第9話 羽飾り

 ルチアーノ・パブロッティの話では、湖でのイベント部分を全部省いても、古城の方のバーチャル映像の用意は丸一日かかるということだった。プラド捜査官は、アルフォンス社長の協力を得て、前日から泊まり込み、ルチアーノにさっそく申し入れた。

 ルチアーノは繊細で口数が少なく、最初はどうなるかとも思われた。

「運び込まれたすべての機材のセッティングに立ち会い、その機能と操作法をすべてチェックしたいんだが…」

 時間が足りないとか、素人には所詮わからないとか、言われそうだったが、答えは違った。彼は快く返事をした。

「ああ、もちろんだ。納得のいくまでやろう」

 ルチアーノは繊細な芸術家だが、、反面修行僧のようなストイックな男で、自分のアートに関係したことは徹底的にやり抜く男だった。納得がいくまでは決して妥協はしない。手を抜かず、疲れを気にせず、ただ、黙々とやり遂げる。そこがプラドとうまく気が合ったようだった。静かな男が二人、黙々と機器をセットし、チェックし、納得がいくまで細かい点を確認し合う。それを何十回も繰り返し、夕方にはひと通りのセッティングが完成していた。

「プラド捜査官、よろしければ、夕食をご一緒に」

 ルチアーノは、自分のセッティングスタッフの他に専任のシェフも連れてきていた。プラドは、思わぬ展開を快く受け入れた。シェフは東洋系の女性で名をカスミと言った。

 いろいろな穀物や有機野菜、海藻や魚介類などをふんだんに使った「クリスタルレシピ」と呼ばれるヘルシー料理で、なんでも創作的感性が高まるという触れ込みだった。

 ルチアーノとプラドはお互いを、仕事を通じて高く認め合うことができたが、一言もしゃべることもなかった。そのまま一流の男性モデルとしても通用するような伊達男ルチアーノと、ザ・クールと呼ばれる優秀な捜査官は、その精進料理のようなクリスタルレシピを、結局一言もしゃべることもなく食べ終えた。

 終わると、ルチアーノがやっと口をきいた。

「よろしければ、明日の夜明けに、湖を眺めながらお茶でも飲みませんか」

 それは、多分寡黙なルチアーノにしては、精いっぱいの誘いだった。

「よろこんで。でも、もし、その時に客人が一緒でも構いませんか?」

「もちろん」

 仕事がなければ9時に寝るというルチアーノは、早々に部屋に戻って行った。

 そして、翌朝、夜が明ける前にプラドはテラスに出て行った。暁の空は紫色で、東の空が、少しずつバラ色に染まり始めていた。うっすらと広がる湖は静まり返り、かすかな波音のみが繰り返す。

 肌寒いテラスを見渡せば、ルチアーノはもう先にそこにいた。

「おはようございます」

 例のシェフ、カスミがお好きな飲み物をサービスしますと声をかけてきた。プラドはホットコーヒーを頼んだが、ふと見るとルチアーノは、渋い味わいの陶器で深い緑色の飲み物を飲んでいた。何でも日本から取寄せたお茶なのだという。

 ルチアーノは例によって、お茶をすすりながら、夜明けの湖を眺め、何もしゃべらない。でも、彼にとって、こんな時間がとても大切なのだろう。やがて、東の空がだんだんと明るく、黄金色に輝きだす。

 今日は少し雲が多く、すっきりとした朝日はなかなか拝めないようだった。だが、その分複雑な色の雲があちこちに光りだし、ルチアーノはとても満足げであった。

「ごめんなさい、ちょっと前に着いたばかりよ」

 純白の爽やかなドレスをまとったペネロペが姿をあらわした。ペネロペは例のシェフ、カスミとなぜか顔見知りで、エルダーフラワーの入ったハーブティーを頼むと、プラドの横に座り込んだ。

「それで…追い込めそうなの?」

「ルチアーノの話では、あのバーチャル映像はほぼ100パーセント他の者がいじることは不可能、一か所をいじれば、どこかが崩れ出すというのだ。現実の世界と仮想世界の空間を限界まで取り払い、ものすごい精緻な計算を積み重ね、どこにも隙のない高レベルな映像を構築しているのだから無理もない。私も何回も納得するまで確かめさせてもらったが、間違いはないようだ」

「そうなの? じゃあ…。」

「でも、君も知っているだろう、現場の流れによって使い分けることのできるサプライズイベントを」

「ああ、例えば湖の岸辺に顔見知りの池波がいるから、わざとそっちを歩いて、私が水の妖精ニンフから変身したように見せかけたりしたやつでしょ」

「そう、実はそんなサプライズの、その場で使うかどうか決める映像イベントが古城でもいくつか用意してあった。そのパーティーイベントだけは、パーティーの司会者が、必要に応じて、操作することができたそうだ」

