お江戸にやって来たぞっ その①
江戸に一人の男がやってきた。カラカラに乾いて砂埃のあがる道を、長旅で汚れた足袋でもって歩いている。年のころは十五、六。若々しい黒髪をギュッと縛っており、古くなった菅笠を目深にかぶっている。帯刀はしておらず、全身黒尽くめなところがなんとも不自然。
獲物を探すようにきょろきょろとあたりを見渡しながら街を歩くのはいかにも怪しい。そしてその視線がギロリ、と一人の武士に向いた。
「なあそこのお武家様よう」
武士は染める前の手拭いのような、面白みのない顔つきだった。のっぺりした顔で、奇妙な若者を見て首をかしげる。
「拙者に何か?」
「名乗ってもらおうか」
「突然無礼な奴だなあ……谷平十郎だ」
「その刀を見せてくれ」
「なぜこんな往来で」
「いいから」
谷がシュラッと鋼色の刀身を露にする。古物商のような目で、若者はそれを見つめた。しばらく見ると、彼は一言「違う」と呟いた。
「もういいぜ谷さん、ありがとよ」
「お主、拙者温厚だからよかったものの、いきなりその辺歩いてる武士に刀見せろってのは、かなり失礼だぞ。気を付けよ」
実際その通りである。だが生憎彼に怒る武士や、怪しむ住人というのはいなかった。というのも、その往来には二人の他に誰もいないのである。
「あんがと、気を付けるよ」
と言ってから再び歩き出した足が、ある一点でぴたりと止まった。何の変哲もない道の真ん中である。
「それにしても、ここどこだろ」
この男、迷っている。今日初めて江戸へやって来たのである。知り合いがいるでも、伝手があるでもなく、地図などは勿論持っていない。しかし目的はある、と言わんばかりの真っすぐな眼差し。
となれば誰かに聞くほかあるまい、と周囲を見渡すと、丁度砂ぼこりを巻き上げ、子供が一人こっちへ向かって来る。その必死の形相といったら、まるで火事でも起きたようである。しかしこの男は呑気なもので、軽く手を振って笑いかけた。
「よう少年、こんな朝からどこへ行く」
子供は砂ぼこりを巻き上げながら通り過ぎて行った。
通り過ぎた後の突風と砂埃が男の髪と顔と服と荷物、すなわち全身をぐしゃぐしゃにする。まさに嵐が過ぎ去ったよう。
男は袖、裾、顔の順に砂埃を払うと、大きく呼吸をして地面を蹴った。あの子供も野犬の如く素早かったが、この男はその次元ではない。まさしく風そのものである。しかし砂埃は全く飛んでいないのが奇妙でもある。
そして一呼吸もする間に男は子供に追いついて、また呑気に笑いかける。
「なあ、ちょっと話を聞けってば」
「後にしてくれ!」
「そう言わずさあ、お兄ちゃん道に迷っちゃってよ」
「オイラ走ってんだよ!」
「そりゃ見ればわかる。江戸は初めてなんだよ、お願い」
「んなこと言ってもな~……待って、なんか兄ちゃん速くね?」
「そうだろ、走りながらでいいから話聞いてくれよ」
二人はコーナーを直角に曲がった。遠心力で放り出されそうになるのをその脚で踏ん張り、そのトップスピードを維持したまま、長屋の連なる横丁へ入った。
「実は俺、人を探してんだよ」
「なんだよ、良い女なら吉原にでも行ってきな」
「ガキのくせに随分ませたこと言いやがる」
ただでさえ人通りが少ないストリートの住人たちは、巻き上がる砂埃を見てすぐに戸締りをする。反応が遅れた家の中は風と砂が渦を巻いてもう酷い有様。
「青く光る妖刀を持った男、知らねえか」
「妖刀使いを探してるって? 悪いこと言わねえから兄ちゃん、やめときなよ。化け物には関わらないのが一番だぜ」
「そりゃそうだが、ちょいと因縁があってよ」
「へえ、まあどっちにしろ知らねえや」
さて少年はブレーキをかけた。慣性の法則に従ってしばらく前進し、ようやく止まる。次に再びその健脚で地面を蹴り上げ、すぐ後ろをついてきた男の下へ跳んだ。
「兄ちゃんすげえ足速いな、峠の狼・
「はっはっは、前の職業柄、速く走らなきゃいけねえもんでよ。ところでなんで走ってたの?」
「朝のジョギングでい」
「すごい剣幕でジョギングしてんね。まあいいや、じゃあな少年、楽しかったぜ。でもこの辺平地の住宅街なのに二つ名が『峠の狼』ってのはどんなもんだろうね」
「待ちなよ、オイラについてこれただけで勲章物なんだからさ。朝飯ぐらいご馳走させとくれよ」
日本には「武士は食わねど高楊枝」という言葉がある。どれだけ貧しくてもひもじくても、長旅に夢中でろくに飯も食えていなくても、やせ我慢するのが武士である、という意味である。
「行く行く超行く」
まあこの男は武士ではないので、全然セーフなのである。俊助曰く、自分の面倒を見てくれている料理上手な女が居るので、味の保証はするとのこと。
思えばここ数日食べたものと言えば、行商人から買った納豆と、あとは兵糧丸ぐらい。湯気の立つ飯やみそ汁などは、半年近く口にしていない。
考え出すと空腹のアクセルがかかり、むしろなぜ今までこの感覚を忘れていた不思議なほどに力が抜けていった。不思議なものである。
「そこ曲がるとオイラの長屋だ」
飯にありつける、と角を曲がるとひときわボロい長屋があった。奇妙なのはこの長屋を、何人もの侍が取り囲んでいたことである。
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