第5話 楽園

 そっと目を開けると気持ちのいい風が吹いていた。

 何かぼんやりと思い出す。あの世界最大のサハラ砂漠は1万年ほど前は降水量も今より多いサバンナで、人々は動物を追いかけ、豊かに暮らしていたそうだ。だが、徐々に砂漠化が進み、人々は水と土地を求めてナイルを下り、そこに古代エジプト王朝が栄えたのだという。

 今目の前に広がるさらに昔、18万年前の北アフリカは、広大な大地の上に、草原や湿地帯が広がり、あちらこちらに亜熱帯の森も見える豊かな場所だった。原色の美しいインコの群れが頭上を飛んでいく。ずっと下の水辺には、サイか何かの大型の草食動物の群れが集まっている。

 神よ、私は生きていた。転送直前の異常は私が一番わかっていた。腕時計型の波動メーターが異常を示し、見れば管制室で大村チーフたちがあわてて走り回っていた。だが、波動エネルギーが不安定な時ほど、時空プレートにいる隊員は静止していなければ危ないとマニュアルに書いてある。何が起きたのかわからないが、変な衝撃を受けながら、私は少し前にここにいた。気が付けば生きていた。すぐに時空座標の確認をすると、ホプキンスのいた場所とはわずかにずれているが、かなり近くらしい。

 だが、時間は大幅にグラフの青いほうにずれていて、何か月か何年か後に来てしまったようだ。まあ少しすればくわしいことも分かってくるだろう。きっと大村チーフたちのダブル制御システムがなければ、単なる転送の失敗で終わっていた、私はまさか生きてはいなかったろう。誰かが、私の命を狙っていたって? さすがだが、今回は私たちの勝ちだ。チーム力の勝利だ。

 私はシャトルカメラの一号機をトランクから出すと、周囲の映像や、種々の観測データ、そして私の元気な姿を記録してまず送り返すことから始めた。もちろんホプキンスとは会えず、捜索も困難になったが、可能な限りやってみると付け加えた。

「さあて、出発の用意だ」

 私は首と頭を保護する軽くて丈夫なカーボン製のヘルメットをかぶり、防御用の杖を取り出した。これはもちろん軽くて丈夫な杖として普通に使えるが、いざとなれば、先端が強力なスタンガン、手元が小型催涙弾を撃ちだすショットガンとしても使える。そして、デイパックにいろいろな便利グッズを詰め込んだ。

「ホプキンスには遭遇できなかったので、予定通り、ネアンデルタールの村方向に行くか」

 自分のタイムトランクを目立たないように岩陰に移動し、私は緩やかな丘を下り始めた。爽やかな風が吹き抜ける。時間は…たぶん朝だ。

「この辺で飲料水の確保でもするか」

 大きな川の岸辺などには、現代のワニの何倍もある巨大ワニがいてもおかしくない。私は森から流れ出た湧水のようなせせらぎを見つけ、逆浸透膜ペットボトルに水を入れてみた。味見をするとこりゃあうまい。予備にもう一本確保した。

 眺めのいい岩に腰かけ、喉を潤しながら最初のホプキンスの日記を確認する。腕時計を大型スクリーンモードにして読んでみる。

 ふむふむ、最初のうちは亜熱帯の豊かな森など、周囲の風景の説明があるが、私の見ている風景とかなり近い。場所は多分そう離れていない。ホプキンスは偶然北側の森に人影らしきものを見つけた。そして草原を抜け、北の森に向かって歩き出したようだ。

「よし、北に向かおう」

 私は大きく深呼吸をすると、北へと進路を取り、歩き出した。


 これが、現代ならサイやトラ、サンバーと呼ばれるシカがいるインドの湿地帯あたりに近い生態系なのだろう。だが、ざっと見たところ、身軽で敏捷な草食動物は今のところ見えない。古生物図鑑には未記載のサイやカバに近いようなずっしりとした大型の草食動物が水辺に何頭か確認できる。私のヘルメットと肩の部分にそれぞれ装着されている、高性能カメラがその姿をはっきりととらえている。

