと」


 司令部に駆けつけた川越は、驚愕する。モニターの中では、ビルに衝突し破壊したカミナヲビが瓦礫を振り払いながら、ふらついて立ち上がる。変化は向かい側にあった。

 バキバキ、バキバキ。骨が粉砕されていくような音とともに、マガツの腕の皮膚が裂けて、硬質の内部組織が顕になり、腫れ上がるように膨らむ。その上からさらに鱗のように黒いケロイドが覆う。その繰り返し。


「学んでいるのか……奴を。カミナヲビを」


 彼の腕は一回り巨大になり、獰猛な筋肉を備えた組織へと変化した。それはカミナヲビの怒りの殴打を、その感情ごと取り込んだようであった。


「これより彼は」


 暗黒で展開される戦いを遠くに見つめながら、巫女達は輪唱する如く呟く。


「もののけを超える」

「そして彼は――ヒトとなる」


 不気味な響きがあった。未来を言い当てているかのような。彼らの目は前を向き、保護の上撤退させようとする船山たちを無視していた。


「……どういう意味だ」


 部下たちに、半ば彼らを強引にその場から引き剥がしながらも、船山は問うた。すると彼らのうち一人――あの犠牲となった少女と同じ、ゾッとするほど透き通った瞳を持つ女が、言った。


「これより先に行われるのは。ヒトと、ヒトの戦い」


 カミナヲビの各駆動機関が唸り声のようなきしみを上げて、アイセンサーが獰猛な赤色の光を放つ。そのまま前傾姿勢を取り、両腕をだらりと垂れ下げる。

 両腕が指先からばっくりと左右にわかれて、その内部からヒステリックな回転を迸らせるカッター機構を展開した。火花が、前方を威嚇する。


「貴様ッ、怪物の……フリークの分際で、よくも、よくもそんな姿にッ――」


 ヴィンセントは歯ぎしりして吠えた。そのまま、動けない身体を必死に動作させて、マガツに食ってかかろうとした。

 ――怪物の顔が、そちらを向いた。邪魔な虫を追い払おうとするような、いらだちの宿る動作。

 ……ヴィンセントがゾッとして、そこに明らかな『ヒトとしての作為』を見て取った時には、もう遅かった。肥大化し、ヒト同然となった太い腕がイズノメの頭部を掴むと、そのまま纏わっている触手ごと持ち上げ……力を入れて、粉砕した。アイセンサーが砕け散り、周囲に極彩色の内部組織をばらまく。駆動機関の血液が飛沫を上げて、胎内のヴィンセントが激痛で目を押さえながら悲鳴を上げた。そのままもがくイズノメに、触手が再度絡みつき……地面に叩き伏せた。2度、3度。そのたび白磁の装甲が折れ曲がり、スクラップになる。

 ……彼は、沈黙した。死んではいなかったが、彼はマガツに、大事なものを奪われてしまっていた。

 それは彼の力である。触手がイズノメから離れると、それらは孔雀の羽のようにマガツの周囲に広がり、先端をカミナヲビに向けた。


「……――!」


 先端の形状が、変化する。鉄色になり、やがて、銃器に……イズノメの装備していたアサルトライフルの銃口に酷似した状態となった。それが、マガツの学習だった。

 カミナヲビはかがみ込む。力を込める。銃口のすべてが彼に向いた。

 ――一瞬のち。浮かぶ無数の鉄の蕾が、一斉に、極彩色の炎を放った。


 溶鉄色の火球がミサイルのごとく大量に吐き出され、カミナヲビに迫る。

 直線に向かうわけではなく、それらは周囲に破壊の澱を撒き散らし、暗い大気を朱に染めながら爆発をばらまいていく。火球に撃ち抜かれ破壊されるビルの群れ。

瓦礫を突っ切りながら、確実にカミナヲビに向けて殺到する――。

 巨人は両腕のカッターを閃かせ、前傾姿勢のまま駆け出した。地面が足型にめり込み、凹むことで疾走を受け入れる。風を受けて前へ。腕を振り、衝撃と火球を切り裂いていく。

 そのたび左右に爆発の欠片が撹拌し、書割と化した建物の群れが炎上する。その光景を周囲にばらまき、もはや激震も鳴動も彼方に捨て去りながら巨人は進んだ、進んだ。

 地下の人々は巨大な二本の足が起こす大地の揺れに悲鳴を上げ頭を覆うが、そんなものは彼には――直次には関係なかった。彼の眼前にマガツが居た。そして間もなく、両者は衝突した。

 カッターはマガツの肩口に食い込み、そのまま肉の汁をぶちまけながら刃を回転させる。奥へ奥へ切り込んでいく。獰猛なアイセンサーが琥珀の瞳とかち合う。駆動音と唸り声が交錯し、両者は頭部を衝突させながら組み合う。