「パーティーの司会者って、やっぱり…」

「そう、アルフォンス社長だ。イベントで人が殺せるとは思わないが、そこの細かいところを解明すれば、追い込めるかもしれない」

 刻一刻と変化する空の色、そしてだんだん沈み切っていた湖面も静かに輝きだした。うっとりとしながらルチアーノはお茶を静かにすする。こちらの話にはまったく関心がないようだった。

「…相変わらず、絵になる男ね、ルチアーノ…」

 プラドも静かに言った。

「今回、彼と一日付き合ってみたが、彼とは全く畑違いなのに、なぜか通じるところがあってね。彼の素晴らしさがよくわかったよ」

「そうみたいね。ルチアーノと気が合う人なんて、ほとんどいないわ。あなた珍しい人よ」

「ところで、例のエージェントKだけれど、連絡はつきそうかい?」

「もちろん、早い方がいいだろうから、ここにお連れしたわ」

「うそだろ、まさか、ここに?」

 ちょうど、テラスに透き通った光が差し込んできたタイミングだった。冷たい大気の中を静かに、帽子とサングラスをつけた男が歩いてきた。大きな金の指輪が光る。彼は黒いコートを脱ぐと、帽子とサングラスを外して挨拶をした。

「初めまして。プラドさんとは一度ブルコス会長の部屋の前で会いましたね。今日は、エージェントKではなく、本名のスペンサー・グレイスとしてまいりました」

 まだ、質問のまとめもしていないのに、ペネロペはいつもプラドを驚かす。スペンサーの素顔は、哲学者のような思慮深い紳士であった。スペンサーは、ルチアーノと同じグリーンティーを頼むと、湖を眺めて一言言った。

「朝は静かに必ずやってくる。朝のたびに何かが生まれ変わる。ほう、湖面の輝きがみるみる変わって行きますなあ」

 穏やかで、まわりを包み込むような優しそうな男だった。

「スペンサーさん、実は…」

「ええ、このペネロペ嬢からいろいろお話は伺いました。まず、私の話から聞いてください。…。実は私は連邦政府の国家成長計画室の室長を務めております」

「国家成長計画室?」

「簡単にいえば、五十年後、百年後の国家の方向性を決めていく部署です。グローバル戦略、将来の軍事問題、エネルギー問題など総合的に研究を続けています。でも、一番問題なのは、国家そのものの在り方です」

「なるほど、大きな国家、小さな国家の論争もあるし、紛争や格差の拡大など、世界中の国に閉塞感が漂っているかもしれない」

「物語の始まりは、こうでした。カピウス・ホプキンス博士が初のタイムリープの隊員として決定した時、私はブルコス会長を介して、ホプキンス博士に会ったのです。今の世界情勢や行き詰まりの国家システムについていろいろ話し合った。ご存じでしょうが、彼も、ホプキンス本人も、国家体制やテロリズムの渦に巻き込まれ、最愛の妻や子を失っている。彼にもいろいろ思うところがあったようでした」

 するとルチアーノが突然独り言のようにしゃべりだした。

「世界はいつも、こんなに開かれて美しいのに、人間は自らの首を絞めあっている。木は倒れ、腐っても、たくさんの森の命をはぐくみ、また森の命に還る。人間も一度腐りきらないとわからないのかもしれない…」

 プラドは重ねてスペンサーに聞いた。

「スペンサーさん、あなたがホプキンスに会ったその、目的は」

 スペンサーは静かにグリーンティーを飲み干すとしっかりと話し出した。

「結局のところ、英雄も民族や宗教の対立の壁を越えられず、理性は大量生産の富と消費の欲望に勝てず、自由経済と実存主義は環境破壊を加速させてしまったようです。エネルギーや領土をめぐって個人をはるかに超えた場所で争いが生まれ、紛争は終わることなく、報復は報復の連鎖を呼び、自由主義も、共産主義も共同体も、あらゆる国家主義は例外なく貧富の差を広げていってしまった。我々は今、次世代の価値観を見失って右往左往するしかないのです。では、我々の原点はどうだったのか。数万年、数百万年平穏に暮らしてきた原始時代のシステムはどんなシステムだったのか、そこから何か学べないか、そう考えて、ホプキンスの知恵を借りようと思ったわけです。こちらは気軽に意見を求めただけでしたが、彼はそれを背負い込んでしまったらしい。失われたエデン文書には、未来の人類のシステムについて記述があったそうです」