 日記によればホプキンスはこのあたりで2度危険な目に遭っている。1度目は湿原に少し近付いたところで背の高い草むらから飛び出してきた大型のサイの群れに出会い、踏み殺されそうになり、さらに少ししてからそのサイたちを追い立てていた、巨大なオオカミに至近距離で遭遇した。オオカミとは言っても有名なモンゴル出土のアンドリュースアルクスに似た、頭骨だけで1.5mほどもある大型の肉食獣だ。ホプキンスは息をひそめてすぐそばを通り抜けるのを待っていたという。残念ながら、この湿原での遭遇は映像に撮られていない。今回は自動撮影モードにしてあるが、至近距離での遭遇はちょっと避けたい。命あってのものだねだ。

 私は草の背の高い湿原側を避けて、西の森に近い草原側を歩いて行った。

「おや、スゴイぞ!」

 間違いない、300mほど前方の茂みのあたりを小山のようなっ黒い影が横切って行く。

「やったあ、巨大狼だ」

 でも、分類学的にメソニクスの系統なら蹄があるはずだが、見たところそんな感じもない。私は立ち止り、ヘルメットカメラのズーム機能を使って、その巨大肉食獣を映像に確かにとらえていた。現代のオオカミよりは短めでがっしりした足、顔はハイエナに似て、噛む力がかなり強そうだ。きっと獲物の骨まで噛み砕くのだろう。背中にはトラに似たシマ模様があり、草むらで待ち伏せするのにはもってこいと見た。

 だがその映像に夢中になっていた時だった。それは、何の前触れもなく、突然襲い掛かってきた。、

「うわっ!」

 カーボンヘルメットの上から、ガツンという強い衝撃を感じた。あわてて振り向くと長い恐竜のような足が目の前に迫っていた。もうどうにもパニクって、杖の先を強力スタンガンモードにして振り回した。

「ギャアオオオオ!」

 鋭い悲鳴を上げて、何か巨大なものが森の中に逃げて行った。

「あ、危なかった…」

 自分ではパニクってちゃんと確認できなかったが、ヘルメットのてっぺんについているカメラで再確認すると40センチ以上あるクチバシとランランと輝く瞳が映っていた。

 フォルスラコスのような、地上性の大型肉食鳥だ。首まで保護するカーボンヘルメットがなければ、後頭部か頸椎を一撃でえぐられて即死だったに違いない。運よく足にスタンガンが当たって逃げてくれたが、あのキックがあのまま腹部にでも当たっていたら、内臓破裂間違いなしだ。気が付けば、巨大狼はもうどこかに消え去っていた。ちょっと不安になる。

 まあ、今回すべて鮮明な画像で撮影に成功していることが、きっと後で大きな喜びになるだろう。今はテンパって、それどころではないが。

 私は、湿原とも森ともだんだん離れ、草原の中を北へ北へと進んでいった。

 アルトマンがくれたウェザーボイスを取り出し、天気はどうだいと聞いてみた。

「…池波さん、お元気ですか。只今この地方は雨期が終わり、氾濫していた水も引き、雨も時折しか降らない安定した季節に入っています。ここ3日ほどは晴天が続き、その後の天気の崩れもあまり大したことはありません。気温と風向は…」

 優しそうな女性の説明が聞こえてきて、なんだか心が落ち着く。天気予報も便利だが、精神安定作用が大きい。ありがとうアルトマン。

 そのうち私は草むらの中をゆっくり動く丸い岩のようなものを発見する。

「おお、あれはもしかして…」

 私は目をキラキラさせながら走って近付いて行った。

「コロッソケリス・アトラス、君に会えるなんて。」

 その巨大なリクガメは、突然の私の来訪に驚き、その2メートルを大きく超えるドーム状の小山のような甲羅の中に引っ込んでしまった。4トンを超える黒い甲羅には、美しい放射模様があり、草原ではこれが保護色になっている。私が何もしないで静かに佇んでいると、やがてリクガメは長い首を伸ばしはじめ、ゆっくりと私を見た。思慮深い優しそうな瞳だった。そして食べかけだった草を少し食べると、ゆっくり移動していった。今度もばっちり撮影成功。化石からは予想もしなかった放射模様のある美しい巨大なカメだった。

 やがて、北の森の入り口につく。見ると何か所か、草の踏み固められた小道のようなものがある。大きな生物の通ったけもの道のようでもあるが、ホプキンスの話では、ネアンデルタール人の巡回路だという。動物が通りそうなポイントに落とし穴などの罠を仕掛け、そこを定期的にめぐる道があるというのだ。

