涙の値段

「ねぇ、今日の実験で取れたデータなんだけど、まだまだ足りなくて平日だけじゃ間に合わないんだ。土曜は先生が出張で実験室開けてくれないから日曜にまた学校に集まってみんなでやらない?」

「ごめん、今週の日曜はちょっと、」

「あ、そうか、ごめんごめん。そうだったな……。何かあったら遠慮せず言ってくれよ、相談、乗るから。それと、今回の件だときっとあれを申請するだろう?おごりって訳じゃ無いんだけど…その分ぐらいは俺たちが払おうか?」

「いや、そんな対した額じゃないし大丈夫。ありがとう」

とある大学に通う学生である彼は学校の近くに部屋を借りて一人暮らしをしていた。シングルマザーの家庭で育ち、父は彼が幼い頃に病気で他界したため父との思い出は何もなかった。物心のついた頃からずっと親は母一人だった。

その母が先日亡くなった。事故死だった。彼が一人暮らしを始めてからは母は田舎の実家で一人で暮らしておりこのところ行方不明となっていたが、その家と近くの街を繋ぐ山中の片側が崖になっている道路の下で壊れた自転車と共に警察に発見された。連日降った雨のせいでタイヤが滑って転落したらしい。一昨日親戚からそのような連絡があった。

この親戚は彼の実家の隣町に住んでおり、母が勤めている間は預かって貰ったり親戚の子供と同じ高校だったので共に登下校したりとよくお世話になっていた。

「…ということだったって警察から連絡があったんだけどそっちにも連絡いってるわよね?」

彼は自分の部屋の壁を人差し指と薬指で同時に二回、トントンとタップするような動作をすると、ポンッと画面が表示された。そして要求された自身のIDを人差し指で入力していく。壁に指先を接触させなくても宙に浮かせた状態で動かせば部屋に設置されたカメラが精密にその動きを追うのでタイプミスは起こらない。このようなデバイスは彼の部屋に限らず学校の机や街の建物の壁など至るところにある。昔は個人でそういった機種を購入する時代もあったが今ではこのようなライフラインは国が管理、保障するのが当然である。彼はホーム画面を開き電話マークを「タップ」すると確かに警察からの連絡の通知が入っていた。

「あ、はい。今確認しました。丁度この時間は学校で実験していたので気づきませんでした。すみません、連絡取り次いでもらって」

「いいのよ、全然大丈夫。それより、今回は大変なことに…なったわね…」

「え、あぁ、ちょっと信じられなくて。本当なんですよね…」

「えぇ。無理も、無いわ。いきなりだものね…。私だって連絡を見たときは信じられなかったもの。でも、警察署で彼女のね、顔を見るとね、くぅ、うぅ、」

親戚の叔母さんは画面の向こうで涙を堪えていた。目尻に涙を浮かべている姿が映る。

「そんな、泣かないで下さい。」

そう声をかけたのが良くなかった。叔母さんはなんとか我慢していた涙をポロポロとこぼした。

「何だか、すみません。でも本当にそんなに泣かないで下さい。何円もかかってしまいますし勿体無いですから」

スクリーン越しでも彼女が左手首の手の甲側に埋め込まれているヘルスディスプレイに表示されたエクスクラメーションマークが青く点滅しているのが分かる。ヘルスディスプレイとは(感情に関する制度の成立時、)国民の健康管理として手首へのインプラントが義務化されたもので正常時は脈拍や血圧、体温、一分あたりの消費カロリーが小さく表示されそれら基本生体データが座った状態での基準値を外れた時は加えてエクスクラメーションマークが青く点滅する。叔母さんも今、脈や呼吸の乱れに加え涙の量や泣くことで消費されているカロリーが計りとられているのだろう。

「うん、ありがとう。でもね、これぐらいはね、今泣いても惜しいとは思わないわ。」

彼女は頷きながらTシャツの裾で目元を抑えた。

「ごめんね、私ばっかり。」

「いえ、」

それ以上は何も言葉をかけなかった。これ以上泣かせてしまっては色々と申し訳無いと彼は思った。

やがて彼女の落涙がおさまると手首の青い点滅も消えていた。

「彼女、今回こういう亡くなられ方だったけど私会う度に毎回聞いていたわ。あなたのこと、誇りに思っているって。苦しい家庭だったけど良くここまで頑張ったって。あなたの大学進学凄く喜んでたわ。だから今回のことは辛いだろうけど彼女のためにも大学やめたりしないでね?」

