第6話 次の始まり

 2時間近く延長したメタトロン社の大会議はやっと終了し、さっきまで人っ子ひとりいなかったロビーに人があふれていた。プラド捜査官とペネロペが入って行くと、すぐにガルシアがふたりを見つけ近付いてきた。

「お待たせしてすみませんでした。ええっと、なにせ広いもので、直通のエレベーターでお連れします。どうぞこちらへ」

 今さっきまで数百人が入っていた大ホールを抜けて歩いていく。大きな体育館ほどの広さがアリ、巨大なパイプオルガンもある、落ち着いた色彩の上品なホールで、舞台がなければ本当に大聖堂のようだ。ペネロペが何気なく言った。

「確かこのホールで、フランスのロマン派の作曲家の大がかりな『レクイエム』をやったんですよね」

「ええ、あの世界的な指揮者のグラドゥールを呼びましてね。大編成のオーケストラと合唱団の他に四隅に四つのブラスバンドを配置し、ティンパニーだけで16台、シンバルも10台、金管楽器が数えきれなく鳴り響いて、それはそれはすごかったです。演奏者たちだけで千人近くいましたからねえ。ええ、ベルリオーズの『レクイエム』、素晴らしかったです。社長は文化活動に力を入れておりますので…」

 しかし、このモンスター、ガルシア、芸術のことまでよくしゃべる。なにか底がしれない。

 ふたりはそのまま舞台にあげられ、舞台の後ろに回ると、そこにあるのは社長専用のエレベーターだ。ホールに用事がある時は、社長室から直通で舞台の裏に来れるのだ。しかもそのエレベーターはすべて美しい木製で高級な調度品のような仕上がりだ。そしてあっという間に20階の社長室に到着した。

 アルフォンス社長は、さすがに疲れたようだが、二人をソファにきちんと案内してくれた。

「あたた、ちょっと腰に来たかな。昔はこんなことはなかったんだが、年には勝てないね。いやあすまなかった、時間に遅れるというのは私の本意ではないので、ちょっとだけお詫びをさせてくれ」

 社長が合図すると、ガルシアがさっと入って来て、二人に紅茶とケーキを運んできた。特に普通のものとさほど変わりはない、クリームのケーキとチョコケーキだった。まず、ペネロペが目を丸くした。

「mの紋章? これって、伝説のパティシエと呼ばれているアルザスの確か…」

「いやあ、モーリスとは昔からの付き合いでね。奴は、自分で納得がいかぬと作ってくれんのだよ。ここ5年は長かった。その5年ぶりの新作だ。もちろん未発表だからあのカルメンだってこの情報は知るまい」

 伝説のパティシエの5年ぶりの新作ってそんなにすごいのだろうか。ペネロペはもうすっかり言葉も失い、さっそくいい香りの紅茶とともに味わい始める。

「さあ、プラド君もどうだね」

 またこのハードルを越えなければいけないのか。まあ、甘ったるいのはちょっと苦手だが、一口だけでも食べてみるか。

「う? な、なんだこれは」

 プラドに衝撃が走った。毒が入っていたわけじゃない、丸っきり甘みがないのだ。

 でも経験のない香りと、ほどよい塩味、見た目は全く普通の白いクリームケーキなのに、いったいどういうことだ? 味の仕掛けを確かめようと一口二口食べるほどに、口の中にうま味があふれてくる。気が付けばあっという間にケーキはなくなっていた。

「見た目はただのケーキだけれど、君たちみたいにわかる人に食べさせるとちゃんと手ごたえがあるねえ。いやうれしいよ。ちなみにペネロペ嬢のケーキに使われているチョコは、私のエクアドルの農園で有機栽培した特上のカカオをモーリスの秘伝でチョコに仕上げたものだ。カカオ豆の種類、山地の選定から、熟成・乾燥の工程、チョコに仕上げるまですべて、モーリスがやり遂げたのだ。数種類のリキュールもその誇り高き香りを引き立てている」

