Kill the Hair その①
空が深い藍に染まってゆく。人々は近頃、夜に灯りを点すようなことは滅多にしない。化物に目をつけられないように、日暮れと同時に家に閉じこもってしまう。
どこかの家で声がする。
「おっ母、オレまだ眠たくねえ」
「わがまま言うのはおよし、寝ないと髪切り様に頭の毛持っていかれるよ」
鋭い月光は薄雲に遮られ、堀には闇が澱んでいる。柳が夜風に揺られ、生暖かい風がひゅうるりと首筋を撫でていく。黒い水面めがけて垂れた柳の腕が、それに合わせて虚ろに揺られている。
「こりゃあ、流石に雰囲気あるぜ……」
思わず唾を飲み込んだ風天丸は、茶屋の屋根瓦から街道の様子をうかがっていた。その時妖鬼妃が箱を蹴ったものだから、思わず心臓がドキンと跳ねた。
「おい、髪切りは出たか。……なんじゃ怯えおって」
「急に蹴るなよ! まだ背後から音するの慣れてねえんだよ!」
「そんなことは知らぬ、髪切りは出たのか」
「それどころか人っ子一人居やしねえ。なんだか不気味な街だなあ」
「風天丸、こうなっては致し方ない。降りろ」
「だよなあ、俺もこんなメチャクチャな仕事、降りた方が良いと思ってた」
「木偶の坊!
髪が切られちゃ恰好つかねえ、と反対したが、妖鬼妃の「誰に恰好つけるつもりじゃ」という言葉で観念した。思えば恰好つける知り合いもろくにいないのである。
「心配するでない、最悪髪が切られるだけじゃ。怪我したという話はされぬであろ?」
「そりゃ善良な一般市民ならそうかもしれねえけどよお、
「お主は狩猟の時に『これから捕まえるぞよ!』と叫んでから弓を射るほどの馬鹿なのか? 妾に任せておけ」
さて、暗闇に一筋通った道で、物陰からその様子をうかがっている痩せ細った男が一人いる。着流し姿で目深に被った菅笠。腰の物から放たれる妖しげな気は、猫が毛を逆立てて逃げていくほどである。
「ゴホ、ゴホ……今宵は獲物無しか、近ごろは夜道を歩く者が減ったからな。ううむ、有名になるのは願ってもないが、こう誰も来ぬと拙者の
男の独り言は、砂利を蹴る音で掻き消された。姿勢を低くして耳をすませ、鼻をひくつかせる。
「若い男。随分と年季の入った足袋で、何か大きな荷を背負っておるな、行商人か」
脣を嘗め、鯉口を切る。仕事をする前にこうすると決まってゾッとするような快感と興奮が昇ってくる。
「随分と怖がっておるようだな、早足だ。…………いや、この足運びは」
途端に男の骨ばった額から、細い顎にめがけて脂汗がたらり。さらに菅笠を深く被って、夜空と同じ色をした襟巻で口元を覆った。
行商人とは無論、風天丸のことである。なんどか柳を物の怪と錯覚しながらも、それを振り払ってひたすら真っすぐ歩いて来る。
「もし」
心臓が跳ね上がる。目の前には一人の痩せ細った素浪人が立っていた。
「お主、なぜここを通る」
「だ、旦那様のところへ早く帰らねえと、叱られるんでごぜえます」
「……昨今、何かと物騒だ。気をつけよ」
「へえ、ありがとうごぜえます! ……待った、どこかでお会いしたこと、ございませんか?」
「知らぬ」
顔を隠し声色を変え、男は行商人が通り過ぎるのを見送った。いくら庶民になりすますとはいえ、こうも易々と背中を見せるとは、人違いかはたまた酷く腕が鈍ったか。
どちらにせよ、斬る。
振り向きざまにジュラッと抜刀し、首筋を大きく横に薙ぐ。若い髪が夜風で飛ぶ。紐の切れた菅笠が地面に落下した。
首元に感じる鋼の気配に、風天丸も思わず歯を鳴らしている。男は髪を斬れなかった。背後に回り込んだ時、二つの紅玉の眼差しがこちらを捉えていたからである。
「噂の人斬りが如何なる者かと思うてみたら、竹馬に乗った鷺のようなヒョロっちい男じゃのう」
「息をする隙すら、この人形には見せられない」男はそう直感した。さらにその荒い息遣いに聞き覚えがあったのか、風天丸が真剣な表情で振り向いた。
「兄貴」
男の名は
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