「ホプキンスは、そんな重いものまで背負い込んで、過去に飛んだのか」

「その後、ホプキンスの失踪、エデン文書の盗難などが立て続けに起こりました。責任を感じたわが組織は、このペネロペを通じて、真相を探っていたわけです」

「なるほど…、私にできるのは、小さな謎を一つひとつ解いて、真実に少しずつ近づいていくことだけです」

 するとスペンサーは立ち上がり、プラドに告げた。

「会えてよかった。私はいくつか用事をやり残していて、一度、ここを離れなければなりません。間に合えば、捜査が終わった夕方ごろにフラッと姿を現すかもしれません…。それでは、また…失礼しました」

 スペンサーは朝のしじまの中を静かに去って行った。

 その時、雲の上にやっと朝日が顔をのぞかせた。さあ、始まる。今日で決着をつけてやる。プラドはルチアーノに熱く礼を言うと、部屋の中に歩き出した。その後ろをペネロペが追いかけて行った。


 初めての朝、起きると最初から感動だ。深い森の中にあるネアンデルタール人のツリーハウスとは違い、冷たい大気の中、小屋の中に直接朝日が差し込んでくる。外に出れば地平線がバラ色に染まり、雄大な草原に朝日が昇るのが見える。遠くにそびえる雪をかぶった山脈、なだらかに連なる丘、そして目の前に広がる黄金の草原まで朝日に輝いている。

 子供たちが集まって来ていた。この村の裏の森には小さな湧水があるのだという。毎朝若者の護衛付きで、ミューシャが先頭に立ち、たくさんの子供たちと水を汲みに行く。面白かったのは、子供たちはみな、30センチある真っ白な磁器のような容器を皮の袋にぶら下げて集まってくることだ。その容器は意外なほど白く、完全な楕円形でしかも軽くて丈夫だ。彼らにこんな磁器を作る能力があったのかと思った。ホプキンスの記録で後で確認したら、巨大な鳥の卵の殻だった。とんでもない大きさだが、水汲みの容器としてはとても重宝しているようだ。

 水を汲んで帰ってくると、今度は女たちが中心になって、森ややぶの中に食料を探しに行く。今は雨期が終わったところで、果実や木の実が豊富で、保存できる木の実は貯蔵小屋に蓄えておくという。何をするにも家族で行うネアンデルタール人と違って、子供は子供、女たちは女たちと別れて効率よく動くことが多いように感じられた。男たちは食事以外はだいたい別行動だ。チームを組んで遠くまで狩りに出かけることが多い。二日目の昼には、早くも私に声がかかった。罠づくりを手伝ってほしいというのだ。

 ホモ・サピエンスは雑食で環境に合わせてなんでも食べる。ここの種族は、シーズンで食べるものが変わるようだ。大型の哺乳類を大仕掛けな追い込みと大人数で仕留める時期と、季節で移動している野牛を落とし穴などで取る時期、その合間の小型の動物や果物などを取る時期だ。現在は小動物を取る時期だが、そろそろ野牛が近付いてきたらしく、用意を始めるのだという。

 面白そうなので、フル装備で男たちと出かける。

 ホプキンスが来たときは、ちょうど野牛の移動時期で、毎日のように大きな獲物があったそうだが、今はまだちらほらだ。

 やってきたところは、小さな丘の前に、草原と茂みが混ざった複雑な地形だ。

「あっちから、野牛の群れがやってくる。そうしたら、大人数で、そこの茂みの入り口で、大きな音や叫び声を出して野牛を脅すんだ。うまく行けば、数頭の野牛がこっちに走ってくる。そこで、次の何人かが、槍を持って野牛を追い込む。でも丘があるから、野牛はそっちの茂みの方に行くしかない」

そっちの茂みとは袋小路のようになっている場所だ。でも、茂みと茂みの間に細い隙間のような道がある。

「野牛は逃げ出そうとして、ここの道を突っ走る。だから、ここの道に落とし穴を仕掛けて待ち伏せするわけだ」

 なるほど、効率のいい方法だ。チームで手分けして狩りをする彼らならではの作戦だ。罠というのは、落とし穴だ。

 私はさっそく、得意のチタン合金のスコップを取り出し、ソルの言うとおりに穴を掘り始めた。なるほどと思ったのは、その掘り方だ。穴の入り口はなるべく小さくする。穴の内部で、獲物の通り道の方向にかけて、穴を膨らませて行くのだ。すると、小枝と草でカモフラージュした穴の周囲はもちろんだが、その先の地面も仕掛けに変わる。重量の思い野牛が上を通りかかるだけで、穴の天井をぶち抜き、足を取られて倒れてしまうという仕掛けだ。そこを待ち伏せ部隊がいっせいに襲い掛かるという段取りだ。彼らなりの細かいこだわりがあるようで、付きっ切りで私に、もうちょっとこうしろ、そうそういい感じだと声をかけてくる。長年の経験で、掘る場所、大きさ深さ膨らませ具合が決まっているようだ。普通は数人で半日がかりの仕掛けだそうだが、なぜか私は熱くなり、どんどん穴を掘り始めた。掘った土をみんなに縄と皮袋で運び出してもらい、猛スピードで掘り進んでいった。なんか、秘密基地づくりみたいな感じだ。約一時間ですでに完成。なるほど遠くから見たら、この地面の底が踏み抜けてしまうようにはとても見えない。