「そうなのよ。へんな小技じゃなくて、素材が違う。チョコレートそのものが純粋なの。人生のようにほろ苦く、切ないのに後味はフルーティーで、どこまでも豊かで果てがない」

 ペネロペはうっとりして目がトロンとしている。天界へつきぬけてしまったようだ。

「プラド君のケーキはね、男性をターゲットにしたソルトケーキの試作品だ。私の行きつけのフランス料理のおいしいソースをそのまま液体窒素で冷凍粉末処理し、それをフワフワに練り上げ、それを砂糖抜きの生クリームやキャビアを使ってケーキに仕立ててもらった。羽のように軽く、しかもうま味と塩味の絶妙なハーモニーだよ。さすが、あっという間になくなったね」

 その通りだから何も言い返せない。社長の先制攻撃は、強烈だった。見事なジャブに気勢をそがれた。でも先に進んで行かなければならない。

「用件は3つあります」

「ほう、ひとつ目は何かな。」

「ひとつめは、リアルイブプロジェクトに反対していたアルフォンス会長が、なぜ、最終的に賛成に回ったのか。その理由が知りたいのです。場合によっては犯行の動機になりかねないと思いましてね。議事録にはないもので」

 するとさすがにアルフォンス社長もすぐには答えず。曖昧な答えにならないように、ガルシアに何かファイルを持ってこさせた。

「あれは難しい決断だった。大手のインフォカンパニーとしては決して避けて通れない世紀のニュースだが、一方結果によっては宗教の世界観が致命的に壊される可能性もあった。しかも強硬なエリオット・ニューマン博士はイブの名称を削ってほしいという私の提案に、決して首を縦に振らなかった」

「ですよね…。それがなぜ」

「あの投票のあと、私と同じ考えの、倫理委員会のメンバーとブルコス会長、あと数名が集まり、非公開の会議を持った。そこで私が説得されたのは確率じゃった」

「確率?」

「前回のダイナソープロジェクトだって、いくつもシャトルカメラを送ってやっと一匹恐竜が映った。そんな確率なのだから、たった一度だけの有人転送で見つかるはずはない、とね。火星に初めて人類が降り立ったときも、生命がいるかいないかで大騒ぎだった。いてもいなくても、人々の興味がわき上がれば金にはなる。大発見がなくとも、貴重なデータが取れれば科学者は静かになる。それでいいのではと言われたよ」

 するとそこでペネロペが急にしゃべりだした。

「あ、だからでしょ。わたし最初から不思議に思っていたんだけれど、なんで北アフリカが候補地に選ばれたのか。だって、あのあたりは、もともと初期のホモサピエンスの化石はあまり出ていない」

「でも、全然出ていないわけでもない。そこが、ギリギリの決断ポイントだった。それ以上は言えない」

「……」

 しばらく重い沈黙が続いた。リアルイブプロジェクトはそんな屈折した計画だったのか。あのガリレオが受けた迫害をこのタイムマシンの時代に再び受けなければならなかったのか…?

 沈黙の後、プラド捜査官が続けた。

「そして、計画はあなたの思惑通りに進んだ。ホプキンスはホモサピエンスだと思い、ネアンデルタールの村に行き、リアルイブとは違うが貴重なニュースをモノにしてきた」

「ああ、その通りだ。カピウス・ホプキンス、彼の行動力は予想をはるかに超えていた」

「だが、ホプキンスは活動の後半、ホモサピエンスに偶然巡り会ってしまった。まさかの確率だった。そして、あなたの組織の根底を揺るがすようなイブ発見という事件が起きた。そうじゃなかったんですか。アルフォンス社長」

