第10話 エンター・ザ・ヴォイド

 夕暮れ。誰もいない街に、乾いた風が吹いている。

 その街路を一路、ヴィンセントの愛車であるフィアットが疾駆している。彼はその車体を破壊された町の中に通し、やがてその向こう側、砕かれた『壁』の手前へと進ませた。

 ゆがんだフェンスのむかいに、ささくれ、焼け焦げた大地。彼は運転席から降りると、その光景を見た。

 体中が痛む。忌々しい少年のことを思うが、同時に、彼が不可欠であることも再認識する。ソレが余計に腹立たしかった。コートの襟を立てて、しばしフェンス越しに歩くと……目当ての人物が見つかった。


「大地の摂理が乱れている。もののけはどちらだろうな。のう、舶来のお方」


 とうに、気づいていたらしい。老人は彼を見ることなく、言った。

 ヴィンセントはその小さな身体に、英語で悪態を呟くと、隣に並ぶ。

 ためしに、缶の紅茶を差し出したが……当然、彼は無視した。ヴィンセントとしても、それで良かった。


「私のコンピュータ操作に、時折ノイズが入った」


 切り出したのは、ヴィンセントのほうだった。


「私の任務を邪魔する動きだ。外部からのハッキングなどありえない。そしてそれはメッセージだ。何度も送られてきた、不器用な古英語の警句」


 老人は、答えない。

 ならば、とばかりに、一言。


「となれば、貴方しかいない。すべてのありえなさを超える老人……過去の亡霊、貴方しか」


 詰問するように、老人を見下ろした。

 彼は後ろに枯れ木のような腕をくんで、片目を瞑りながら、ヴィンセントを見た……年輪が幾重にも刻まれた、茶色の肌の老人。

 そして、その和装の足下には、影がなかった。

 合成写真のように、そこに『在った』。

 ヴィンセントの言葉は、真実だった。


「儂は、警告を与え続けていた」


 乾いた声が響く。隣に言っている筈なのに、遠くに響くのは……彼自身が、過去に語りかけているようだからか。


「『依代』達と共に在り続けた儂だからこそ分かる。奴はもう眠るべきだ。この地上に出てくるべきではない」


 当然それは――マガツのことでしかない。

 ヴィンセントは眉をひそめ、あきれたように肩をすくめて言った。


「それを言いたくて邪魔を?」


「そうとも」


 老人はほんの少しだけ、言葉に熱を込めた。


「自然に起きたことではない。そもそも、数年前に奴が目覚めたのも、お前達の『実験』のせいだ。奴の依代が奪われ、新たなそれが必要になった。なぜだ。なぜ眠らせたままにしなかった。これでは、災厄が広がるばかりだ。お前たちは奴を使って、何をしようとしている」


 ヴィンセントは、ポケットに手を突っ込んだ。

 それから、突き放すように、向き合って、言った。


「あなたが知る必要はない、ご老人。私はただ、貴方に警告をし返すために来た」


 ……ぴくり、と頬がふるえる。


「なんだと」


「我々は――もはや、貴方を必要としていない。摂理も倫理も、我々が管理する」


 そして、ヴィンセントは、ポケットから拳銃を取り出して、老人に向けて……構えた。



 ――白羽の様子が、またおかしくなった。

 医療スタッフの間で交わされた会話を耳にした直次は、ラクスチャーの復旧から強引に抜けて、駆けだした。


「白羽……白羽っ……!」


 やはりそうだ。

 ――世界は安全じゃない。優しくなんかない。

 だから。だからこそ。俺が、強く強く、誰にも触れられないようになるしかないんだ。



「管理だと……そんなものが出来ようはずがない」


 表皮がはがれるように、老人がはじめて動揺を見せた。それが愉快なのか、ヴィンセントは薄笑いを浮かべた。何かを確信した笑み。川越にも、灯里にも見せたことがない――それが、彼の本性。


「ははは……ご老体。誰が『制限』と言った? 『抑止』と言った?」


「お前たちの、お前たちのやろうとしていることは……!」


「そうとも。我らが必要としているのは『氾濫』だ。せめて、水槽の中が満ちる程度には、あふれてもらわねば」


 ヴィンセントは、笑った。自らの諧謔めいた言い回しを面白がるように。


「それは、それは……」


 ――白羽は錯乱し、狂っていた。髪をひっかき絶叫しながら、頬に爪を立てた。駆けつけたスタッフたちをはねのけながら、シーツの上で暴れる。川越が怒鳴り、誰があの映像をつけたのだ、と叫んでいた。画面の中では、怪物としての怪物と、人型の怪物が殺し合っていた。そう――彼の兄が。