「すごいぞ、イケナミ。穴掘りにかけては、ホプキンスもかなわない!」

 まあ、穴掘りでも喜ばれたからいいか。予想以上に早く終わったので、私は早々に村に帰って、また村の観察だ。

 さっそくミューシャがいたので案内してもらう。彼らの作った工芸品、食料の貯蔵庫、毛皮の加工の様子などをいろいろ見せてもらう。ネアンデルタール人も見事な工芸品を作っていたが、大きく違うのはその材料の豊富さだ。ホモ・サピエンスの村には、遠い地方から来たような、美しい石や珍しい鳥の羽、真珠層が輝く海の貝のようなものまで各種とりそろえてあるのだ。広い交易活動の結果だろう。時にミューシャにいろいろ言葉を教わり、語学の勉強だ。少しずつ言葉がわかってきて、自分でもうれしい。

 私は言語は専門でないので詳しくはわからないが、ためしに確認してみたら、数える言葉は確かにあるが、ゼロにあたる言葉はなかった。森に生まれ森に還るネアンデルタール人は、森に還り姿が見えなくなったことをゼロだと呼んでいた。その点では彼らの方が進んでいるのか? その代わり、活動範囲が広いせいか、ここにはいろいろな伝説や寓話のようなものがたくさんある。どこぞの遠い森には大きな毛むくじゃらの怪物がいるとか、どこぞには死の砂漠があり、足を踏み入れたものは二度と帰ってこないとか、あの場所に星が見えると洪水が起こる、その理由は大地の怒りだ、などと言う具合だ。そこにはもう、人間ではどうしようもない大自然の力、理由のわからぬ理不尽な世界、自分たちの存在を超越した神のような存在が確かにあるのだ。

 私にいろいろ遠くの話や言葉を教えてくれたあと、ミューシャが聞いてきた。

「ねえ、ところでイケナミは狩りに行かないの?」

「もちろんいくさ。今日も罠を作ってきたんだから。」

 どうもミューシャは、自分のひいきにしている男の実力を知りたいようだ。

 今日は、あまりその気はなかったのだが、そんなことを言っていたら現実になった。

 3日目には、ついにソルに呼ばれて狩りに付き合うことになった。私も、走ったり歩いたりはもともと自信があるし、サバイバル訓練を受けたり、体力をつけるためにランニングもずっと続けていた。でも、彼らと同じ距離を、同じスピードで走り回れる自信はなかった。そこでおずおず、遠くまで行くのかとソルに聞いてみた。するとソルが言った。

「今日は若い奴らと近くの茂みだよ。すぐ近くだ」

 彼らの「すぐ近く」はあてにならないが、貴重な狩りの映像が撮れると思えば、断る理由は何もない。

 その朝、5人の男たちと、私は出かけることとなった。

自分の家族を養うために原則1人で狩に出るネアンデルタール人と違い、彼らは集団で動き、分業し、効率的に狩をするようだ。

 リーダーのソルと、経験豊かな陽気な狩人ニコ、そして若手の三人組、アギ、ロキ、マグの五人だ。彼らは、出かける前は緊張するのか、例のダンスを踊り、闘志を奮い立たせる。そして身支度を整えると、いよいよ出発だ。

 彼らはまず、後ろの森を通り、湧水の先へと進んでいく。途中でソルが急に立ち止り、みんなを茂みの中に待機させる。息をひそめてしばらく待っていると何かが近付いてくる。木の枝をガサガサさせて、猿の群れが近くを通り過ぎていく。

「今だ、よく狙え!」

 ソルが若者たちに号令をかける。みんな猿を狙って槍を飛ばすが、枝に邪魔され、なかなか当たらない。陽気なニコがそれを見て笑う。

「残念だったな。ほうら、若造ども、こっちへ来てみな」

 近くで大きな倒木を見つけてニコが呼ぶと、若者たちは、猿を追いかけるのをやめて、その前にさっと集まった。バキバキと皮をはがし幹のあちこちをほじくると、大きな幼虫がぞろぞろ出て来る。それを皮袋に入れて大事にしまいこむ。子供たちの大好きなおやつになるのだという。