「そうだ。ホプキンスからその知らせのシャトルが帰ってきた時、愕然としたのを憶えている」

「そこであなたは、ホプキンスとその報告書を消し去ってしまおうと考えた。そうじゃありませんか」

「はは、ホプキンスが事故に遭っていなくなってくれればと、考えたのは事実だ」

「そこであなたはさまよえるネアンデルタール人を使ってタイムマシンを誤作動させ、ホプキンスを葬り去り、報告書も消し去った」

「…いいや、そこは違う。私に18万年前のホプキンスを殺すことはできなかった。気持ちの上でもね」

「さまよえるネアンデルタール人はあなたがマスターキーを使ってタイムドームのコンピュータに仕掛けたのではないのですか」

「そのプログラムは、終わるとともに消滅し、誰が入れたのかわからないと聞いている。それだけだ」

 アルフォンス社長は、それ以上は語ろうとしなかった。

「では、ふた目を確認したい」

 プラドはホプキンスの帰ってくる日に起きた盗難事件の件で、カメラに写っていないガルシアのアリバイを確認した。ここでアリバイがなければ、もう少し追い込めるはずだ。

「ああ、あの日ね。ガルシアも私と一緒に世紀の帰還を見たかったそうなんだが、その日はわが社のコンピュータメンテナンスの日でね、責任者であるガルシアがいないと動かんのだよ」

 このモンスター、コンピュータの技まで持っているのか。するとガルシアがさっと近付いてきた。

「その日は朝から晩までシステムセンターにいたから、私のアリバイを証明してくれる従業員はざっと100人はいますよ」

 するとアルフォンス社長が畳み掛けてきた。

「エデン文書の盗難は我々には不可能、ということだ」

 ガルシアが怪しいと思っていたプラドは最初から出鼻をくじかれた。やっと動機がある人物が出てきたのに…。でも、プラドはそれを気取られないようにポーカーフェイスで食らいついていく。

「あのカルメンセレクトで紹介されていた四角い大きな箱は、私の調査の結果、ネイチャー3Dプリンターだということが判明しました」

 プラド捜査官はニューマン博士のところで撮影した写真をアルフォンス社長に見せた。

「それから、スーパーモデルだったペネロペが、これを持ち込んだというあのルチアーノ・パブロッティに人脈を通じて確認してくれました」

するとペネロペが話し出した。

「ルチアーノは最近ファッションショーなどのプロジェクトも手掛けているから、よく知ってるのよ。彼はシャイでどうしようかと思ったけど、次のプロジェクトの協力を申し出たら、いろいろ教えてくれたわ。あの3Dプリンターはガルシアにアドバイスされてサプライズ演出用に購入したけれど、結局出力したものは使わなかったって」

 すると、プラド捜査官が静かに話し始めた。

「殺されたシェパードは優秀な捜査官でした。元からタイムドーム内に勤務していた状況をうまく利用して、自分なりに捜査を進めていたそうです。そして、あの仮面舞踏会の日に何か事件の核心に迫り、ペネロペの正体を暴いたり、屋敷のあちこちを調べようと動き出した。そのあと彼は殺された。しかも、ネアンデルタール人の石斧で殺されたように偽装されてね。もともと、過去からはデジタルデータ以外は現代に持って来られないはず、なのに18万年前に作られた石斧が実際にシェパードの血にまみれていた。私たちはこの謎がずーっと解けなかったが。やっとわかりました。こう考えたらどうでしょう、ホプキンスは友人となったヘクトールの記念に作った石斧を持って帰りたかったが、それはできないので、3Dスキャンを18万年前に行い、そのスキャンデータを現代に送ってきた。それがもし、壊されたファイルの中に入っていたとしたら。犯人がそのファイルをコピーしていたらどうでしょう。この最新型の3Dプリンターは、天然素材、石や木などでも加工できる機械です。簡単に美術品のレプリカが作れてしまうので、一般には出回っていない特殊なものだそうです。つまりこれを使えば、石斧を数時間で立体出力できるわけです」

「そうだね、便利なプリンターだね。しかし、これで石斧を出力したという記録は残っていない。それだけだ」

 やはり、ガルシアのアリバイが成立してしまった以上、これ以上突っ込むと逆に足を取られかねない。。さすがのプラド捜査官も切り札を一枚残し、それ以上は追及できなかった。