 私は警戒しながら、その道の奥へと進んでいった。私は植物は専門ではないので、詳しいことは帰ってから分析してもらうが、森の中を歩いた感じは現代の亜熱帯林や熱帯林を歩くのとさほど変わりない。美しい大型のチョウが舞い、いろいろな鳥類の鳴き声が聞こえる。木の幹にはたくさんの甲虫も確認できるし、あちこちにアリも見かける。なぜか落ち葉が集まっている場所があったので、ひっくり返してみると、ゴルフボールほどもあるダンゴ虫や蛇のように大きなヤスデの仲間も確認できた。おもしろいので、落ち葉をあちこちかき回しながら歩いていたら、急に足元が崩れ、2メートルほど転落した。

「いてててて…」

 見ると自分は穴の中で動けなくなっていた。

 …そうか、これは獣を獲るための罠だ。自分はきっとネアンデルタール人の罠の巡回路を歩き、そのまま道を外れ、自分から罠につっこんだに違いない。道理で多量の落ち葉で隠してあったはずだ。われながら馬鹿みたいだ。落ちる途中で何かをつかもうとしたのか、左手に切り傷があり、血がにじんでいた。まったく自分に腹が立つ。何とか出ようともがくが、簡単には出られそうにない。

「うん?」

 私が中でもがいたのが良くなかったのか、遠くから草や枝をサワサワさせて、何かが近付いてきた。緊張が走った。


 マスコミががやがやと騒ぎ出した。アイリーン報道官が、大村チーフとともにモニターに映った。

「お静かにお願いします。数分後、もし池波が生きていれば、シャトル映像が送られてきます。お静かにお願いします。では、大村チーフからお話があります」

 大村チーフが神妙な顔でモニターで話しかけた。

「最初は、池波についてです。先ほど、コンピュータの時間管理プログラムに異常が発生し、池波は危うく時間の迷子になり、二度と帰って来られなくなるところでした。しかし、我々が徹夜で用意したダブル制御システムにより、限りなく予定地に近い時空に転送されたもようです。そしてふたつ目です。まだはっきりしませんが、異常を起こした原因は、外部から意図的に持ち込まれた、ニンジャ型の内部操作プログラムのもようです。分析はこれからなのではっきりしたことは言えませんが、ただひとつだけわかったことがあります」

 思わせぶりな大村チーフの言葉に、マスコミがざわついた。

「どうやらファイル名が、さまよえるネアンデルタール人という名称らしいということです。あ、リターン時間粒子が確認できた。シャトルカメラが戻ってきたぞ!」

 大村チーフが、突然画面を外れ、管制室へと走り出した。

「お静かに、シャトルカメラが帰ってきます。池波の生存確認がはっきりします。お静かにお願いします」

 やがて、みなが固唾をのんで見守る中、空間が歪み、小さなシャトルカメラが帰ってきた。歓声の中、現場スタッフたちがすぐに回収し、会場のモニターに中の様子が映し出された。豊かな大自然、太古の巨大哺乳類、そして、元気そうな池波が映り、明るくメッセージを伝えていた。

 みな胸をなでおろした。

 それから約一時間後、タイムドームの置いてあるあのプロジェクト室にプラド捜査官、大村チーフ、アイリーン報道官が集まっていた。そこにこのタイムドームのコンピュータ管理部門の責任者ピーター・ルーニーがやってきた。

 ピーターは陽気な、現場の人気者で、ラフなシャツにジーパン、ピアスのくだけた男だが、その天才的なひらめきと、神業のような素早い仕事が評判だ。プラド捜査官が立ち上がった。

「ありがとう、ピーター。では今までの経過と今日の出来事についてまとめておきます」

 プラド捜査官は、淡々と冷静に、ホプキンスの事件から謎の盗難事件、実態のない、侵入者の謎などをまとめた。

「そして今日、私は機械室が狙われるのではないかと、転送の直前に機械室に入りました。そこには私より先にもう一人の人物が来ていたのです。最初はこの人物が犯人かと思って逮捕しようと近付いたのですが、実はその人物も犯人を捜してそこにやってきたのです。ペネロペさん、こちらへどうぞ」