 少し行くと、分かれ道があった。ためしにリーダーのソルに聞いてみた。

「もし、道に迷ったらどうするんだ」

 ネアンデルタール人のヘクトールは、あえて先に行かずに森にとどまると言っていたっけ。だが、ホモ・サピエンスは違っていた。

「必ず間違わないように判断する。間違えば死ぬかもしれない。そのために我々は何人もの仲間と話し合い、神に祈る」

 やはり、行動範囲が広い彼らは一味違う。

 やがて森を抜けて、草原に抜ける。

「グォー、ガルルルル…」

 アカシアの藪の方からすごいうなり声が聞こえてくる。見ると、手足の短い熊のような生き物がこちらをにらんで牙をむいている。ライオンや熊さえも追い返すという気性の荒い大型のイタチの仲間、ラーテルの近縁らしい。頑丈な手足と、バネのような体、骨ごと噛み砕く強力な牙の持ち主だ。しかも、現代のラーテルやクズリに似ているが、大きさは約1.5倍、日本のつきのわグマくらいはある。関わると面倒なので、通り過ぎるまでしばらくみんなでじっとしていた。

「ふう」

 やっと通り過ぎて行ったので、みんな動き出す。そして大ラーテルがいたあたりに進んでいく。そこにどうやら次の獲物があるようなのだ。

 アカシヤの木の少し高い枝の根元に、それはあった。そこには、ラーテルの大好物、蜂蜜をたっぷり蓄えたとても大きな草原ミツバチの巣があった。

 みんなごちそうに目が輝いた。これからみんなでこれを獲ろうということになった。だが、おかしなことにソルが号令をかけても、若者は、みんな譲り合ってなかなか取りに行こうとしない。それを見て陽気なニコが笑い出す。不思議に思った私は、、どうやって獲るんだと聞いたら驚いた。

「木に登って、手で巣ごと取ってくるんだよ」

 どうやら刺されるのは覚悟の上らしい。そこで私が提案した。

「私に任せてくれ、いい方法がある」

 みんなも刺されまくるのはいやらしく、私に任せることにすぐ同意してくれた。私は折りたたみの網を3本取り出し、長く伸ばした。一つの棒の先にマジックハンドを取り付け、そこに小枝や藁をつかませ、サバイバルライターで火をつけた。煙で燻し出すのだ。風向きを見て、巣のそばの地面にその棒を突き立て、離れてしばらく待つ。ミツバチが燻されて、弱ったところで、次の棒を持って近づく。先端に取り付けたカッターで巣を切り離し、落ちるところを、三本目の棒に取り付けた大きな袋で受け止めるのだ。

「ああ、もう少し、もう少し…。ようし、そこだ」

 サバイバル特訓をしたときに覚えた自慢の技だ。落ちてきた大きな草原ミツバチの巣を空中で見事キャッチ。ほとんど誰も刺されず、蜂蜜ゲットだ。調子に乗った私は、さらに奥にあったもう一つのミツバチの巣もゲット、たちまちヒーローだ。

 私が袋ごと蜂蜜をソルに渡すと、ソルも大喜びだった。

 私たちはにこにこしながらさらに先に進んだ。途中で水をたっぷり含んだ野生のメロンのような果実を手に入れたりして今日は調子がいいようだ。

 やがて、藪と草原が混在するところに出た。ソルが偵察に行くと言って先に歩いて行った。そして、帰ってくると、大きな鳥の巣を見つけたから、手分けして卵を取に行こうというのだ。親鳥を引き付ける係、卵を取る係、追いかけてきた親鳥を追い返す係と3つに分かれるという。私はアギという若者と一緒に、楽そうな親を引き付ける係りを引き受けた。だが、3つに分かれて巣に近づいていくと、驚いた。巨大な巣が、地面に直接作ってあり、そこにダチョウの卵よりさらにふた回りほど大きな卵が何個も入っている。

 あれだ、子供たちが水汲みの時に使っていた謎の磁器、大きな卵の殻のもとにちがいない。

「イケナミ、行くぞ」

 私は嫌な予感を感じながら、親の注意を引き付けようと、あの杖を振り回しながら、大きな巣に近付いて行った。ガサガサ藪が動き、親鳥がこちらを警戒して、威嚇を始める。

「で、でかい」

 最初メスが姿を見せた。ダチョウに似ている飛べない巨鳥だ。地味な感じのメスでも、背の高さがダチョウよりでかい3メートル以上ある。これはやばいぞ! そして、そのうち、派手な羽飾りを持つ、さらにでかいオスまでも近づいて来る。雑食性の、短いが頑丈そうなクチバシがはるか頭上から見下ろしている。オスのそのふてぶてしい表情だけでも足がすくむ。巨鳥モアとかエピオルニスの系統か? くちばしも怖いが、その強大な足が迫力だ。蹴飛ばされたら、即、内臓破裂でお陀仏だ。でも、そのオスは槍を振り回して近付いた我々を凄い眼光でにらむと、鋭い叫び声を上げながら、こっちに向かって一直線に走り出した。