 最後にペネロペがもう一度質問した。

「ひとつだけ聞きたいんだけれど、いいですか。…あなたが言った通りに、ホプキンスを殺していないとすれば、ホプキンスはいったいなぜ帰ってこなかったのですか?」

 するとアルフォンス社長は初めて困ったような顔をして静かに言った。

「そこがわからないから、この事件は手に負えないんじゃ。いったい彼に何が起きたのか…。彼は本当に何者かによって殺されたかもしれない。なぜかと言えば、事故があって転送に失敗した場合、過去に残された隊員はリターン信号を送ることにより、再転送ができる。だが、ホプキンスからは、一度もリターン信号が来ないのだよ。そうだな、後を追いかけている池波君にその謎を解いてもらおうじゃないか」

 大聖堂の前でプラドとペネロペは別れた。

「黙りこんじゃって、平気? ユーリ」

「社長が嘘を言っているとは思えない。しかも、ガルシアのアリバイは完璧だ。さまよえるネアンデルタール人と石斧のことは否定しなかったが、こちらに証拠が何もない。まだこっちには、ペネロペにヒントをもらった切り札が一枚ある。いよいよ、最後の追い込みをかけるか」

「この事件の本当の謎は、もっと深い、別の所にありそうね。それで、最後の追い込みっていったい何?」

「用意ができ次第、君に知らせるさ。今回は君のおかげでいろいろ助かった。ありがとう。何かつかめたらまた連絡するよ」

 プラド捜査官は静かに歩き去って行った。


 ネアンデルタールの村での暮らしもあっと言う間に一週間が過ぎようとしていた。結局、雨らしい雨が降ったのは一日だけで、しかもそれもアルトマンのウェザーボイスのおかげでピタリと当たり、村の人たちに喜ばれた。あと意外に役立ったのが、昆虫採集用の網だ。かなり長く伸ばせる上に、先に細かいアタッチメントが付けられる。そこにカッターを付けて枝に伸ばすと簡単に果実が取れて、しかも網の中にスポンと入る。

 彼らは木登りがうまく、木の実や果実を取るのは全くかなわなかったが、これで逆転、みんなも喜んだ。

 そろそろ前半の報告書と記録映像をシャトルカメラなどと一緒に転送しなければならない。私はここ2、3日は、午前中はアリオン家の居候として食物集めに協力し、午後のゆるりとした時間帯を中心に報告書をまとめたりして結構忙しい。

 報告書に向けていくつか試みたこともあった。

 実はあれから二度ほど、例の若者の村に行く機会があり、そこで私はキリークという長老に出会った。彼はネアンデルタール人としてはかなりの長生きで、薬草の知識や獲物の狩りの話などを聞くと本当に現代人も舌を巻くほどの知識を持っている。若者たちは、キリークを慕い、いろいろな技術を教えてもらっている。このあたりにはどんな生き物がどの辺にいるのか知りたくて、それならキリークに聞いたらいいということで出かけたわけだ。キリークは少し目が悪いのだが、この森の周辺の、大河、湿地帯、草原など、すべて見事に頭に入っていて、今でも若者とよく歩き回っているという。そう、例の教育係なのだ。

 私は最初、地面に大雑把なこの周辺の地図を描き、生物の生息場所を聞き出そうとした。すると、それを見て、キリークは最初笑って何も言わなかった。やはりネアンデルタール人には現実とは違う地図は理解できないのかと思っていたら違った。

 彼は短い木の枝を拾ってくると、まず、太陽の位置を確かめ、次に、地面に星座のような図形を書き、それから今我々がいる若者の村、そして、私がお世話になっている村を描き、きちんと道で結んだ。その2点の長さを基準にして周囲の山や大河などを正確に位置決めした。そして、森の中の目印になる小川や岩場、大木などを書き込み、さらに湿原や草原などを丁寧に書き込んでいった。