「災厄を、もうひとつ生み出すことなのだぞ!」


 老人は警告した。だがもう遅い。彼の中で積み重ねられた年月が荒れ狂い、嵐となって全身を襲っていた。これから起きる未来が見えた。炎。黒煙。そして――。



 直次が病室にたどり着くと、白羽は髪の毛をかきむしっていた。白い床に長い黒髪がちらばり、それらには血の混じった皮膚がこびりついている。絶叫と共にのたうちながら、医療スタッフ達の押さえ込みをはねのける。彼はそこに向かった。


「白羽ッ!」


 スタッフを無理矢理かきわけ、彼女へ近づいた。


「来るな、来るな、来るなあああああああッ!」


 白羽は両耳をふさぎながら背中を壁に押しつける。そのまま叫ぶ。突然の拒絶。彼女は歯を食いしばって血走った目で睨みつけてくる。意味が分からず、彼の身体から力が抜けていく。主治医らしき男がやってきて、彼女を寝かせようとする……。

 部屋に、二人入ってきた。川越と灯里だ。


「彼女に鎮静剤を打て!」


「それが、効きません、受け付けませんッ!」


 その会話をよそに、直次と白羽は向き合った。

 兄は、妹の言葉をまっすぐに喰らった。


「くるなって、どうした、何があったんだ……どうしたんだ!」


「裏切った、裏切った、おまえは、白羽を裏切ったっ! 白羽の望んでいないものを見せつけた、ふざけるな、ふざけるな――」


 ――あの映像を接続させた奴は誰だ、まさかヴィンセントか!

 ――分かりません、こちらからは追跡不能です……。


「白羽……俺は、そんなこと――」


「じゃあ、じゃあ、あの黒いばけものは何なの! アレに乗ってたのは、『なってた』のは、おにいでしょっ!」


「そうだ、それは……間違いない、だけどアレは」


 ずきりと、心臓が痛んだ。なにか、ひどく恥ずかしいものをさらけ出しているような。


「アレは……アレはッ!」


 そこで、直次も爆発した。


「アレは、お前の為にやったんだ! お前を守るためには、アレに乗って戦うしかなかったんだ! 怖かった、怖くて死にそうだった、だけど、戦わなきゃ、お前を守れなかったんだ――だから……!」


「それで、おにいは……バケモノになったの」


「っ俺は、バケモノなんかじゃない! 俺は俺だ、お前の兄ちゃんだ、それ以上でもそれ以外でもない、目を覚ませ! お前の目の前に居るのは、お前の兄ちゃんで、たった一人の肉親なんだぞ!」


「そんなの――」


 白羽は、言った。決定的な、一言。


「そんなの。白羽は、のぞんでない」


 兄には、幸せになっていてほしい。笑っていてほしい。

 でも、兄は、傷だらけの時にしか笑わない。

 それがずっと嫌だった。嫌で嫌で、苦しかった。

 だけど、目の前の兄は、それを、分かろうとしない。


「どうして……」


 力が抜ける。絶望的な空白が、心の中を支配する。

 否定された。

 あの胎内の、心地悪い感覚。ねっとりとまとわりつく肉。それでも離れなかったのは、妹が居たからだ。そのためなら、我慢できた。戦えた。


   


「いらないっ――おにいが、あんな姿になってまで戦って、それで白羽が守られるなら、白羽なんか、いらない……白羽は、おにいに笑っていてほしいのに……おにいは、少しも笑わないっ……ずっと苦しそうにしてる、そんなの、嫌だ――そんなので手に入れた命なんて、いらない……そんなので守られる世界なんて、白羽は、これっぽっちも、いらないっ……!」


「ああ、……」


 ――直次を抑えつけろ! 今すぐにだ!

 ――しかし、しかし……。

 ――はやく!


《《》》!」


 叫びと共に、直次のまとう衣服が裂け、彼の内側にへばりついたマガツの細胞が沸騰、瞬時に活性化した。それは『棘』という形に周囲へと解放される。川越は手近なスタッフに声をかけて、伏せるように命じた。