 するとドアが静かに開いて、この場に似つかわしいとも思えない、色鮮やかなドレス姿のペネロペが入ってきた。神妙な表情だったが、みんなを見て静かに微笑んだ。

「連邦政府秘密調査官ペネロペ・ミューズと申します。いろいろ身分を偽ってこのタイムドームにも出入りしていました。事の起こりは、インターネット上に書かれた謎の言葉でした。ちょうどホプキンスが最初の森の人文書を送ってきた直後、さまよえるネアンデルタール人という暗号が、ネット上で犯行予告をしてきたのです。はたして次に送られてきたエデン文書も破壊され、同時にプリントアウトされていた分の文書も何者かによって盗まれたのです。私は、秘書として身分を偽り、その当時からタイムドームで捜査を開始していました」

「この別嬪さんが、連邦秘密調査官? そりゃあ、凄いや。あんたはたしかクロフォードさんとこの…」

 驚く大村チーフにペネロペが答えた。

「調査中にクロフォードさんの目的と私の目的が一致していることがわかって、お互いに協力することにしましたの」

 にしても、もっと早く正体を明かしてくれてもよかったと、プラド捜査官は思った。あの時、渡された手紙には…この手紙は開封後一分間で文字が消滅します…という赤い文字のメッセージの下に、ペネロペの詳しい経歴が書いてあった。もちろん読み終わったころにはすべて文字は消えて行った。シェパードの持ち物からも手紙が発見されなかったのはこのためだ。まったく手が焼ける女だとプラド捜査官は思った。

 ペネロペが続けた。

「でも、さまよえるネアンデルタール人とは実際何者だろうと思っていました。最初は外部からの侵入者、そして次は外部からの犯行に見せかけた内部の裏切り者、そして、カルメンセレクトなどでは18万年前から転送されてきた原始人がドームの裏側で暴れているというおかしな噂まで飛び交いました。でもその実態は、犯人が秘密裏に仕込んだプログラムだったんです」

 次に、プラド捜査官が数枚のデジタル画像をモニターに移した。

「私とペネロペが機械室の奥のパソコン画面をとっさに写したものです。突然今までの管理画面が消えて、たくさんの文字列が流れて行きました。ほらこの部分、偶然写ったものですが、はっきりと読み取れる。どうです、さまよえるネアンデルタール人、とね。ここの内部ネットワークは、外部とつながっていない閉鎖システムです。つまり誰かが意図的に持ち込んだとしか思えない。ピーター、ここまでの所の分析結果をお願いします」

 すると、ちょっぴり筋肉系のピーターがさっと立ち上がった。

「このプログラム、さまよえるネアンデルタール人の特徴は大きく3つあります。ひとつ目は、平常時は何の変哲もない画像ファイルなどに化けていて、何かのきっかけがあるまではまったく気づかれない。もちろんウイルスではないので監視プログラムにもひっかからない。ふたつ目は、きっかけがあると自己解凍し、まるで誰かが侵入して何かを操作したように動き出す。3つ目は動いた後、自分自身を完全に消去して証拠を残さないということです。多分、転送のためのメインプログラムが動き出すのをきっかけに、いろいろな不正処理を行い、最後は自ら分解し、跡形もなく消滅して、あとはいくら調べてもわからないということなのです。きっとそのたびに消えちゃうから、入れ直してるんでしょうね。唯一の証拠は、このモニターに写ったあやしい文字列だけです。現在私たちのセクションは、このさまよえるネアンデルタール人を見分ける作業と、どこの端末から入ったのかの特定に追われています。うちらのチームに挑戦してきたわけですから、もう、容赦はしません。数日中には結果がでるでしょう」

 すると、大村チーフが質問した。

「ところでピーター、誰がそのプログラムを持ち込んだかはわからないのかい」

「残念ながら、ある程度のプログラミング知識と、マスターキーさえあれば誰にでも可能でしょうね。プログラムは誰かに頼んで作ってもらってもいいしね」

 そこまで言うとピーターは持ち場に帰って行った。実は、この入り組んだ事件の原因が自分のコンピュータ管理にあったということで、本人もかなりの悔しさとショックを感じていたようだ。今夜は徹夜になるという。