 驚いた。東西南北がピタリと合い、縮尺もかなりの制度だ。私は、すぐにカメラの自動記録ボタンを押し、そのキリークの地図を大切に保存した。

 そして私は、タブレットを取り出して、そこに古代生物図鑑を呼び出し、これに似たのはいるかと聞きまくった。

 するといくつもの貴重な生物や、まったく見なかった巨大生物がいることが分かった。ゾクゾクしてきた。さらにキリークと話していて気が付いたのだが、キリークには歴史の概念があるのだ。彼らの部族は、彼が子供の頃に北の森からこの森にやってきたのだという。

「我らは森に生き、森とともに移動する。森が死ねば、我らも滅ぶ」

 先祖の言い伝えによれば、彼らは何度も寒さや干ばつの影響を受け、北から南、南から北へと移動を繰り返しているのだという。食べ物の豊富な時は、村は人が集まって大きくなり、食べ物が乏しくなると、家族単位で分散して村が小さくなって行き、さらにそれが進むと次なる土地を目指して移動が始まる。村はだいたい、気候の変動により、数年から十数年で次の村へと変わって行く。今住んでいるこの森は住みやすく、長く住んでいる方なのだそうだ。ネアンデルタールの一族は大多数がもっと北の森におり、この付近にある村はここをいれて二か所しかないという。西南の森に、もうひとつ別な村があり、たまに交流があるのだとか。

 後でアルトマンのウェザーボイスに尋ねると、ここ1万年ほどの間に二度の小氷期と温暖期があり、森の変化があっただろうとのことだった。そのたびに森は分布を変え、ネアンデルタール人を移動させ、繁栄させ、衰退させてきたのだろう。

 キリークは、この村の三代前の村の様子も聞いていて、海のそばだったその村のことをいろいろ話してくれた。

 でも、ここまで話を聞いて、やはり神らしい神は出て来ない。狩りの武勇伝は山ほどあるが、神話は出て来ない。自分たちを超越した存在はどこにもない、彼らの話は、森に始まり、森に終わる。それですべてが解決し、誰も文句を言わないし、誰も不思議がらない。そして、村には笑顔が絶えない。ガラでもないが、幸せってなんだろうと考えてみたりする。

 傷もアリオンの薬草のおかげでどんどん良くなり、そろそろホプキンスの捜索に向かう決意をした日、最後の大実験に挑戦することにした。今回背負ってきたデイパックの一番大がかりな機器、値段も一番高いほうかな?、私はバードボールカメラを使うことにした。これはドローンの1種で、耐水、耐衝撃ボディーの空飛ぶカメラで、丸いボディの下に推進装置があり、ズームや全方位など5種類の特殊カメラで空中から撮影できる優れものだ。さすがにあの巨大狼をはじめとする古代の猛獣や大型の草食動物たちに近付くのは命がいくつあっても足りそうにない。

 午後、私は村の中央広場に出て、バードボールを使うことにした。私が何か始めると、いつものようにアリオンの子供たちがやってくる。エネルギーは満タンだ、2時間以上は活動できる。タブレットの画面半分にキリークの地図を色付けしたものを呼び出し、もう半分に空中カメラの映像を映す。ゲームのコントローラーのようにタブレットを使い、いよいよバードボールの発進だ。

 低い振動音が聞こえると、直径20センチほどの球体がフワッと浮かび上がる。トールたちが、歓声をあげて興奮する。

「ようし、まずは位置の確認だ」

 バードボールは高く空中に上昇し、高い位置から周囲を見下ろす。さすがだ、キリークの地図とほぼ同じだ。今度は低空に降りてから、森の北部、草原をゆっくり飛行していく。

 細かい枝に引っかからないように低く飛ぶ。おお、森の中を進む巨大なゴリラのような生物が見えた。なんだろうと近付くと、前足が異常に長い馬の仲間、カリコテリウムらしかった。高い場所の葉を食べているうちに前足が長くなった、そんな感じだ。前足のカギ爪が長く、それでどんどん枝を引き寄せ、葉をかじり取っている。やった、幸先がいい。そのほかにも木の上を走り回るリスの仲間や、大きな熊の仲間、小型の鹿など大小さまざまな古代の動物が確認できるやがて森を出て、岩場に抜ける。岩の上であくびをするサーベルタイガー、長い牙が見事だ。草原に出ればさっそく草原マンモスの群れ。ヒャー、近付きすぎて、長い鼻で振り払われそうになった、危ない危ない。そして、湿原から大河の方向に飛べば、巨大なワニと奇怪な牙のゾウが見える。あのゾウは、プラティベロドンの仲間か、口から長く伸びた板のような歯で、湿地の植物を根こそぎ掘り起こして、食べている。

