クリスマス
砂浅葉由
青い春のような。
冬。オフィス街。
コンクリートの、似たようなビルがこうも林立していると、中に人がいるという事実がなくなって、ただのコンクリートのビルがそこにあるだけのようで私は少し、存在理由をなくしかける。
そんなことを頭の隅っこで考えながら、結局私もそのビルの中の一つの部品のように、ひたすらデスクのモニターに向かって仕事を続けていた。
ただ今日は少し違う。しん、としたがらんどうのオフィスで珈琲を淹れる。
見渡す限りで私以外に残っているのは今ひたすらに電話で謝っている彼だけだ。
彼の周りにしか電気はついていなく、まるでスポットライトのように照らされていた。
「すみません!はい!そのように手配いたします!」
先ほでデスクで順調に仕事を続けていた彼は、電話のモニターに映る‘お取引様‘の名前が表示されてからすっかり変わってしまった。いつも彼が顔に出す、怒られているときの顔。まるで処刑のようだ。
「そうです、日が変わるまでには!はい!」
自分が怒られている時は全く散々だと内心焦ったり毒を吐いたりするのだが、どうしてか、他人が怒られているときにははいはい、と他人事でいられる。
彼だからなおさら意地悪になってしまう。
「はい、畏まりました!あ、はい、いえいえ!それでは!失礼致します。」
相手方がぷつりと切るまでの暫くの間、彼はずっと顔をこわばらせていた。
ぷつ、ぴー、ぴー、という音がオフィスに響く。いつもなら他の音でかき消されるのだが、今日ばかりは別だ。
彼は電話を耳から恐る恐る離して、まるでガラスを扱うように丁寧に置いた。
「……はぁー…。」
彼がため息をつきたい気持ちはよくわかる。
ふと、気が付いた。彼の息が白かった。そういえば二人しか居ないのだ、暖房なんてついているはずがない。仕事に夢中で気づかなかった。
ちら、と今自分が淹れたコーヒーへ目をやる。ラックには空のカップが置かれていた。
彼はすでにデスクチェアに座り込んで作業を始めていた。私の気配に気が付いたのか、彼が口を開いた。
「悪いな、聞きたくもない物を。」
「いいえ。」
にひひ、と笑みを浮かべて、コップを彼の目線に映るように持っていく。
「なんだ、酒か?」
私の笑いにつられたのだろうか。冗談が返ってくるとは。
「コーヒーでっす。」
少し大げさに茶化してみる。
「だろうな。ふぅ、今日で何杯目かな。」
やれやれといった感じで、手を広げる。
私は彼の手の近くまでコップを近づけた。
彼が悪いな、とグラスを受け取り、コーヒーに口をつける。
ふぅ。私も一息つく。
「温かいな。」
「さっき淹れましたからね。てか、寒いんすよね。」
温かい物は良い。心を落ち着かせてくれる。すると彼がしんみりと口に出した。
「全員、帰ったんだなあ。」
しばらく返答に困る。他愛もない返事を返した。
「残ったのは俺達だけか。」
「ま、しゃちょーめいれいじゃあ仕方ないっすよね。」
「ははは、そうだな、後で絞めてやる。」
時計に目をやると、すでに23時を過ぎようとしていた。
社長に『若葉と加瀬は暫く残れ、それ以外は全員帰宅を命じる。』
などと言われたのを思い出した。それからもう5時間は過ぎようとしている。
「しかし、今日はもう何もないと思ったんだがなぁ。」
ふー、と手のひらを温める。
「電話で話してたやつっすか。」
「うん。発注ミスで店まで商品が行かなかったみたいだ。まぁ、今日のうちに手配するさ。」
あと一時間しかないが、なんだかんだと彼は仕事を終わらせる能力とコネを持っている。大丈夫だろう。
「明日うち、休みっすからね。今日うちら残ってなかったら危なかったんじゃないっすか?」
「ははは、まぁ、その時はその時だ。」
ずずず、と、熱い珈琲をすする音だけが響いた。
「ああそうだ、若葉は帰っても問題ないと思うぞ。」
「いや、まだうちも仕事残ってます。」
「そうだったのか?てっきり若葉のことだから、終わってるものだと思ってたよ。」
嘘をついた。本当は彼の言う通り、仕事は終わっている。
「買いかぶりすぎっすよ。あとあれっすね、加瀬さんまだ珈琲飲みますよね?」
少しだけ、彼はきょとんとしていた。そうしてから目じりを下げて笑った。
「そうか、助かる。あまり無理するなよ。」
かちゃ、と手元にあったコップを手に、二つ隣の自分のデスクまで戻る。
「了解です。」
少し、にやけているから、好都合だった。
