第11話 喪失へのカウントダウン

 空は徐々に闇の色を濃くし始めて、まどろみの橙は消え始めていた。

 避難所同然と化したジオフロントのシェルターには、町中の人々。フロアだけではとても足りないため、廊下や他のルームにも避難民が溢れている。

 皆、疲れ切っていた。誰もが忘れたくて忘れられない怪物が現れて、自分たちの住んでいた場所が蹂躙された。奴を倒しても、日常はしばらく戻らない。傷痕は根深く、そして、絶望と倦怠は、色濃かった。

 スタッフ達が毛布や食料を配る。そのはざまにすすり泣きが聞こえる。怒号し、つかみかかる者達も、今や殆ど居なくなっていた――そんなことをしても、何にもならぬことを理解していたからだ。実際に、目で見たことによって。


 そう、どうにもならない。

 なんとかなる、などという希望論は、ここでは何の役にも立たない。それを誰よりも分かっているべきなのが、組織というものではなかったか。

 灯里はため息をついて、シェルター内部の見える窓ガラスを眺めた。


「核攻撃……」


 その言葉の非現実性に、驚いてしまう。

 幾度となく試算されたはずだった。それでも実行されなかったのは、核でも奴を倒せるかどうか分からないからではなかったのか。奴らが、それすら見越した上で、攻撃を望んでいるのだとしたら――。


「腐ってる……」


 そして、それを、ただ受け入れるしかない、自分たちも。


 自暴自棄になっていた。誰かに罰されて、ののしられてほしかった。

 その気持ちが、いつの間にか、灯里を誘った。

 白羽のいる病室だった。


 予想外にも、彼女は落ち着いていた。

 拘束は外されて、おとなしく、ベッドの上で絵を描いていた。

 ――目眩さえ覚えた。

 あんなに、荒れ狂っていた、理性のない怪物のようだったあの子が。


 灯里がパスコードを入力して部屋に入ると、彼女は顔を上げた。

 そして、その幼い容貌が、白羽を見た。

 ふいに、どきりとする。

 驚くほどに無垢で、純真で。こちらが考えていたよりもずっと、大人びているように見えた。その長い髪も、きれいな瞳も。ここにいる少女がまぎれもない人間であることを告げていた――兄と、違って。


「その……こんにちは」


 灯里はおずおずと切り出す。


「座って、いいかしら」


 すると、白羽は、口を開いて、言った。


「あなた――おにいの、おともだち。だから、いい。すわって」


 なんと言えばいいのか分からなかった。

 とにかく灯里は、導かれるまま、すぐそばにあったパイプ椅子に腰掛けた。ここには元々なかったはずだった。だとしたら、川越が持ち込んだのだ。こちらに来るのを見越していたのかもしれない。あいつめ。

 ……静かな空間に、画用紙をひっかく音が聞こえる。

 描く、というよりは、吐き出す、という方が相応しいかもしれない。のぞきこむと、やはりそこにあらわれていたのは……地獄の絵だった。炎に包まれながら、人々が死んでいる情景。


「あなたは……どうして、そんな絵ばかりを描くの」


 この質問は、アリだったのだろうか。

 言ってから少し後悔する。

 だが、白羽は、意外なほどあっさりと、返答した。


「白羽がずっと、じごくにいるから」


「……地獄に?」


 彼女は、ぽつぽつと滴を垂らすように、言う。


「白羽は、ここにいる。ここにいて、地獄を見てる。あつくてこわくて、はやく逃げ出したい。白羽は、ずっと叫んでる。はやく逃げたいよ、連れて行ってよ、助けてよ、って」


「……」


「だから白羽は描いてる。それで、おにいに、ずっと叫んでる。でも、わかってくれない。おにいは、白羽の絵をほめる。少しもけなしてくれない。散らかしてるのを、叱ってもくれない。だから白羽は、まだ描かなきゃ。どんどん炎を、死体を増やさなきゃ。白羽は、もっと、もっと……」