 現代のサバンナと違って、敏捷な小型草食動物が少ない。その分、捕食者の肉食動物も大きい気がする。草原で遠くに大きな影が見えたので、空から近付くと、エラスモテリウムの仲間だろうか、体長5メートルもある巨大サイの仲間がゆっくり歩いている。目の上の一本角がしびれるほどかっこいい! 凄い迫力だ。

 ふと気が付くとトールとレイも真剣な目で画面を覗き込んでいる。彼らなりに理解ができたようだ。見たことのある動物が、画面に出ると、見た見たなどと大声で叫ぶ。

 バードアイはゆっくり周囲を一周回って帰ってくると、また中央広場に静かに戻ってきた。

 よく無事に帰ってきたとこれでひと安心だ。私はカメラを急いで仕舞い込み、一息ついた。そして、トールたちに言った。

「私はあしたこの村を出るんだ。いろいろありがとう」

 するとトールたちは本当かと聞いてきた。本当だと言うだけで、涙が出そうだった。もう私は、すっかりアリオン家の一員だったことが今更思われた。

 トールとレイは何かを思いついたのか、どこかへ走り去って行った。あの子たちなりになにか考えているのだろうか。

 それから私は小屋に戻り、いろいろと出発の用意をしていた。すると、広場で何か叫ぶ声がした。何事かと思って駆けつけると、アリオンの第二夫人のマリがあのやんちゃなトールを抱きしめて泣き叫んでいる。

「いったいどうしたんだろう!」

 昼の見張り番の若い男が駆けつける。トールが毒蛇にかまれたらしい。時々あるのだという、若者はすぐに毒を絞りだし、薬草を塗ったが、場合によっては命は助からないかもしれないという。

 マリは、村の外の木に登ってはいけないと言ったのに、なぜ一人で採りに行ったのと、泣いていた。

こ うしてはいられない、私はいてもたってもいられず、小屋の中からデイパックを持ってきた。確か、毒蜂や毒虫、毒蛇などに噛まれた時に使える医療ボックスがあった。

 トールは苦しそうにぐったりして、ショックで弱ってしまっているようだった。私を見ると何か言いかけたが、よく聞こえなかった。伸ばした左手を噛まれたのだという。つい今しがたまであんなに目をキラキラさせて元気だったのに。

「今、治してやるから、待っていろよ。」

 私はさっき噛まれた口から絞り出した血液を分析装置にのせ、光分析を行った。心配なのは18万年前だから、分析ができたとしても、それに該当する血清成分があるかということだった。

 ピー。電子音が響く。

「n126、あった、助かるぞ」

 医療パックからn126を取り出し、注射する。

「誰か、飲み水を持ってきてくれ」

 さらにショックを和らげる飲み薬を与えて様子を見た。少し、苦しそうな様子が落ち着いてきた。

「あとは、小屋で静かに寝ているんだ」

 みんなまだ心配そうだったが、静かにそれぞれの小屋に帰って行った。

 少しして、アリオンがわざわざ私の小屋まで来てくれた。おいしいフルーツを一緒に持ってきてくれた。息子が世話になった。イケナミのおかげでどんどん元気になってきた。明日は、起きられそうだと喜んでいた。私が、明日出発することを話すと、ヘクトールがホプキンスのいなくなったところを教えてくれる打ち合わせになっているという。アリオンは何回もお礼を言って去って行った。