「クヮアアアアアア」

「来たぞ! 逃げろイケナミ!」

 アギが叫ぶ。逃げろったって、向こうの方がずっと早いぞ。時速数十キロは簡単に出そうな勢いだ。とりあえず、大きな体では入れないような藪の方を目指して走り出す。

「アギ、二手に分かれるぞ。お前はあっちだ。」

 途中で私とアギが左右にさっと別れる、ギョエー、こっちを追いかけてきた。ほっと胸をなでおろすアギ。

「よし、小型催涙弾だ!」

 どうにも追い詰められた私は、あのステッキの手元のトリガーを引いた。だが高速で走る巨鳥は難なくそれをかわした。ウソだろ!

 こっちは命からがら藪の中に飛び込むと、さすがにオスはスピードを緩め…、まずい、藪のすぐ前で立ち止まった。そして巨大なくちばしがニューッと伸びて襲い掛かってくる。スタンガンモードで杖を振り回すが、軽く避けられた。万事休すだ。だが、その時、遠くでメスのけたたましい叫びが聞こえた。すぐ方向を変え、戻って行くオス。私はアギに合図すると、すぐそこを離れ、元の道へと帰って行った。なぜかアギが私を見る目が違う。どうもそんなつもりもなかったのだが、命がけでアギを逃がしてくれたと思ったようだ。

 ソルとロキが、大きな卵を一個ずつ皮袋に入れてもどってきた。ソルは落ち着いているが、ロキは息も絶え絶えで、まだ興奮している。さらに陽気なニコがマグとともに最後にやってきた。何やら手に美しい飾り羽をいくつも持っている。

「へへ、これを持って行くと女どもにモテるぞ」

 やった成功だ。残りのメンバーもみんな顔をそろえた。ソルが、今日はたくさん獲れた、村に帰るとみんなに告げた。言うなれば、今日はソルとニコによる、若者の狩猟キャンプだなと思った。やがて村が見えてくると、ニコがさっきの飾り羽をみんなに一本ずつ配った。

「…お前たち、うまくやれよ」

 村に入ると、あの丸々太った幼虫やみずみずしい果物、大きな卵などに女、子供たちが群がった。何よりも人気だったのは、そう、蜂蜜だ。私は疲れて小屋で休んでいたが、ミューシャがわざわざ来て、蜂蜜のお礼を言って帰ったほど。

 それにしても、今日は、貴重な体験だった。この村の男たちは数人で連れ立って朝から日が暮れるまで獲物を求めて広大な狩場を走り回っている。

 家族単位で動き回るネアンデルタール人とは、根本的に異なる。

 そうそう、ホプキンスの考えた髭を剃る理由も実際に彼らと行動を共にして納得した。ホプキンスの文書の中に、こんな一節がある。

「あのすらりと伸びたホモ・サピエンスの足は、森に適応したネアンデルタール人とは別の可能性をもたらした。まだ、きちんと証拠があるわけではないが、このあたりでは獲れないような石や貝殻のアクセサリーなどがかなりの量、村に入っている。彼らの仲間はあちこちに村を作っていて、話に聞くだけでも、密林から草原、海岸、半砂漠地帯にまで及んでいるようだ。私は、他の村のホモ・サピエンスを2度ほど見る機会に恵まれたが、身長や肌の色、顔の系統が少しずつ異なっているのを発見した。環境の異なるいろいろな地域に住むようになったその結果、地域変異を生み、住んでいる地域によって少しずつ異なる遺伝子を持つようになったと考えられる。そして、他の村と、友好的もしくは征服的に交流を持つことにより、新しい遺伝子を取り入れ、個人というより、村単位で遺伝子を強くしていく傾向にあるようだ」

 私は事実、岩塩を持って交易している背の高い刺青3人組に会ったし、ミューシャの首飾りや髪飾りがどうやら貝殻の加工品らしいということも確認済みであった。

 そして、ホプキンスは外交的な彼らの傾向から、彼らの行動や、さまざまな修正について大胆な仮説を積み上げたわけだ。

 ネアンデルタール人とこの村の男たちが決定的に違うのは、ネアンデルタールが、戦いを勝ち抜いてハーレムを作り、強い自分の遺伝子を残そうとするのに対し、この村の男は、個人の遺伝子ではなく村の一族の遺伝子を優先させるということだ。つまり、村の中で強いチャンピオンを決めるのではなく、村として繁栄すればいいということだ。男たちは、女を求めて不必要に対立することもなく、もちろんネアンデルタール人のようにレスリングする必要もない。ここの男はハーレムもつくらない。ほかの男の侵入を追い返す必要もない。男は気に入った女の所に不定期に訪れる通い婚の形をとっているらしい。だから彼らは、男同士で敵対しない印として、ひげを剃っているというのだ。ライオンの鬣や人間の髭は急所を守るよい防御だ。でも首を絞めあわなければ無用の長物だ。