暫くオフィスにはキーボードをたたく音だけが響いていた。
私はどうしていたかというと、自分のSNSだったり、もう完成されてるワークシートだったりを開いて仕事をしているふりをしていた。
幸い席が離れているから、のぞかれることはない。こういうサボりだけ得意だと思っている。
さも一仕事終わったかのように、伸びをしてから、立ち話する分はあるだろうと、予め残しておいた珈琲を持つ。
とことこと彼のデスクまで近づく。
はたから見ればお笑いかもしれない。わかっている。
すぅ、と空気を吸い込んで口を挟む。吸い込んだ空気は冷たかった。
「しっかし、清水社長は何考えてるんすかねー。」
「ん?ああ、ほんとだな。」
ちらりと目線がこちらに向く。彼がやっかんでいるなんて気はしなかった。
「なんでもう、よりにもよってこの二人なんですかねぇ。」
少し、視線から目をそらす。
「あはは、そうだな。他の奴ら、なんでこの二人なのか不思議がってたな。」
「そうっすね。うちらが幼馴染だって知ってる人、もう居ないですもんね。」
「幼馴染だなんて知られたら、お気に入りがどうとかなんとか言われるからな。清水はそういう奴じゃないんだが、わからない奴はわからない。」
昔の話だ。
清水社長と彼、そして私の三人はいわゆる幼馴染である。それぞれ独立してから清水社長がこの企業を立ち上げた。私たちはそれに乗った形になる。
「最初の頃は大変だったな。あいつら二人は社長の馴染みだから、優遇されてるとかなんとか言われてなぁ。」
少し懐かし気に話す。そうか、もうそんなに時がたつのか。
「それ以来接し方も変わりましたねー。付き合い方が平と同じになりましたし。もー、嫌になるっすよ。」
かと言って、本当に嫌になったわけじゃない。社会でうまく生きていくためには、そういう手を取らなければ難しい。そんなのは私たちもわかっている。
「まぁ、そうじゃないと示しが付かないからな。若葉もわかるだろ。」
ほら見てみろとはこのことだ。
「そうっすね。わーってますよ。」
少し機嫌を損ねたように言ってみる。すると彼は少し笑って。
「なんだ?またすねたのか?」
とにやにやしながら言ってきた。
私も負けじとにやにやする。
「ふーん、さっきの電話での取り乱す具合、忘れませんからね。」
彼はバツが悪そうに、電話はどうも苦手でな、と言った。
そうして私はにひひと笑う。
私は清水さんと加瀬さんの一個下で、同じ幼稚園、小学校、中学と過ごした。
なんだかそのころを少し、思い出す。こうやって加瀬さんと二人きりになるのも久しぶりだ。清水さんもいた頃は、本当に楽しくて仕方なかった。
「だけど、珍しいな。今でさえ問題ないが、俺と若葉を名指しで残すなんて。」
「あー…そう、っすかね。もう大丈夫だと思ったんじゃないですか。」
首を少し傾ける。
「そうか?ただでさえ今日はさ、」
彼がしゃべるのと同時に私は急いで珈琲を飲みほした。苦い。
「あ、珈琲もうなくなっちゃいました。加瀬さんのも淹れてきますよ。」
彼は不思議そうにそうか、悪いな、と言ってグラスを差し出した。
私は逆に不自然なほど冷静にグラスを持ち、給湯室へと逃げるようにして向かった。
「応、若葉。少し良いか。」
今朝がたのことだ。私がいつものように資料を渡しに行くと、そう声をかけられた。
まだ社内には私たち二人以外誰も居らず、静まり返っていた。
「は、はい。なんでしょう。」
私は突然声をかけられて、驚きを隠せずに緊張した口調でそう言った。どこかで阿呆な烏が鳴いたみたいだ。
すると社長は噴き出して笑った。顔まで真っ赤だ。
「だはは!二人きりなんだからそう身構えるな。それとも二人きりで何言われるかわからないからか?」
「そ、そうっすよ悪いっすか?今何言われるかわかんなくてヒヤヒヤしてるんすからね。」
大抵この人が何かを持ちかける時はろくでもないことばかりだ。
そういえば、昔からこうだ。清水さんが鉄砲玉のような事を思いついて、行動をして、それを加瀬さんが止めたり止めなかったり。
今でさえ交流は減ってしまったが、昔はこの凸凹コンビの輪の中にいるのが楽しくて、嬉しくて仕方がなかった。
「若葉、お前は加瀬の事が好きだろう?」
ぎし、とチェアが軋む。腕を組んで椅子に深く座り込んで、にんまりとこちらの反応を楽しんでいる。
「うわぁ…。ドン引きっす。その無神経さ。」
近頃で一番の顔の引きつりを見せた。どうせなら乗っかってやろう。