「はい、母からも同じようなこと言われていたので。」

「それとね、葬式のことなんだけど」

「それなら大丈夫ですよ。自分一人で手配とかしますから。」

「いや、今回のケースは少し特殊になるのよ。お母さんの遺体も一応検視とかがあったりその後の手続きとかも何かと面倒らしくて警察の人に伺った話から考えると研究が忙しくなってきたあなた一人じゃかなり大変だと思うの。だからあなたの実家の整理とかは学期終わりとかまとまった休みの時にこっちに帰って来てやってもらうとして、それまではうちらがあなたの家を見ておくから。それで今取り敢えず急いでやらないといけない手続きと葬儀屋さんとの打ち合わせは私たちがやるから。」

「いや、いくらなんでも申し訳無いですよ。」

「いいのいいの。うちの息子も親の手から離れているし、夫とやればなんとかなるから。それに彼女のことを考えるとあなたが今やるべきことは研究だと思うわ。でもそうね、やっぱり最後くらいは会いに帰ってくる?」

「いえ、こっちで研究を頑張ります。進学が決まって実家を出る前に母が言ってたんです。『いい?ただの大学合格じゃないの。あなたが死に物狂いでつかんだチャンスなんだから無駄にしちゃ駄目よ。お母さんが死んだくらいで帰ってきたりしたら許さないわよ。』って。だから叔母さんたちにはお手数御掛けしますが次の休みまでは帰りません。」

「うん、分かったわ。あなたが勉強頑張ってたのも知ってるから迷惑かけてるなんて思わなくていいからね。あ、そうだ。感情税のことは自分で申請しておいてね。こればっかりは私じゃ出来ないからとこぼした。

感情税とはここ最近、ヘルスディスプレイの精度共に導入された制度である。以前から地球環境問題やエネルギー問題に困じてプラスチック材料の不使用化やガソリン車の廃止促進等、様々な対策がなされてきた。

が、どれも目を見張るような効果は得られてはいなかった。そして数々の政策を余所に止めどなく進む人為的温暖化問題やそれに伴うエネルギー問題に一刻の余裕もないというデータや論文がここ数年で更に激増したことを受けて各国首脳陣による会議で脱資本主義が提唱され、それと同時に作られた「先進国における国民感情コントロールによるエネルギー消費削減」に我が国の政府も例に漏れず批准した。人間は理性ある生き物として、基礎疾患の無い人たちにたいして感情を有料化し可能な限り興奮状態の生じる場面を減らすことで一人あたりが消費するエネルギー及びイベント等で使用される資源量を抑えることを目標とされた。

例えばコンサート。有名なアーティストによるものならなおさら効果は高い。コンサートを観に行くときは前もってその旨を政府の感情管理庁ホームページで申請することが推奨されている。申し込むとコンサートで興奮した際、この場合はディスプレイでエクスクラメーションマークが緑色に点滅し計測された生体データを基に消費カロリーに相当する感情税をが後日口座から引き落とされる。事後払いでも可能だがその場合、興奮時には青く点滅し申請した時よりもやや割高の請求連絡が届く。その為予測出来る分は申請しておいた方が得なのだ。この税収は環境問題に関する研究資金にまわされ一刻も早い解決法が模索されることになる。

勿論導入時は各国で不満の声が続出した。


感情は個人の自由であるべきだ、と。


そしてそれに基づくデモも各地で起きた。しかしデモを続ければ続ける程個人が国に納める税金は増えてしまう。何をするにも金がかかってしまうのだ。何しろキャッスレス化が進んだ現代ではその税金を納めたくなくても勝手に口座から回収されてしまう。破産してはそもそも生きていくことも出来ないとほとんどの人が考え次第にデモは終息していった。