 よかった…薬が効いたみたいで…。

 次の日、早起きして中央広場に出て、村人たちにお別れを言った。私もヘクトールを見習って、なるべくひとり一人の名前を言って、別れを惜しんだ。なんか、家族以上の深い思いが、まさかと思った涙を誘う。彼らも同じように涙を流し、手を取って別れを惜しむ。ふと見ると、回復したトールが赤い大きな実を持って進み出た。お別れに、この実をどうしてもイケナミに渡すのだという。よかった元気になったんだ。

「ありがとう、おいしそうだね」

 それは、真っ赤に熟したマンゴーの仲間で、このあたりで一番おいしいのだという。隣にいたレイが言った。

「トールは、イケナミにあげようと、村の外のこの実を取ろうとして、蛇に噛まれたんだよ。」

「まさか…そうだったのか…」

 私は、言葉を失い、その実ごと、トールを抱きしめた。

 蛇と赤い実、そして私はこの楽園のような村を出ていく。まるでなんかの物語のようだ…。

 その実を荷物に大事にしまうと、最後にもう一度みんなに別れを言って歩き出した。

 村の出口にはヘクトールが槍を構えて待っていた。いよいよ出発だ。、私は、一度湿原の向こうにある小さな岩場に行きたいとヘクトールに頼んだ。

「わかった。じつはホプキンスが最後に行ったのもそっちなんだ。ちょうどいい」

 ヘクトールは、風向きを見ながら、なるべく獣たちの風下から行けるように慎重に先に進んでいった。なるほど、この間の私は、よく平気でズンズン歩いていたもんだ。

「…イケナミ…」

 ヘクトールが急に止まれと言う手振りをした。私は立ち止り、草むらに身を隠した。大きな足音が近付いて来た。

 それは見たことのない巨大なサイの仲間だ。角のないサイのインドコテリウムの仲間だろうか。ヘクトールの話では、やっと乳離れしたかしないかの若い個体で、夜のうちに襲われて逃げてきたのだろうということだった。まだ子供らしいが、頭の高さだけで4メートルほどあるだろうか。私はカメラのスイッチが入っているのを確認してさらに観察を続けた。

 だんだん近づいてきてわかったのだが、右の前足を少し引きずっていて、腹部や肩に肉食獣に襲われた後があり、結構弱っている。苦しそうな大きな息遣いが聞こえて来る。親たちとは完全に離れ、真夜中からずーっと走り続けてきたようだ。

「あの巨大なオオカミが、二頭ついてきている。奴らはすこしずつ相手を弱らせ、ずーっと追いかけ、疲れたところでとどめを刺す」

 巨大オオカミは全く見えなかったが、傷の様子からわかるのだという。すぐ目の前を手負いの巨大生物が横切って行く。

 このサイは鼻の上に小さな角があるだけだ。きっと大人になれば敵もなく、身を守る角もいらないのだろう。さらに、スラリと長い首、手足を持っていて、その長い前足で踏みつけ、強力な後ろ脚で蹴り上げるだけで、普段は敵がいないに違いない。

 その時だった。後ろから、恐ろしいうなり声が聞こえてきた。本当だ、あの最初に見た巨大なオオカミだった。体長だけで4メートル以上ある、少し短足だが頭でっかちで、でかい口に並んだその牙はかなり強力そうだ。こいつは何時間も獲物が弱るまで追い続ける、執念深い奴だったのか。

後ろから迫りくる恐ろしい気配、手負いのサイは少し立ち止まり、そちらを気にしたかに見えた。その時、もう一匹の狼がどこから回り道をしてきたのか、サイのすぐ前方の森の影から飛び出してきた。

「ヴォオオオオオオ!」

「ガルルルル。」

 大きな影がジャンプした。巨大狼は前方からまんまと近付くと、サイの首に下から噛み付いたのだ。だが、それでも持ちこたえる巨大サイ。なんと、狼を首にぶらさげたまま暴れ出した。よく見ると力強い前足にはかぎ爪がついており、踏み込むだけで、相手の腹を切り裂く威力を持っている。だが、狼はサイの引きずっていた右足側に重心を移し、なかなか致命傷を受けない。したたかなものだ。