 カミナヲビの身体には触腕が巻き付いて、その斬撃を防ぎきれぬ代わり、彼を完全に拘束した。カッターは幾度となくマガツに撃ち込まれていくが、そのたびマガツは頭部を捻って、彼に大口を開けて噛み付いた。紫の装甲が破壊されスパーク、内部機構をさらけ出しながら痙攣する。それでもカミナヲビは止まらない。食らいついたまま離れない。何度となく、拘束が強くなり、その触手が装甲を蹂躙していくのも意に介さず、憎しみの刃でケロイドの黒を切りつけていく。そしてマガツは噛み付きの応酬を繰り返す。血しぶきとオイルと火花が周囲に飛び散り続け、灰色と黒の景観を極彩色に染め上げていく。

 その中でカミナヲビ――直次とマガツは、互いに咆哮を上げながら傷つけ合う――……カミナヲビの肩口に、ひときわ深く、マガツの牙が食い込んだ。

 ……とたんに、直次の脳髄に鈍痛が走り、その奥に激流が流れ込んでくる。すぐに分かる。眼前に連なる琥珀。告げている。何か。それは憎悪、マガツ自身の感情だ。彼の血が求めるもの。無数の贄。そしてかつて、自身を形作った無数の人柱たちの集合的無意識。憎い、憎い、食い殺す、食い殺す、許せない。数多の者たちがその意思に圧倒され、隷従されてきた。くわれろ、さもなくば。

 だが……直次は違った。彼は激痛の中目を開けて、黒いドロリに覆われた瞳で、琥珀を激烈に睨み返した――

 ――その意志は奔流となってカミナヲビの四肢全てに流れ込む。彼がカミナヲビで、カミナヲビが彼だった。直次はマガツの血を正面から浴び続けていた。間もなく、それによる変化が起きた。

 バキバキ、バキバキ――氷の塊をぶち砕くような音とともに、カミナヲビの背中が裂け、その真中を貫くようにして、禍々しい銀色の背びれが生え揃い始めた。速やかな変化だった。


「何――」


 モニターの内部に映し出されたものに、川越は驚愕する。おい、直次、何だお前その姿は――それではまるで、まるで……。


「……彼は、『彼ら』となる」


 巫女の託宣とほぼ同時に。カミナヲビの口部が『裂けた』。うぞうぞと粘性の肉が纏わりついていた。機械ではなかった。獣の口だった。その咆哮の奥から光が漏れ、直後、焦熱の激流を吐き出した。


 直撃した熱線は周囲に炎の飛沫を王冠状に撒き散らしながら、黒い皮膚を袈裟懸けに削り取っていく。悲鳴が聞こえ、それを塗りつぶすように皮膚の残骸と血が噴き出す。憤怒に染まるアイセンサーが更に光り、熱線は更に強まる。

 熱が拡散して大地に舞い散る、焼け焦げる。光の中で、レーザートーチのようにマガツが焼かれていき、夜空に赤い閃光が散りばめられる。怪物は全身を揺すって悶えるが、もはや止まらなかった。そしてとうとう――その奔流は、その黒い皮膚の向う側にあるものを露出させた。胴体の中央部。輝くものが見えた――コア。真っ赤な宝玉。


「コア、再び……露出しました!」


 モニターの中。そして次の行動。見て分かった。その腕が、宝玉に向けて突き出される。返せ――白羽を、返せ。


「よせ、よせ――直次、それをやればっ……!」


 カミナヲビの腕が露出したコアをつかみ、マガツの顔をもう片方の腕で抑え込んだまま、纏わっている肉の芽ごと引きちぎった。

 ……後方に引き下がる。その腕には赤い心臓のような塊が握り込まれている。そしてマガツの胴体はがらんどうになって、その空隙から極彩色の滝が噴出する。黒い虚空に向けて放射され、炎にまみれた廃墟がそれを浴びる。

 彼の周囲で触手が苦悶を引き継ぎながら無防備に暴れ狂い、びたびたと地面を叩く。咆哮が散らされ、ばらまかれる。苦痛、激痛。よろめき、うろたえてたたらを踏む。苦し紛れに前方へ顔を向ける。その対極に、自らの半身を奪った存在。

 今、その巨大な機械人形は手にコアを持っていた。どくん、どくん。脈動――感じる。お前は。白羽はそこに居る。川越が叫んだ。灯里が後ろで見ていた。誰もが。彼は、その赤を、自らの胸に強引に押し込んだ。

 ――どくん、どくん。宝玉は、彼の胸に呑み込まれた。その脈動は全身を駆け巡り、熱を伝えた。彼の四肢がひび割れて、血管のようなディテールが露出していく。さながらそれは機械の身体が、生々しい肉の皮膚に置換されていくようだった。


「――コアを、取り込みやがった……」


 変貌が完了した。新たな姿。カミナヲビの全身に、絡みつく木の枝のごとく赤が張り巡らされ、ヒトのカタチが、さらなる異形となった。


「…………ッ」


 川越は、壁に背中をつく。こみ上げる苦い感情。諦観。


「――……終わりだ。何もかも」


「いや。終わりません」


 灯里が、後ろで呟いた。振り返る。彼女の首筋に這う黒いものが、その瞳にまで侵食し、その言葉は、その場から離れようとする巫女たちに伝播する。


「そう、終わらない。始まる――第二幕が」

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