 秋も深まり、少し冷え込んだその日の夜、カキ料理のおいしい店でなぜかプラド捜査官はペネロペを待っていた。アル・キャドックという店は、小さいが家庭的で、こんな夜は身も心もほかほかにしてくれる、そんな店だ。

 プラド捜査官は何故かめったに見ない電子情報誌の今週の星占いを読んでいた。駆け引き上手の女狐と遣り合うのに、なにかいい情報がないかとみていた。だが、なんと今週の占いのテーマはグルメ運だという。いやな予感…? 自分の星座、おとめ座をみるとおいしいものに目を奪われているうちに運をのがす。気を付けよ。とあった。ペネロペは調査の結果、牡羊座か。めったに食べられないおいしいものがやってくる!逃すなとあった。だめだ、役に立ちそうにない。

 彼女の本名は、ペネロペ・ミューズ、名乗っていた名前と同じ、ギリシャ系イタリア人で、スーパーモデルとして各国を回るうちに秘密諜報部から仕事を頼まれるようになり、腕がよかったので、現在に至ったという。あのカルメンはスーパーモデルとしての彼女をよく知っていたようだ。ということが分かったのだが、そんな経歴もすべてうそのような気にさせる、そんな女ではある。

「あら、時間を過ぎたのに、待っていてくれたのね。あなたってそういうタイプ?」

たぶん、わざと時間を少し過ぎてから来たのに違いない。今度は全身真っ黒でおしゃれなコーディネートを決めてご入場だ。

「マスター、あのミュスカデの特別な白、入ってる? ああ、うれしい。じゃあ、今夜は牡蠣のフルコースで彼と楽しむわ」

 こっちの好みは一切聞こうとしない。牡蠣は嫌いじゃないが、何とかこっちのペースに引き戻さなければ。

 …あれ、ミュスカデって、こんなにうまいワインだっけ…。だめだ、最初から向こうのペースだ。だが、星占いなんかに負けていられない。最初に出てきた生牡蠣のレモンビネガー添えをつまみながら、お互いの捜査記録を確認する。生牡蠣は三種類、バランスのとれたニュージーランド産と、濃厚なカリフォルニア産、そしてフランスの塩田で熟成された珪藻でエメラルドグリーンに輝く、あっさりした翠牡蠣だ。どれもうまい。ペネロペの方は当初からネット関係のことを調べ上げてあるので、そちらのことにかなり詳しい。こちらの資料にはタイムドーム内の場所や人物、システムがほぼすべてわかるようになっている。ふたつの資料を合わせると、かなりの前進だ。だが、問題点の部分は同じだった。そう、つまりこの大仕掛けな事件の犯行の動機がはっきりしないということである。

 次は日本産の岩カキのクラムチャウダーだ。この岩牡蠣は、特別にミルクがたっぷりの品種で、濃厚なスープの中で本当にトロけるようだ。

 味をかみしめながら、マスターキーを持っている人間だけでも確認してみることにした。まず、ブルコス会長、大村チーフ、ニューマン博士などの上層部の人間。

 この人たちは、計画が失敗したら、場合によっては職を失うからあまり動機はみあたらない。あえて言えば、ホプキンスを目の敵にしているあの分子生物学者のニューマン博士ぐらいか。

 そして、次は、非常事態に備えてマスターキーを渡された三人の隊員。しかしシェパードは死に、池波も命を狙われ、アルトマンは自分から隊員を降りたという。

 そして最後に、クロフォードやアルフォンス社長などの大物スポンサーだ。ここのコンピュータは外のネットとつながっていない閉鎖システムで、過去から送られた貴重な映像やデータはさらに内部でも高いセキュリティで守られているのだ。だから、マスターキーを使って指定された日にデータを取りにくるようになっている。だが、このスポンサーたちは、計画が失敗し、情報のもととなる過去の映像や資料がなければ大損害をこうむることになる。ペネロペの意見も全く同じだった。

「うーむ、やはり動機が見当たらない。犯人の狙いは何なんだ。そういえば、シェパードが君を怪しいと目を付けて、何かを聞いていたようだけれど、奴は何を調べていたんだ。」