この様に人々は様々なイベントを縮小した為それに伴う資源やエネルギーの削減も出来ることもこの政策の狙いでもあった。

戦争もなくなった。いや、というよりもそれに割くお金がなくなったのである。どの国も最重要事項は環境問題に関する研究だった。

今や人類はかつての歴史の中で最も暗澹とした時代を生きている。しかし同時に最も争いのない「平和」な時代を迎えた。

それでも責めて冠婚葬祭においては感情の自由を認めて欲しいという声は比較的長期にわたって残っていたが政府は

「個人にとって最も大事なことは冠婚葬祭とは限らない。そう決めてしまうのは少数派の差別に繋がりかねない」

として、感情税の軽減はされなかった。例に漏れず彼の場合もその申請が必要となる。

「やっぱり申請しておいた方が良いですかね」

「私はそう思うわ。今は突然のことでそういう気持ちにはなってないのかもしれないけど、少しして落ち着いたらやっぱり必要になるんじゃないかしら。もし興奮状態にならなかったらならなかったで全額返ってくるし、先払いしておいて損はないでしょう。しっかし、こんなことにまでお金を払わなくちゃいけないなんて、ねぇ?」

「でも、そういうもんだと思って暮らしてきましたし、もう僕は馴れてしまいましたよ。感情税のことは分かりました。考えておきます。」

「うん。じゃあ、こっちのことは私たちに任せて。今後も何か辛いことがあったら遠慮無く言ってね。それじゃあ、葬儀場と日時が決まったら連絡入れておくから。」

「はい、宜しくお願いします。」

彼女が回線を切ると何もない壁だけになった。彼は暫くぼおっと真っ白な壁を見つめ、ただぽかんとしていた。



突然のことで今回のことがまるで頭に入ってこない。それは最初の連絡があった日から2日経った今日もそんな調子であった。学校にいる間は友達と研究に没頭して忘れられていたが家に帰ってくるといつの間にか同じことがぐるぐると頭の中で回ってしまう。


「全く実感が湧かない、本当に死んだのだろうか。」


ニュースをチェックしながら夕食にカップ麺をを食べたりシャワーを浴びたり部屋から学校にネットでアクセスしてデータ解析を淡々とこなしていてもその疑問が頭に浮かんでくると眼も口も手もピタッと止まってしまう。

「お母さんが……少しも信じられない。実は行方不明とかではなくてどこか遠くの安いスーパーにでも買い出しに行っていたりしないのかな。今頃しれっと帰ってきていて家にいるんじゃないだろうか。連絡したら出るだろうか。いや、きっと洗濯物でも取り込んでいて気づかないだろう。用があればまたかけてくるだろうと思って折り返しなんてしないし。」

椅子の背もたれに寄りかかり頭のてっぺんの髪の毛を数本つまんで捩りながら、ただただずっと考えてしまう。

「うーん、このところずっとこんな気持ちだ。なんだか、ちゃんと実感している自分を想像できない。」

その為彼はまだ申請をしていなかった。これからも毎日今までのような生活が続く気がしてならない。

また以前には友達から遊園地に誘われて一度だけ申請したことがある。アトラクション自体つまらなくは無かったのだが事前にそういう風に申請すると乗っている最中でも、いまひとつ盛り上がれず手首もそれ程緑色に点滅しなかった。その為、数日後には少なくない割合で還付金として戻ってきていたことを覚えていたのも申請を渋っていた理由の一つかもしれない。

椅子に座って悶々としていると壁に通知が表示された。開くと叔母さんからの連絡で葬式は日曜日の午後三時から六時とのことだった。参列者も叔母さんのところの家族と彼の他には親戚が三、四人だけらしい。最近は葬式も随分と簡略化され、この様なケースがほとんどで実際に集まることは滅多に無い。

それから葬儀場はこのようなところです。

そう書かれた文の下には今回予約してくれた葬式場の写真が添付されていた。

「そうか、やっぱりそうなんだ…」

先程までフワフワと宙に浮いていたものがゆっくりと降りてくる感じがした。写真を見ているとそこには母の入った棺が日曜日にはここに置かれているのが何となくだが想像できた。お母さんはもういない。連絡しても何も返ってこない、そう思えた。しかし込み上げてくるものは全く感じられなかった。まるで凪のように静かだ。一体どういうことなんだろう。このなんとも言えない不思議な感覚は。