 ――――ぽたり、ぽたり。

 シーツの上に、涙の粒が垂れた。

 画用紙がぐしゃりと歪んだ。身体がふるえて、鼻水をすする音。


「いやだ。おにいが、どんどん知らないおにいになっていく……それがいやなのに、おにいはぜんぜん、白羽の声を聞いてくれない」


「……それは、ひどいね」


「ちがう、ちがう、ちがうのっ……!」


 白羽は顔を上げて、叫んだ。顔が真っ赤になっていた。


「白羽がもっと賢かったら、もっと強かったら、こんなことにはならなかった。もっとおにいとお話ししてたら、あんなにつらそうなおにいを見なくてすんだ。白羽が、白羽が悪いんだよ。だから……白羽なんか、もう、この世から、そうすれば、おにいは自由になって――」


「――ッ!」


 その瞬間、あの少年の頬を、全力でぶっ叩きたくなった。

 ――殻なんかに閉じこもりやがって、それで自罰してるつもりか。

 灯里は反射的に、白羽を、抱きしめていた。

 目の前にいる少女が、いとおしくて、切なくて、たまらなくなったのだ。


「違う、違うよ白羽ちゃん……悪いのは、私たち……あんなバケモノを蘇らせて、ひどいことをさせて、あなた達の人生を滅茶苦茶にした、私たちがいけないの……ごめんなさい、ごめんなさい――!」


「おねえ、ちゃん……」


 そして。

 ここで、はっきりした。

 完全に引き返せない心の澱に自分がとらわれたことを自覚した。部屋の隅に影が伸びた。

 ――自分の心はもう、完全に、この二人の側になってしまった。

 妹を失ってから、ずっと考えていたことが、決定的になった。あの少年も、この少女も、自分がここまでいざなわれるきっかけだったのだ。


「白羽ちゃん。ごめんね。馬鹿な大人がやったことは、大人が決着つけないとね。それから……あなたのお兄ちゃんが起きたら、思い切り、ほっぺた、つねってあげましょう」


「……――」


 白羽は、どうすべきか、考えた。考えようとした。

 しかし、結局答えは見つからなかった。だけど、抱擁されるあたたかさは、嫌いになれなかった。兄よりも軽くて冷たかったけど、ごつごつはしていなかった。

 だから、白羽は……そっと、彼女を、抱きしめ返した。


 だが。その抱きしめあった熱は――あっさりと、失われる。


「無駄ですよ、何をしようと……もう、鍵は、開けられてしまった」


 ヴィンセントはくくくと笑った。己の勝利を確信して。

 地中の胎動が……更に強くなった。

 琥珀色のすべてが、光を放ち――咆哮がひときわ低く、大きく、地の底へ響きわたった。

 地下にとらわれた、かつて直次だったものが、内部から淡い紫紺の光を放ち……脈動し、呼吸する。連動するように。


「ううっ、あああ……っ!」


 突如、白羽は頭を押さえて苦しみ始めた。

 激しく身体を壁にぶつけながら、ベッドの上でのたうち回る。


「白羽ちゃん!?」


「痛い、痛い……入ってくる、中に、入ってくる――」


 そして彼女は目を開く。傍らの灯里の声は遠くへと消えて、その血走った瞳の奥に、見えないはずのものが見え、視界が狭まり、暗転する――。

 それは未来視だった。彼女がとるべき行動を『取らなかった』場合に起きるもの。炎。煙。悲鳴。叫び。怒り憎しみ悲しみ、倒壊するビル、逃げていく人々、失われていくいのち――そのただなかで暴れ回る巨獣。お前のせいだ。お前が、奴をこうさせた。お前が、お前の果たすべきことをやらなかったから。

 ――果たすべきこと。なに、なんなの。わかんない、わかんないよ。

 『鍵』は壊され、堰は砕けた。お前には見えるはずだ。お前が何のために恐怖し、何のために生かされてきたのか。お前は兄を助けたい。そう叫んでいた、そうだろうお前はこれ以上兄に苦しみを味わわせたくない。

 ――そう、白羽はこれ以上、兄を憎しみに駆り立てたくない。そうなるならいっそ、遠ざかって消えてしまいたい。

 自らを。

 ――自らを、犠牲にすることでそれがかなうならば。

 お前はそうする。

 ――私は、そうする。喜んで、この身を捧げる。もう嫌われたっていい。兄に、私は必要ない。兄が、あんな怪物じゃなくて、人間になるためには――。


「白羽は、もう――」


 ――床のタイルが砕け、そのはざまから、赤黒い血が噴き出し始めた。怪物の血? いや違うこれは人間のそれだ、だがそこに何の違いがある。流れ込む。室内に。アラートが鳴り響く。灯里は彼女を抱き寄せて叫ぶ。もう聞こえない。彼女には見えていた。やるべきことが。果たすべきことが。自分は御子。久遠より続く人柱。今その系譜に続く――。