「ん?誰もいないじゃないか、気にするな!」
まるで問題がないかのように首を捻っている。ウザい。
「そういうところっすよ。」
ぼそりと呟く。
「てか、今更それがどうしたんすか。清水サン、高校の時から基本傍観者じゃないっすか。」
「基本、な?」
はぁ、とため息を付いて、手元にある資料を叩く。
「うい、資料!早朝から無駄話をあざした!!」
そうして踵を返そうとした時。
「明日は何の日か分かるな?」
足を止める。ぎぎぎ、と首をゆっくり反対側へ向ける。
「なんすか。」
目を向けた時点で負けだった。にやけたまんまの清水さんの顔が見えた。
「いやなに、お前を小さい頃から見てるがなぁ、そろそろ踏ん切りつけたほうが良いぞ?後は老いてくばかりな、うお何だその表情!」
「モラ、パワ、セクハラ!!なーに考えてるんだよこのどアホ!」
ダメだ、もうこうなってしまっては清水サンのペースだ。
「まぁなんだ、今日は俺からもプレゼントがあるから、しっかり使えよって事だ。」
「あーはいはい。」
そんな台詞を言った頃にはもう、わざとらしい足音を立てて部屋から脱出を試みていた。が、清水サンのこぼした言葉が耳に引っかかった。思わず足を止める。
「…俺は、お前らにまだ恩返しできてないからな。」
ちらりと見えた、笑いたいぐらいに寂しい顔。
ふわりと手を振る。
「…けっ、こんなんでカウント入れませんから。」
そもそも何されるのか聞いていない。ただ、まぁ、
「少し、期待しときます。」
「…ふ、あと5年若かったら射止められてたな、その笑顔。」
どうやら小さな反撃ができたようだ。だが。
「うるせー軽薄ナンパ野郎が!!!!失礼致します!」
そう言って、部屋を出た。ドアが勢い良く閉まる。
「あーほんと、うるせー…。」
思わず、呟いた。清水考一。やっぱり嫌いである。
そんな出来事から、もうかれこれ半日以上経つ。
「あ゛―…。」
コポコポと沸いていく珈琲を見て、唸り声を上げていた。
「いつまで恋心を引きずるつもりだし…。」
誰に言っているわけでもない。私自身に言っているわけでもない。ただ言葉が溢れてしまう。
この世にあるものは大抵時間が経てば腐っていく。
恋心もそうだ、若いうちなら幾らでも無茶ができた。が、もうこんなになってしまっては無茶も効かない。
「あながち今日で最後なのかもね、こういう時間…。」
一秒一秒、腐っていくとは同時に時間も経つということ。二度と同じ時間は来ない。
グラスに淹れた珈琲に私の顔が映る。ぐるぐるとマドラーでかき混ぜて遊ぶ。
「ふふっ。」
こうやって無駄な時間を過ごして、どんどん腐っていくのだ。
虚しい。
「今日はもう、帰るか…。」
グラスを両手に持って、給湯室から出る。
これだけ渡して帰ろう…。すっかり鬱モードだ。
私の足音に気づいたのか、加瀬さんがこちらを向く。
子供のように可愛らしい笑顔。
そう言えば、夕焼けに染まった道を一緒に帰ったあの日、この笑顔にやられたのだ。
…何回、この人を好きになれば、私は懲りるのだろうか。
貴方と居る時間がとても楽しくて、これが恋だと気づくのにだいぶ時間をかけてしまった。
もう、見れることはないんだなあ。そう思って、口にはしない。
「おかえり、若葉。」
「ああ…すみません、少し冷めちゃいました。珈琲。」
恋は未だ、冷めてないのだが。
「気にするな。」
はい、と珈琲を渡す。
「なんだ、温かいじゃないか。うまいぞ。」
「…それなら、良かったっす。んじゃあ、自分もう帰るんで。」
ハンガーからコートをぶん取って、袖を通す。もう決めたことだ、早くおしまいにしよう。
マフラーがいい感じに顔を隠してくれる。
よし。帰ろう。
足を一歩踏み出した、その時。
ぴぴぴ、と電子音が耳に入った、それは。
「メリークリスマス、若葉。」
深夜0時と、クリスマスを知らせる音だった。
「…はい」
会社から出て、駅についても足が止まることはなく、いつの間にか公園まで来ていた。
さっきからメリークリスマス、という言葉だけが頭を巡っている。
それは私の小さな決意を掻き立てるには十分すぎた。
いつの間にか雪が降っている。
ひらひらと不安定に地面に落ちる雪は、どうしたらいいか分からず涙を零す私みたいだ。
クリスマス 砂浅葉由 @koto09
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