奇妙な人斬り その①

 夢ではない。目の前にある現象は決して朝靄あさもやを錯覚したわけではない。椀から伝わる温もりを感じながら、風天丸は頬をつねろうかと考えた。ハッキリとシジミの味噌汁と米が、漬物数品を添えてそこにある。湯気が目に染みて涙がこみ上げてくる。

「さすがだよなあ、この兄ちゃんあんまりうまそうなもんだから泣いてやがんだぜ」

 俊助の言葉にお扇は頬を染めて「おかわりしていいですからね」と遠慮がちにこちらを見つめた。

「ありがたい!」と言うや、そこからは一心不乱であった。口に白米をかきこみかきこみ、喉が苦しくなってきたら味噌汁を流し込む。シジミだけどアッサリしている。温もりが腹に溜まるのは、なんとも幸せな心地である。俊助が隣で何か言っているようだが、風天丸の耳には一切入っていない。

 奉行所から出た風天丸を待っていたのは、俊助であった。「約束を果たせねえようじゃ、男はダメだよ」と彼は自分の父の言葉を引用してみせた。一方風天丸は朝餉の約束をすっかり忘れていたのだが、やっと牢獄から出られた気の緩みからか、すっかり足に重しを付けられたタコのようにへばっており、藁にもすがらんと俊助におぶさった。

「俊助、江戸ってのは怖い街だなあ……」

「今頃気づいたのかい? 世間様ってのはおっかねえもんさ。……で、その世間様の目ってのがあるからよ、長屋までは頑張って歩いてくんねえかな。寝床は敷いてやるからさ」

 傍から見れば奉行所で拷問をかけられて満身創痍の男を解放する仲間、としか見えぬ構図であった。

 こうして自分の足袋以上に草臥れた風天丸は俊助たちが暮らす観龍長屋で死んだように眠り、そのまま眠り続けて朝になり、今に至る。

 お扇は俊助をこっそり外へ呼び出して、格子戸から飯を黙々食べる客人を覗き込んだ。

「ねえ俊助、あの人誰?」

「オイラより足の速い兄ちゃん!」

「あたしの聞き方が拙かったわ。何してる人?」

「知らねえけど、妖刀使いを探してんだってさ」

「なにそれ……あ、商人かも。ほら、あれご覧よ」

 お扇が指した風天丸の背後には、彼が奉行所から出てくる時から大事そうに背負っていた木箱があった。

「きっと大事な品が入ってるのよ。あんな船箪笥ふなだんすみたいなの」

 中々に年季の入った代物で、茜色の肌に黒鉄くろがねの鎧を身に着けてある。

「とするとあの大きさ……よっぽどスゲぇのが入ってんじゃねえか⁉」

「声が大きいよ!」

 小さな子供一人が入りそうなほどの大きさである。そういう目でもって改めて見ると、中々どうして千両箱のような風格を持っているではないか。

「待てよ、じゃあどうして商人の兄ちゃんが妖刀使いなんか探すんだ」

「商人なら商売するに決まってんでしょ」

「てことはあの中身は……」

「妖刀使いに売っ払う物を入れてんでしょうね」

「そんな金持ちにはとても見えねえけどなあ……」

 と二人がこそこそ話しているのを聞きつけたのが、観龍長屋の大屋・赤沼あかぬま観龍かんりゅうである。

「お前さんたちね、お客人の陰口なんて叩くもんじゃないよ」

 と二人を一喝したのち、戸をガラッと開けて全て食べ切った風天丸と対峙した。風天丸にしてみれば、おかわりしようにも俊助もお扇もおらずにいたところにいきなり初老の男が入ってきてこちらを見つめているのである。

「あ、おっちゃん、おかわり」

「おっちゃん……? おかわり……?」

 観龍は背は低く痩せているが、その鋭い眼光のせいか一回り大きく見える。この威圧で長屋の住人から家賃を絞っているのである。

 その観龍はこの生意気な口をきく風天丸に対し、息を深く吸って言った。

「ど~うぞどうぞ! いやもうじゃんじゃん食べちゃってくださいよ、そりゃこのボロの茶碗じゃとても足りませんよね、ええ! ほらお扇、早くこの方に飯を出しなさいよ、それが取柄なんだから全く!」

 奉行所の奴らよりよっぽど優しい人だなあ、と風天丸が感心している。観龍も客人が笑みを浮かべているのを見て、嬉し気である。一方でお扇は大きなため息を一つ。俊助は「ちぇ」と口にした。

「ちょっと前まで、妖怪なんぞ退治しちまえって言ってたくせに!」

「バカ、や、やめなさい! 声がでかいんだよお前は!」

「なんでえ怯えやがって、奉行所やつらがお扇姉ちゃんたちを連れて行ったときも、あんた部屋で布団被ってたんだってな!」

「ああはいはいそりゃ私は妖怪様やお奉行様が怖いですよ! でもな、私のおかげでお前さんたちはここで暮らしていけてんですよ、そこんところ感謝してくれなきゃ!」

「男は信念を曲げちゃいけねえって、父ちゃん言ってたぞ」

「ああそうかい、そんじゃお前は竹みたいに真っすぐ伸びてって、天井に頭ぶつけてなさいよ」

「じゃあ大屋さんは海老みたいにひん曲がって鯛に食われちまえよ!」

「はあああああん⁉」

長屋の住人が何人も目を覚ます二人の喧嘩は全く風天丸の耳には入っていなかった。それより新しくよそってもらったご飯に夢中である。

奇妙なお人、とお扇は思った。お金は無さそうなのに妙に質の良い箱を背負っているし、浪人のようにも見えるが刀は差していない。怪しくはあったが、自分の作ったものをここまで黙々食べられると、悪い気はしない。

「ねえ、あなたって何してる人?」

 と声をかけたものの、食事に無我夢中のこの男には届いていない。肩を叩いてやっと口元に米粒を付けたままこちらに気づいた。その様子たるや人を警戒する猫のようである。

「あなた、お武家様? それとも商人?」

「どっちでもない」

「どっちでもないって、じゃあ何なのよ」

「そう言われると……今の俺って一体何なんだろう……」

 すごい奇妙なお人、とお扇は思った。

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