「そうねえ、特に変なことは聞かれなかったけれど…。あ、ちょっと待って、ひとつだけおかしなことを彼から聞かれたわ」

「おかしなこと?」

「シェパードが私に聞いたの。ガルシアがアルフォンス社長にある数字をつぶやいていた。029とはなんだってね」

「029?」

「そう、029よ、もちろん私にもわからなかったわ」

 彼は029の謎を追い、ヘクトール029とつぶやいて命を失った。プラド捜査官は深く考え込んだ。

 するとペネロペが行った。

「はいはい、そんな難しい顔しないで、フランス産の牡蠣、ブロンの冷製プディングがとっくに来てるし、ほらメインのスペシャルカキフライよ」

 しばし、豊潤なミルクの滴る牡蠣の世界にどっぷりつかる。最高だ。ミュスカデはますますうまい。プラド捜査官はペネロペに言った。

「そういえば、池波から聞いたんだが、あのアルフォンス社長のパーティの前、あやしい人物と話をしていたらしいね。カルメンが乱入して大騒ぎだったらしいけど…」

「あら、池波さんったら、そんなことまで見ていてくれたの? 私に興味があるのかしら。ああ、怪しいあの男ね、連邦政府の私の雇い主、エージェントKとしかわからないのよ。いつもサングラスと琥珀色の指輪をしていてね、素顔もよくわからない。でも、なかなかいい男でね。このお店といいワインは彼に教えてもらったの…うふふ」

 そう言って、ペネロペはプラドをうっとりするような目で見る。プラドはそれを無視して、別の話題を振る。

「しかし、あのカルメンっていう女は、インフォコーディネーターのくせに、パパラッチみたいに現場に現れる、どういう女なんだい」

「彼女はねえ、自分で感じた現場の雰囲気を大切にして、自分でコーディネートした情報の重要なポイントに自分のコメントやストーリーを付けて配信してるのよ。そこが受けているみたい。」

 うーん、今までだれに聞いたよりも実にわかりやすい。

「なるほどねえ、彼女の作ったストーリーでタブロイド紙はかなり売れたらしいな」

「そうそう、ネアンデルタール人のおかげで、いろんなマスコミやインフォ関係と契約して大儲けしてるわ」

「え! ペネロペ、君、今なんて言った?」

 その時プラド捜査官の中で何かがつながった。

「え? カルメンが大儲けしてるって!」

「それだ!」

 こちらの切り札としてカルメンが使えるかもしれない。

 プラドはすぐ携帯電話で時間企画会議の議事録の内容をタイムドームの担当に確認した。何かが大きく前進したようだった。

「君のおかげかな、それともこのおいしい牡蠣のおかげかな? 次に調べに行く場所が分かったよ。どうだい、明日の午後、事件の核心に迫る場所に一緒に来るかい?」

「あら、わたしにお誘い? あなたってそんなキャラだっけ。ええ、ぜひ、ご一緒させてもらうわ」

 二人は、牡蠣とワインをたっぷり堪能した後、速足で店を出て行った。


 北の森で自ら穴に落ちた私は近づいて来るものに非常な恐れを感じていた。もし今来られたら、逃げようがないのだ。カーボンヘルメットをかぶり直し、あの杖を握りしめた。

そして、それは慎重に罠を覗き込んだ。それは思慮深そうなネアンデルタール人だった。

「おまえは、誰だ」

 そのネアンデルタール人は今、確かにそういった。あの村からずっと学習し続けてきた日常会話の通りだった。私は、出会った時のために用意しておいた言葉をさっそく投げかけた。

「私はホプキンスの友達だ。ホプキンスを探しに来たんだ」

 するとそのネアンデルタール人は私をじーっと見つめて言った。

「今はホプキンスはいない。でもおまえケガしてる。村へ来い」

 私は杖ごとネアンデルタール人の怪力で簡単に引き上げてもらい、ゆっくり後ろについて歩き出した。

 北部ヨーロッパの森林で数万年以上かけてホモサピエンスと別れて進化した彼らは、実物を見るほどに魅力的に見えた。白い肌青い目、髪は赤毛で、長く伸びた髪やひげの先は、金色だ。特に成長したオスの金色の髭や髪は見事で、ホプキンスはゴールドネックと呼んでいた。群れのリーダーのシンボルなのだそうだ。また、今私を先導しているこの男は長い立派な石の矢じりをつけた槍を持っている。身長170センチそこそこだが、ネアンデルタール人は足が短いずんぐりした体形なのだ。これが現代人なら、肩幅や筋肉の付き方から見ても、190センチ近くの身長に値するだろう。とにかく、がっしりして、とても大きく見える。