「だけど叔母さんが言っていたように葬式が終わればそうなるかもしれない。一応申請しておくか。」

彼は体を背もたれから起こし、机を「タップ」してネットに繋いだ。

申請自体は庁のホームページに行き、申請フォームに沿って入力すれば良いのでそれほど複雑ではない。

「あとは予定感情の日時指定か。当日は夜の十二時まで枠を取っておくとして月曜日以降はどうしようかな。」

少し悩んだものの月曜日からは学校もありそうめそめそと泣いてはいられないだろうと考えて当日以降の予約はしなかった。



葬式の日。昼食を軽く済ませた後、自分の部屋の椅子につき、そばの壁を「タップ」して画面を起動させる。三時より大分早めに葬式のルームに入室すると既に叔母さんの家族が入っていた。

「どう、気持ちの整理は。少しはついたかい?」

「えぇ、はい。お陰さまで、」

確かに母の死の実感はあった。だが相変わらず感情は高ぶったりせず穏やかだった。母と行った旅行の写真や組み立てを手伝ってもらったプラモデルの飛行機など、思い出の品を見たりしても、


懐かしいなぁ、まだまだ一緒にやりたいことあったのに…


と思うだけだった。


いっそ今日までにでも実家に帰って母の顔を見れば……


何度かその考えは浮かんでいた。母の顔を見ていないからなのではないかと。しかしそれと同時に母の言葉がよぎり、それではいけないと思い直す。


いや、駄目だ。何があろうと帰ってくるなと言っていたじゃないか。お母さんのおかげでこの大学に入れたんだ。責めて今の実験が一段落するまでは、長期休みまでは帰るなんて申し訳無い。


少しすると親戚がぽつりぽつりと入室してきたのでその度彼は親戚たちに決まった挨拶をした。そうこうしている内に出席者が揃い、三時になると読経が始まった。また暫くして焼香を行う。自分のアイコン画面に表示された焼香ボタンで行う。彼は一度礼をした後ボタンを三回、ゆっくりと「タップ」し、最後にまた礼をした。自分の番を終えたらそのボタンを次の人のアイコン画面へ「ドラッグ」する。

火葬場へ運ぶのも骨上げも全て業者の人たちが行った。

そうして一連の流れが済み葬式は無事終わった。参列者が退出していくとまた何もない壁になった。

フゥー、と軽くため息をつくと彼は椅子から立ち上がりまたいつもの生活に戻った。

そうするのもずっと心の中に存在している空白感を忘れたかったからなのかもしれないが体を動かしても、それを自分から消すことには役立たなかった。

ゴミをまとめたり、課題をこなしたり、ニュースを読みながら夕食をとったり、シャワーを浴びたり、歯磨きをしたり。色々やっても駄目だった。

そしてまた椅子に掛け、ぼーっとする。手首には健康的な生体データの下に申請した時間までのタイムリミットが表されている。

「あと三十分か。全然涙なんて出てこないや。全く、なんなのだろう、この空っぽ感は。」

暫く彼はそのことについて考えた。


悲しいって、なんだっけ


そう思った彼は引き出しから出した手鏡を机に置き何もない壁に立て掛けた。すると鏡に映ったのは母が死んだのに自分の顔は随分と素っ気ない表情だった。眉間にはシワが寄らず、眉は眼から離れている。目蓋には全く力が入っておらず目尻は垂れ下がりそのせいで瞳の上半分は欠けているその下の頬はツルッとしていてここに表情を表す筋肉は有るのか疑わしい程だ。

「酷い顔だ、そりゃあ涙も出ないわけだ…」


5、4、3、2、1、0


申請時刻の経過が手首に表示された。


「十分に笑ったり泣いたり驚いたり出来ましたか?この度は申請有り難うございました。次回も地球環境のために申請を宜しくお願い致します。」


彼はそれを見て自分の中から勢い良く込み上げてくるものを感じた。

「そうか、こんなにこの法律が染み付いていたとはなぁ……。環境破壊は俺から感情も取り去ってしまうのか。」

全てを悟った。彼は爪が掌を貫く程拳を固めた。全身が小刻みに震えているのを感じた。


その途端、手首が青く点滅し始めた。生体データがどれくらい乱れているのかは視界がぼやけて良く見えない。

母を想う涙は一滴も出ない。彼を泣かせるのはこの社会が感じさせる虚しさだった。

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