 しかも競う必要が無いので、普通に協力してグループを作り、狩りや、公益など、外交的なことにエネルギーを使う。

 きっとそうなのだろう。男たちはライバルではなく、個性を持ったよき仲間であり、誘導や待ち伏せ、攻撃などを分担するチームの一員なのだ。一人で狩りをし、一人で家族を守るネアンデルタール人とは本質的に違うのだ。

 今日はそれにしても疲れたから、わざわざとっておいたスペシャルを食べるかな。朝汲んできた湧き水を入れたポリタンクの脇で冷やしておいた、トールの赤いマンゴー、完熟でちょうど食べごろだ。私はほのかに冷たいマンゴーを手に取ると、トールにお礼を言って、ナイフで少しずつ削りながら食べだした。ところがそこに、いつも通りミューシャが夕食を持ってやってきた。

「蜂蜜、おいしかった。イケナミ、ありがとう」

「ははは、いつも夕食ご苦労さん」

 私はマンゴーを大きく1かけら削り取ると、皮ごとミューシャに差し出した。驚くミューシャ。そうだな、低地のジャングルと違ってこの辺ではあまり見かけないからなあ。ミューシャはさっそくかじりつき、おいしい、おいしいとすっかり食べてしまった。

 トールが命がけで採ってくれたマンゴーは最高だった。

「もっと、食べるかい?」

「いいえ、イケナミの分がなくなるから。それより、これきれいね」

 ミューシャの視線は、傍らに置いてあった鳥の羽にいつの間にか注がれていた。あの陽気なニコが、女たちが喜ぶぞと配っていた美しい羽だ。

「ああ、欲しいのなら持って行きな。あげるよ」

 私が何気なしにそう言うと、ミューシャは、その大きな瞳をうるうるさせて喜んだ。そして大事そうに羽を手に取るとしっかりと胸に抱きしめた。

 そして意味ありげに私のほうを見ると、

「ありがとう、イケナミ。私、ずっと大切にする…」

 そう言って、そっと小屋を出て行った。

 …なんかまずかったかなあ…。そういえば、ホプキンスの文書の中にも似たような箇所があったような。私はさっそくエデン文書のそのあたりを読み直してみた。

 そこは題名も凄かった。「私が彼女をリアルイブに選んだ経緯」だったのだ。

「きのう、野牛の追い込み作戦を提案したのが見事に成功、落とし穴に落ちた野牛は極上のメスで、大成功だった。さらにチタン合金制のナイフでさばいたら、その見事な切れ味が大評判。村中の人が喜んでいた。その日の夜は酒も出て、みんなでお祭り騒ぎだ。次の日、村中で塩を使って干し肉づくりを行い、大忙しだった。午後になって、汗だくになったので、私は水浴びに行くと言って、森の中の湧水に出かけた。体を洗い、久しぶりに整髪料なんかを付けて、すっかりきれいに洗った服に着替えた。森の中に落ちていた鮮やかな緑色の羽を拾って胸のポケットにさす。久しぶりのいい男だ。ふと見ると、珍しくあのヘカテが一人でやってきた。そして、獣がきそうだから、しばらく見張っていてくれと言うのだ。私は快く引き受け、森の奥の方をずっと見張っていた。私の背中側では、鼻歌が聞こえ、ヘカテが水浴びする水音が聞こえていた。ところが、ふと気が付くと、後ろからピチャピチャという水音が近づいて来る。はっと振り返ると、そこには水も滴るヘカテが立っていた。そして、ホプキンス、いい匂いがすると顔を近づけてきた。私はドキドキして、ただ立ちすくんだ。しなやかな指が私の首元を撫でた。ヘカテの視線が、私の胸にさしたグリーンの羽に注がれた気がしたので。私は、その羽をプレゼントして、何とか間を持たせた。ヘカテはすると、たいそう喜び、大きな瞳を輝かせて、何度もお礼を言った。そして、意味ありげに笑い、少し後ろに下がると、何度も何度も私の方を見ながら、そっと村に帰って行った。その日の夜、ヘカテの長女と次女が私を迎えに来た。私は何の用だろうと、ヘカテの小屋に向かった。気が付くと暖かな小屋の中に私とヘカテだけ、子供たちはどこへ行ったのか…。青い月明かりの中に、あやしい曲線が浮かび上がる。もちろん、間違いなど起こしたら歴史が変わってしまうから、うまく立ち回らないとと思いながら、ヘカテの前に進み出た。ヘカテは自慢の毛皮を敷き詰めた小さなベッドに横たわり、昼に渡した緑色の羽を意味ありげに髪の毛に飾り、手招きをした。まずい、まずいぞ。機嫌を損ねないようにうまく立ち回らないと…。だがその時、ヘカテは自分の体を覆っていた掛布団のような毛皮をさっと取り去った。全裸だった。いつもほかの女性と違って、下腹部を隠していたが、すべては取り払われていた。私がさっと後ろに下がろうとするより早く、私の片手を握り、引き寄せようと始めた。その力も強かったが、それ以上にヘカテは、みずみずしい魅力にあふれていた。瞬間、頭が真っ白になるところだったが、その時、小屋の外で、泣き声が聞こえた。どうやらまだ幼い三女が親から離れて、泣き出したようだった。仕方なく身支度を整えて、小屋の外に出るヘカテ。もう、その姿は母親であった。私は、そのどさくさに小屋を出たが、危うくヘカテの魅力に歴史を誤るところであった」