 その男は一度振り返り、私の左手の傷の具合を確認した。そして、森の奥から、2、3種類の植物を採ってきた。薬草だろうか。

 よく見ると彼は重い皮の袋を肩から下げている。かなり重そうだが、まったく息切れもしていない。先ほど穴から私を引っ張り上げた時も片手だった。なにかもう、現代人とは比べ物にならない凄い怪力だ。

 やがて、いろいろなフルーツがたくさんなっている場所を通る。

「そろそろ村だ」

 村で食べ終わった木の実をまいているせいで、村の周囲には食べられる木の実がなる林ができているのだという。

 やがて、目の前に小さな広場が見えてくる。彼らの森の村だ。

「お前の名は何だ?」

「私の名前は池波だ」

「イケナミ、ちょっとだけ待ってくれ」

 男はそう言うと広場の真ん中に行って、荷物をおろし、他の村民たちを集め出した。荷物の中身はイノシシの子どもか何かで結構な重さだ。

 ホプキンスの話だと、彼らは、厳冬期は洞穴などで温まるが、春や秋はこの森の家で、夏は海岸に降りて、海の家を作って暮らすのだという。

 地上から1.5メートルほどの所に枝やツルを使って見事に作ってある。よくできたツリーハウスと言ったところだ。虫や湿気が多い森の中でも快適に過ごせそうだ。作りはしっかりしていて、美しくさえ感じられる。そんな家が広場を囲むように10世帯ほど並び、村を形成しているのだ。

 ホプキンスの説では、100人ちょっとのこの人数がちょうどいいらしい。狩猟採集を中心にした彼らの集落は、多すぎると食糧不足になるのだ。大きな狩場一つにつき、10世帯ぐらいで暮らすのがちょうどバランスがいいらしい。

 男は集まってきた村の者たちに説明を始めた。

「今、ホプキンスの友達を連れてきた。ホプキンスを探しに来て、罠に落ちていた」

 かすかな笑い声がしたが、全体に歓迎モードだ。するとあの男がさっとこっちにやってきた。

「さあ、イケナミ、来てくれ、みんなに会わせる」

 私はちょっと緊張しながら村の広場へと歩いて行った。

 するとたくさんの子供や女が、強い好奇心を表し、私をジロジロとよく眺めてきた。ホプキンスの文書には載っていたが、なるほど、女子供はとてもかわいらしい。あのネアンデルタール人の特徴の目の上のもりあがりや、おでこが低く、後ろにながい頭は、オスの第二次性徴であり、ひげのない男の子や女性はかえって、彫りが深く鼻も高めで目がくりくりしていてかわいらしい。日本人の私は小柄で髭もないから、彼らにすれば子供と同じように見えるのだろう。

 私を連れてきてくれた男は、成長したいかにも強そうなゴールドネックを持っている男のネアンデルタール人顔で、名をアリオンといい、狩りの名人なのだそうだ。彼はこの村の外に自分の家族を持っているのだが、小さい子供が多い春先に村の手伝いに来ているらしい。その他の男たちは狩りからまだ帰っていないという。

 女や子供たちの話ではホプキンスはとてもいい男で、しばらく前に狩りに出かけたまま帰らないという。

「怪我が治るまでこの村にいればいい、何とかなる。まずは薬を作ろう」

 私はあまりにアリオンが優しくしてくれるので涙が出そうになった。

 今の彼は、何の計算もなく裏表もなく、私のけがをただ心配してくれるのだ。それがとてもわかる。

 アリオンは先に床の高い小屋に昇ると、片手で私を引っ張り上げてくれた。そうか、この種族は、直立二足歩行をしてはいるが、現代で言えばオランウータンのような樹上性の能力を発達させてきたのだ。片手だけで、自分の身長近くある高さをさっと登ってしまう。子供も女も、みんな腕は凄い筋肉だ。

 アリオンは、私の手の傷をまず水でよく洗い、何回も何回も丹念に見て汚れを取りながら、最後に数種類の薬草を石の板の上でよく練り上げたものを塗りこんだ。なんかいい香りがして、いい感じだ。もちろん最新の医療キットも持ってきてあるが、今回はこれで様子を見よう。アリオンは傷の大きさをもう一度確認すると、それを木の葉と皮で上から巻いてくれた。するとアリオンは私に言った。