「白羽ちゃん、白羽ちゃんッ!」


 赤い噴水は室内を満たし始める。電灯が揺れて空間が明滅する。揺れる。よろめきの中、うつろな目をして座り込む彼女に近づこうとした。

 襟首を掴まれて後ろに引っ張られる。振り返る。川越がそこにいた。

 彼は何もいわず、そのまま灯里をつれて、強引に部屋から出た。

 間もなく白羽の病室は、滂沱のように鮮血じみた液体で満たされ、封じ込められた。



 ガラス面の向こう。暗い赤の中で、白羽が浮かんでいる。膝を抱えて目を瞑り、さかさになって漂っている。在るべき姿。


「知ってたんですか。こうなること。あの子が、こうやってよりしろに目覚めるって」


 ……ガラスに押しつけられた灯里の拳が握られて、肩が怒りで震えた。


「知っていた」


「どうしてっ!」


 激高して振り返った灯里の顔を、川越は、すべてが終わった、という表情で受け止めた。質問の意味を理解して、事務的に答える。


「はじめから、事態はヴィンセント主導だった。それだけの話だ」


「一佐は……それで平気なんですか。一人の人間を犠牲にして――」


「犠牲なら。あの日に、厭になるほど生み出した」


 灯里の視線はさまよい、やがて憔悴するように下を向く。


「一緒なんだよ、全部。誰も死なないという結果以外は……全部、一緒のことなんだ。お前もはやく呑み込んで、大人になれ……三崎」


 灯里は何も言わなくなった。目元が闇で隠された。

 川越には白羽が、赤い羊水に浮かぶが赤子に見えた。自分が灯里に、知ったような口をきくのは、それだけの理由で十分な気がした。



 全ては、『組織』の上層部の手中にあった。

 彼らは今、街の全てを暗がりの中で見下ろしながら、その報告を冷静に受けていた。


「川越が、マリオネットの実行を最後まで渋っていた、か――」


「大局でものが見られないのだ。あれも結局は、マガツの呪縛にとらわれているのかもしれん」


「奴の細胞に触れた者が、無意識にあの怪物へ忠誠を誓うようになる、というアレか?」


「信憑性は乏しいが……これを見れば、納得がいくかもしれん」


 ほの暗い空間の中、老人達が円になって座っている。その中心に、立体でマッピングが出現。一つの街をあらわしていた。その奥深く――地中に相当する部分で、巨大な、あまりにも巨大な影が映し出されていた。


「これが。奴の、真の姿」


「もはや手段など、残されていない」


 彼らは、映し出されているそれが現実だと言わんばかりに、冷たく突き放した声を出した。


「運命というものは、常に……何かの俎上にあるものだ」



 そう。ゆえに彼は語りかける。その目覚めは必然。我が兄弟よ、既に気づいているのだろう。抵抗は無意味だ。受け入れよ。ほら、目を凝らし、胸の澱に心を落とし込め。そうすれば見える、我と同じもの。かつて、我と相対し、憎み、慈しみ、哀れみ、恐れた者達。今、その過去は未来となり、我の目覚めと共に解き放たれる。さあ、怒号しろ。お前が既知に対抗を示した瞬間こそ、我が微睡みの終焉――。



 並べ立てられたモニターが火を噴いて、人々の恐怖をそのままコピーしたように、狂ったような速度で演算を行い、データをはじき出す。画面前に座った者達はその情報を読みとり、いよいよか、というように息を呑んだ。


「報告します、一佐――」


 モニターの中。示されたマッピング。熱源反応。残留核物質。電磁波。全てを綜合し、導き出される答え。


「『マガツ』の出現は……70時間後です」


 川越は息を呑み、拳を堅く握った。

 首元まで、水が迫ってきて、溺れそうだった。もう、引き返せない。

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