 そうしているうちに、後ろからやってきた狼が背中から襲い掛かってきた。後ろ足に噛み付くところを思いっきり蹴り上げようとするサイ。この一発が決まれば致命傷を与えることができるだろう。だがはたしてもう一匹もさっと前方に回り込んで、足の蹴りをかわし、そのまま傷ついた右足にかみついた。大きくよろけるサイ、それでも最後の怪力を発揮し、足にかぶりついた狼を跳ね飛ばした。

「ギュオーン!」

 痛そうな鳴き声をあげる狼。今度はサイの逆襲が始まるかと思われた。だが次の瞬間、大木は倒れた。サイは喉を噛まれ、ついに呼吸が尽きたのだ。ものすごい地響き、土煙とともに、巨体は倒れて行った。

 喉にかみついた狼はサイが倒れた後も、首元をなかなか離そうとしない。完全に息の根を止めるつもりだ。

 しかし、あの狼がこんな見事なハンターだと思わなかった。彼らは、真夜中にサイの群れの小さな個体を襲い、群れから切り離し、しつこく追いかけ、時々襲い、手負いにした上でとどめを刺す。それも自分たちがダメージを受けにくい角度から、首を狙い、自分の体重を使って息の根を止めるわけだ。

「さあ、今のうちに、先に進みます」

 ヘクトールの指示が出て、私たちは草原を進んでいった。

「よし、私のトランクも無事だ」

 私はトランクを引っ張り出し、次元プレートを広げると、シャトルカメラとバードボールのメモリー、そして報告書などをまとめた機材をセットした。

「今の狼の狩りは、また次回に送ればいいな。よし、これでいい」

 でも、何か忘れているような気もする。

「あ、そうだ、アルトマンへのお礼のメールを送らなければ」

 基地内の隊員にだけ個人メールが送れるようになっている。忘れるところだった。

「よし、シャトル転送!」

 スイッチを押すと、正常に転送が始まり、空間の中に機材は消えて行った。だが、トランクを見たヘクトールが、さっとこちらに近付いてきた。

「この箱は、お前たちの物なのか?」

「そうだけれども、何か?」

「いや、ここの近くに、同じような箱がもうひとつあるんだ」

「え、もしかして」

 私はヘクトールにせがんですぐその場所に連れて行ってもらった。少し歩いて行った巨木の影に隠すようにトランクが置いてある。やっぱりそうだ。ホプキンスのトランクに間違いない。

「あの日、ホプキンスとこのあたりに来たときに、見たことのない奴らに襲われて、ホプキンスと離ればなれになったんだ」

 私はヘクトールに少し待ってくれと言うと、緊急時のマスターキーを取り出した。そうか、こんな時のために使うものなのか。キーを入れると稼働音が聞こえた。この超合金の耐衝撃ボディはちゃんと二年の間、中のメカを守り通したようだ。中は全くのそのままで、異常は何一つないようだった。

「もしかして…」

 私は、中のメインコンピュータにアクセスした。トランク内のモニターに画面が浮かび上がった。

「あった!」

 それは、書きかけのエデン文書…失われた謎の答えだった…。しかも、ここから次の地点への地図のデータもある。

「どうした、イケナミ」

 驚いた私を見てヘクトールが声をかけた。私は少しの間考えて、慎重に答えることにした。私は、そのファイルを自分のタブレットにすべてコピーするとヘクトールに告げた。

「ありがとう、ヘクトール。これはホプキンスの大事な箱だ。中を見てわかった。ホプキンスがどこに行ったのかが…」

「そうか、それはよかった。やつは生きていそうか?」

「わからない。でも、きっと見つけて来るよ。きっとホプキンスをね」

 私はヘクトールに別れと感謝の言葉をもう一度言って歩き出した。ホモ・サピエンスの村へと…。

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