 そう、ホプキンスはその優秀な腕を高く評価され、ヘカテに誘惑されたらしいのだ。私もふと思ったが、もしかして、ヘカテは次女と私をくっつけようとしているのでは…。

 私は村のみんなと仲よくやっていきたいので、そのあたりをうまくこなさなければと反省した。

 しかし、18万年前の人類に誘惑されるという貴重な体験をしたホプキンスは、すぐ、革新的な仮説の構築に入る。彼は思った。

「ちょっと待て? ネアンデルタール人の繁殖期は年一回秋の短い時期だが…。ヘカテの、いや、この村の女性は、どうなっているんだ…」

 ホプキンスが凄いのは、思い立つとすぐに村中の子供や赤ん坊のことを調べまくったことだ。その結果、ネアンデルタール人は秋にレスリングを行い、強いオスを決定し、そこで繁殖行動に出て、次の春に一斉に出産だった。このホモ・サピエンスの村の他の女性もどうやら春に出産するものが多いようだった。だが、ヘカテの家族だけは生まれた季節がばらばらだった。つまり、彼女はいつでも妊娠可能だったのだ。今現在も長女が妊娠しているが、きっと秋に出産となるだろう。その血はしっかりと受け継がれているようだ。

 ネアンデルタールの女性はたぶん、年一回の生理があるのに対して、ヘカテの一族は毎月生理があるのに違いない。そして、繁殖期がないことから、繁殖可能かどうかは、女性によって異なり、それを知らせ、繁殖を促すサインは個々の女性にゆだねられることとなった。彼女たちは、自分の子孫を作りたい男の前でなければ、下腹部を見せないようになり、いざ、その時に女性の方から誘えば、自然に正常位となるのではとホプキンスは、大胆な仮説を示している。そして、一年中妊娠可能となり、下腹部を隠し自分が遺伝子を委ねたい相手に繁殖を促すサインを送る女性、その、この村での第一号として、ヘカテに「リアルイブ」の称号を、与えたわけだ。

 そしてこの進化が、彼らの生活そのものの方向性を変えてしまうのだ。

 いつでも妊娠可能になったおかげで、決まった繁殖期が無くなり、オスたちが争うことも無くなる。男たちは髭をそり、ライバルではなく、チームメイトとして深いきずなを作ることもできるようになる。そして、争わないその余剰な活力を広大な平原を駆け回る、外の力に向ける。遺伝子の異なる遠い地域のホモサピエンスと交じり、部族全体としての遺伝子を強化していくのだという。男の変化が先か、女の進化が先か、ここの村だけで起こっているのか、あちこちの村で起こっているのかはわからない。だが、彼女は確かに新しい種族に違いない。

 次の日の朝、起きてみると、珍しく曇っていて空模様が怪しい。

「そうだ、久しぶりに、アルトマンのウェザー・ボイスを使おう」

 あのキュートな球体を久しぶりに取りだしてスイッチをオンにする。

「…お久しぶりですね。お元気ですか? おや、この地域にしてはこの季節珍しくひと降り来そうです。低気圧が通過すると思われます。でもたぶん天気が崩れるのは今夜になってから。夜のうちに弱い雨は通り過ぎ、夜明けには晴れるでしょう。温度と風は…」

 久しぶりの優しい女性の声に心がやすらぐ。

「夜の雨か、それならいいかな。今日も一日頑張ろう」

 さて、そろそろ水汲みにミューシャが来るのかな、今日は気を付けようなどと思っていた。だがあやしい曇り空の下、ミューシャより先にソルがやってきた。村はまた不穏な騒ぎに巻き込まれていた。

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