 指示は間に合った――『棘』は部屋中に解放され、突き刺さったが、誰も傷つけなかった。その代わり、彼自身に変化が起きていた。

 ……直次は、黒いケロイド状の組織……マガツの皮膚に酷似しているそれに包まれて、繭の中に収まったようになった。それで、おしまいだった。

 直次は己の内側に閉じこもり、ぎりぎりのところで、妹を傷つけることをこばんだ。そして白羽は、ベッドに縛り付けられ、鎮静剤を撃ち込まれた。


「蔵前……直次……――」


「あいつは。あいつらは」


 川越が口を開き、真実がつまびらかにされた。


「両親から、虐待を受けていたらしい。幼い頃から、ずっと。その中で、直次の精神は歪んだんだ。妹を守るために……」



 蔵前直次。

 蔵前白羽。

 ある時から、両親は不仲になった。

 そこから、虐待がはじまった。

 原因は分からない。分かったところで、幼い彼らには理解できるはずもなかった。

 ――パパを怒らせたな。

 ――これだけやっても分からないなら、もっとやらなきゃならないな。

 ひどくいたくて、こわくて、かなしかった。

 少年の傍で、いつも妹は泣いていた。

 どうして。わたしたち、なにもわるいこと、してないのに。

 妹はそう言っていたが、兄は賢かった。

 だから、悪いのは『自分たち』で、父さんが『良い』側なのだろう、と思った。

 だけど彼は、妹がほんとうに大好きだった。

 両親も好きだったが、彼はそれ以上に、妹が好きだった。

 彼はひどく悩んだ。自分はどちらを大事にすべきなのだろう。

 両親。そして、自分たちの身体の傷を見て、冷たい目をしてくるたくさんの人たち。

 妹。

 ――こたえは、テレビの中にあった。

 テレビの中で、怪獣が暴れていた。街をこわしていた。

 それは、古い日本の神話のばけものが、実際に街へ現れたらどうなるのか、を再現したものだった。こわかった。おそろしかった。

 だけど、少年は、ほんの少し、それにあこがれた。

 なぜなら、怪獣には、自分のやりたいことがハッキリしているように見えたからだ。

 きっと、やむにやまれぬ事情で、怪獣は暴れて、街を壊しているのだろう。だとしたらきっと、それは責められない。もしかしたら、あるいは、賞賛されるべきかもしれない。そこには、とてもシンプルで、しかし、奥深いなにかがあるような気がした。

 その映像を見たのは一回きりで、彼はすぐにそれを忘れたが、その時感じたものは、ずっと後にも、引き継がれていった。


 自分は。妹を守るためなら、この世界がどうなろうと、敵対しようと、かまわない。たとえ自分が、どんな姿に成り果てたとしても。

 ――たとえ、怪獣になっても。 



「ということは、あの子がおかしくなったのは……あの事件よりも、ずっと前からで……」


「そうだ。あいつは、最初から歪んでた。妹は、ずっと正気だったのかもしれないな」


「だとしたら……」


 だとしたら、それは――なんてひどい断絶なのだろう。

 灯里は吐き気を覚えた。今すぐにでも、たばこが欲しかった。狂った世界から逃れて、正気を麻痺させるための手段が。良心を隠すための方法論が。でなければ、とても、とても――。


「――、もしもし」


 川越に、電話があった。

 ふるえる手で、それを受け止めた。

 ……灯里の横で、彼は静かに、言葉を聞いた。

 やがて彼は、メッセージを受信し終えた。

 その顔は妙に冷静で、青ざめて見えた。


「一佐……?」


「――本部から。通達が。命令があった」


 奇妙に平板で、機械的な声で、彼は、静かに言った。


「『オペレーション・マリオネット』を、実行に移せ、と。さもなくば、この街に……核攻撃を開始する、とのことだ」



「我々のやろうとしていることが、なんなんだ? ご老体」


「愚か者が……貴様等のやろうとしていることは、この世界の因果を大きくねじ曲げることだ。それが事態を沈静化させるなどと考えているのなら、大間違いだ。貴様等は、踏み込んではならぬ領域に――」


 銃声。

 老人の身体がはねて、地に倒れ込んだ。

 彼は戸惑ったように撃たれた箇所を手で押さえて、ふるえた。

 その口からは、空気が漏れるだけだった。


「やはり、効果のある聖遺物だ。我が組織の墓荒らし部門はいい仕事をした」


 ヴィンセントは言った。そして、もう一度、銃を構える。


「かんがえ、なおせ……きさまは、まだ若い、その命を……」


「私は死なない。死ぬのは、怪物どもの、どちらかだ」


 かすれて濁った声を遮るようにして、ヴィンセントは宣告する。

 その表情に、全能感が溢れた。


「どちらもそうなるなら、どちらかが倒れればいい。私はそれを観測する。それが私の正義だ。あの時も私は見ているだけだった。つまりはそれが使命。私は――正義の観測者なのだ」


 彼は、再び引き金を引いた。


 血のように赤い夕暮れの下、老人の身体がけいれんして、もう二度と動くことはなくなった。

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