椅子取り「ゲーム」
ある休日の昼。一人の男が、やることも無くただぼぉっとしながらゴロゴロしていた。
「毎日同じで退屈だ。平日は朝から晩までしたくもない仕事をして土日はただこうやって寝ているだけ。かといって何か新しいことを始めるのも煩わしい。あぁ、こうやって生きていくのも苦なだけだ。」
そんな風に考えていた時だった。外でクラクションが鳴る。
「まただ。」
というのもこの音、初めて聞いた音ではない。いつ頃からかは忘れたが土日のこれくらいの時間によく聞くのだ。他の車がすれ違いなどで鳴らす音とは明らかに違う。他の車よりも軽快な音なのだ。私はこの音が結構気に入っていた。やはり音に似てお洒落な車なのだろうか。最近はよくそんなことを思いながら聞いていた。
然し今日こそどんな車なのか見てみたい。私はベランダへ駆け寄り見ると赤い乗用車が一台停車していた。バンパーは光沢の強い銀色の金属で、全体の形は一昔前のヨーロッパ製のものを彷彿とさせるような、丸みを帯び上品で可愛らしい車だった。どうやらあの車が鳴らしたらしい。また、すれ違いのようではなく発車する様子もない。せっかくなので外に出てその車の運転手に尋ねることにした。
「今クラクションを鳴らしたのは貴方ですか?」
「今というのが先程のことなら恐らく私ですが。」
「土日はよくこの道を通りますよね?」
「えぇ」
「いつも妙に軽快な音のクラクションが聞こえるなぁと思っていて、気になっていたもので。」
「そうでしたか、何なら今鳴らしてみましょうか?」
「それはありがたい。これで小さいながら日頃抱いていた疑問が解決する。」
運転手がハンドルの真ん中に手を掛け、それでは、と言うようにこちらを見ると力を入れてぎゅっと押す。するといつも部屋の外から聞こえて来るあの音が今目の前で奏でられた。
「やはり貴方でしたか。いやぁこれでスッキリした。私のくだらない疑問に答えてくださりどうも。」
「いえ、大したことでは。失礼ですが、今何をされてたのですか?」
「えぇ、今日は休日なのですが私は無趣味なもので特にやることもなくのんびりしていたところです。」
「そうでしたか。では疑問に答えた代わりに共にドライブでもどうでしょう。1人で、というのも悪くはないがやはり話す相手がいた方が楽しいので。」
「そうですか。ではお供させて頂きましょう。」
「あと1つ。先程までも運転をしていて少々疲れているのです。免許をお持ちなら、運転を替わって頂きたいのですが、」
「えぇ、構いませんよ。早速行きましょう。」
私はそれ程ためらいもなくその申し出にのった。
人付き合いが上手ではないが思いの外その人と話があった。最近の政治の話や今話題の芸能人のこと、去年から続く消費税増税のエスカレート具合など。話してみると意外にも話題に困らなかった。いや、相手の聞き上手さに起因しているのかもしれない。何しろこんなにも心地よく話せている。さっき会ったばかりの筈なのにまるで自分の兄弟と話しているかのような気楽さを感じる。ドライブに誘われたのは中々運が良かった。
二人で話しているとあっという間に時間は過ぎ、ふと外を見ると日の入りの頃だった。
「今日は有り難うございました。お陰で1日楽しい休日となった。明日はまた仕事なのでそろそろ帰りたいのですが。」
「もう少し良いではありませんか。何ならその仕事私が変わりますよ。」
「ご冗談を。でもまぁ楽しいしもう少しなら。」
せっかく楽しいドライブだ。もう少しくらい、まぁ、いいか。
相変わらず話が合う。然し何か違和感を感じる。今一つ自分の記憶を思い出せなくなってきた気がする。さっきまでは運転に集中しているからだろうと思っていたのだが、やはりおかしい。私は段々と怖くなってきた。しかも辺りはすっかり真っ暗だ。
「もう日が暮れましたし、いい加減帰らないと。明日だって大事な仕事があるんです。あれ、何だっけ。確か明日は…」
「お得意様のところに営業へ行くんでしょ?」
「あぁ、そうだった。何故貴方がそれを。先程述べましたっけ?」
「何故って、私が貴方になったからですよ。」
「何を言って…」
ふざけたことを言うその人に目を移して私は仰天した。隣には月光で照らされた「私」が座っていた。それはマスクを被っているわけではなく、クローンのように私として隣に在った。いよいよ恐ろしくなり近くの道端に車を止める。
「な、何ですかこの茶番は。ふざけるのも度が過ぎてますよ。もう私は帰る。」
「貴方こそ茶番がお好きだ。その顔でどこに帰るのですか。そこのミラーでも見てごらんなさい。」
もう訳が分からなかった。そこに写っていたのは自分の顔ではなく、先まで隣に座っていた人物の顔だ。
「ま、まさか入れ替わったとでもいうのか。そんな、あり得ない。一体どういうことなんだ。」
「どういうことって、見たままの事実ですよ。まぁとは言っても少し変わった事実ではありますがね。」
「何が少しだ。冗談じゃない。早く元に戻せ。何で俺がこんな目に会わなければならないんだ」
「ご自分で仰っていたではありませんか。こんな人生は苦だと。だから代わってあげたのですよ。いやぁ、実を言うと私もこうやって人生を取られたんですよ、ちょっとした好奇心でこの車に乗ったが為に。その時まで自分の人生なんてつまらないものだと思っていたのですがね、やはり自分なりに積み上げた人生をいきなり他人に取られるのは嫌なものですね。しかも渡されるのは犯人の顔。こんな屈辱的なことはありませんよ。憎い顔をつけながら毎日思った、また平凡でいいから普通の人生を送りたい、もうこんな顔と向き合いたくもないと。然し貴方のお陰でやっと『人間』に戻れますよ。それにしてもその顔、見ているだけで不快ですねぇ。」
新しい「私」がニヤっと笑って私の肩をポンと叩いてそう言った。だが私は怒りと恐怖と絶望が一気に押し寄せ、
「あぁ、あぁ、」
と、涙も流せずに喘ぐばかりだった。
そんな私を更に嘲笑う新しい「私」はうっすらと透けていき、次第に消えてしまった。
私は車に一人残された。何もかも失って。一瞬で全てが奪われた。今までに感じたことの無い虚無感。然しミラーに映ったこの顔を見ると段々と苛立ってきた。この先鏡を見る度にこんな気持ちになるかと思うともっと腹が立ってくる。 私は怒りに任せてアクセルを踏んで車を走らせた。一刻も早くこの顔を誰かに擦り付けてやる。
いつの間にか夜が終わり辺りはすっかり明るくなっていた。然し私には眠気に襲われるほどの余裕などない。誰でも良い、とにかくこの顔を自分の一部から切り離したい。このままなんて真っ平ごめんだ。
そう思っているとあるマンションが目に入った。上を見上げると5階辺りのベランダでたそがれている男がいる。
早速クラクションを鳴らしてみよう。今では不快に感じる、あの軽快な音を……。
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