現世(うつしよ)と異(い)な世の境にて。神隠し ――

 息を荒くして、全身から汗が噴き出す。自転車で必死で走っていると、地味に緩い坂が長くてキツい。


 現実と異界?神域?常世?幽世? の間にある境をなんかの拍子で乗り越えてしまった人は、行方不明になって「神隠し」にあったと言われるようになる、って古文の岡島が言ってた。


 神隠し!


 これだ! って授業中に叫んでえらい恥ずかしかった。


 でも間違いない。その「彼」はきっと「神隠し」にあったんだ。休み時間にスマホで調べてみるとガチでヤバそうな話がいっぱい。これでやっぱり神隠しに違いないって思った。でもサイトを覗いてみたらちょっと怖かった。


 岡島はその時、この辺りでもその境と言われるものを祀った場所があるって言ってた。


 そこは紅蓮こうれん神社。の境内の裏にある「神籬ひもろぎ」という岩がそうなんだと言う。


 もともとそんなに人けのない紅蓮神社。「彼」と放課後寄り道した竹林の茂るお社のある神社。木々の陰に入ると涼しくて少し汗が引く。


 その神社に自転車を止めるのもそこそこに、裏手まで小走りで向かう。


 草の茂る小さな山。その上にしめ縄を巻いた大きな丸い石、いや岩。真ん中に直径20cmくらいの丸いくぼみがある。


 ここが現実と異世界との境界線…… 


 でもこれ全然線じゃないんだけど……


 私は肩で息をしながらこの岩を眺めていた。


 どうすれば「彼」をここに連れ帰ることはできるのか。あるいは私も「神隠し」に遭えるのか。


「ぬしでは無理じゃ」


 背後で突然声がしてビクッとなる。振り向くと全然知らないお婆さんだった。


「ここで『神隠し』しようと望んだか」


 見た事もない着物を着ていて不機嫌そうな顔でこちらをギロッと睨んでいるお婆さん。怖い。私何か悪いことしたかな?


「あの、神隠しって……」


「ここからどこぞへ連れていかれることじゃ」


「いや、連れていかれると言うか、どこかへ行くと言うか、連れ戻すと言うか……」


 何て説明していいかわからなくて、自分でも言ってることがさっぱり要領を得ない。


「ふん。どこかへ行きたいと言うのならどこへなりとも行けるぞ。酒池肉林の桃源郷、何もある事のない無可有郷むかうのさと、冥界エリュシオン、混沌と虚無の潜むゾーム、闇冥魔あんめいまによって滅びゆくファラリウス、忘れ去られた凍てつく荒野のカダス」


 お婆さんはぎろりとこちらをにらんだ。


「じゃがぬしでは無理じゃ」


「ど、どうして……ですか……?」


「ぬしはここでなすべきことをなさねばならぬからじゃ」


「え? どんな……?」


「そのようなこと、軽々しく言える訳なかろうが。たわけ。ぬし自らの手で見いだせ」


「あ、あのっ! あの、お婆さんはっ!」


 お婆さんは一人うっそうとした竹林に入っていこうとする。私はその後を追う。


「あのっ! と、友達が、いや友達かどうかもよく覚えてないんですが多分間違いなく友達で、その同じ学年の男子が神隠しに遭って、誰もそれを知らなくて、と言うか誰も彼のことを覚えてなくて」


 何も聞いてないのかお婆さんは黙ってすごいスピードで竹林の中に入っていく。分け入っていくのではなくて勝手に竹や笹薮が左右に避けていくような感じで、すたすたと竹林の奥に入っていく。


 驚いた。ここってこんなに大きな竹林だったんだ。まるで山一個分あるみたいな感じがする。気が付くとお婆さんもすっかり見失っていて、ただ一直線に細い獣道の様なものが続いているだけだった。

 一人っきりになってしまった私はすっかり心細くて不安になりながら十分以上も道なりに歩いた。いつの間にか夜になっていた。こんな場所で一人っきりはかなり心細い。


 すると突然道が開ける。


 何これ?


 芝が生えた大きな丘に私は立っていた。すぐそばにさっきの「神籬ひもろぎ」と瓜二つの岩がある。ここが丘のてっぺんみたい。で、はるか向こうに森が見える。


 でもこんなばかみたいな話……


 私のいるところから周囲の森まで、バッターボックスからバックスクリーンくらいの距離があるよこれ。マリンスタジアムの。



 頭上からは眩しいくらいの月明かりが降り注いでいる。私は天を見上げて息を呑む。


 全身が総毛立った。


 頭の上に煌々と輝く月の隣にはその半分ぐらいの大きさの紅い月が浮かんでいたから。そして満天の星。ヘラクレス座も白鳥座もない。天の川はTVや画像で見た姿とは全く違う奇妙な形をしている。


 ここは? ここは一体どこなの?

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