「イケナミ、おまえホプキンスの友達だな」

「そうだ」

「じゃあ、火をつけられるか?」

「もちろん! まかせてくれ」

 私は、中央広場に出た。さっきアリオンが持ってきた獲物がすっかり解体されて、大きな葉に包んである。その獲物を埋めた穴の上に薪をみんなでのせている。蒸し焼きだ。

「はい、みなさん下がって下がって…」

 私はデイパックの中からサバイバルライターを取り出し、火をつけた。

「わあっ!」

 珍しそうに集まって覗いている村人たち。みんな笑顔で楽しそうだ。やがて炎を囲んで楽しい宴だ。

 そのうち、男たちが一人、また一人と帰ってくる。

「ホプキンスの友達だって?」

 今、村のリーダーになっている立派な男性のネアンデルタール人が帰ってくる。その姿を見た私は目を丸くした。

「ま、まさか…」

 あんたはヘクトールかい? と言いたかったが、なんか時系列がおかしくなりそうでちょっとこらえた。ホプキンスと一番仲が良く、並んで映像に写っていたヘクトールに間違いなかった。でもあの時より、体はさらに大きくなり、さっきのアリオンより全体に一回り以上大きい。そして、その見事なゴールドネックと言ったらほれぼれするようだ。

 しかもシェパードの胸に刺さっていたのとどう見てもそっくりな石斧を腰からぶら下げている。これってどういうことなんだ。

 見た感じでは、あれから2、3年経過しているように思えた。

「私は、ホプキンスを探しにやってきたイケナミと言います。よろしくお願いします」

「ホプキンスは実にいいやつだった。食べ終わったら話してやろう、まずは、一緒に食べよう!」

 獲物のある者、ない者は関係なく、みなで分け合って楽しそうに食べる。大きな葉の上に、肉、焼いたオクラに似た野菜やダンゴのようなものをのせて食べるのだが、これが意外とうまい。それから驚いたのは、彼らの作ったフルーツ酒だ。やしの実の殻をコップ代わりにして飲むのだが、すっきりしていて、結構いける。

 ふふ、ブルコス会長、グルメ日記行きますよ。彼らはきっと夏の間に、海藻ごと藻塩を集めて皮袋にため込んでいるのでしょう。海藻のうま味の入ったあっさりした塩味が素材の味を引き出しているのでしょう。実は肉類、野菜、ダンゴとバランスもとれていてなかなかのものですよ。酒も行けます、星3つかな…。

 やがて、村のあちこちで植物の汁をしみこませた草のようなものを燃やしはじめる。虫よけだという。ツリーハウスなので、風通しもよく、これでさらに快適度アップだ。

 みな腹もいっぱいになり、酒も回ってくると、大きな木の枝を使った木琴のような楽器も出てきて、楽しそうに踊りだす。柔らかく自然な音で、聞いていてなかなか癒される。

 夜の間はこの広場で男たちが順番に火をともし、獣たちを警戒しているようだ。

 私は、アリオン、ヘクトール、その他の数人の男たちと火を囲んで話し合った。

 降るような星空の下、ジャングルからは虫の大合唱、時々はるか遠くで大きな獣の声がする。日常会話は何とか通じるものの、ホプキンスの物語となると、ジェスチャーも交えなかなか難しい。

 何時間もしてつかんだ話の筋はこうだった。

 ホプキンスは二年前のある日、ヘクトールに連れられてこの村にやって来て、いくつかの奇跡を起こし、みなと仲良くなった。だが、ある日、ヘクトールと二人で狩りに行った帰り、戦いの好きな何人もの男たちに襲われた。強いヘクトールは奴らを打ち負かしたが、小さなホプキンスは、逃げたまま行方不明になった。

 私が察するに…たぶん、ホモ・サピエンスの部族に襲われたのだろう。そしてホモ・サピエンスの村に連れて行かれたホプキンスは、リアルイブに出会い、エデンの書を書き上げるのである。

 こうして話をしてみると、彼らは賢く、聡明で、しかも何より困っている人間に優しい。人種とか別の種とか、一体どういうことなのだろうと考えさせられた。でも私は、次の日から、現代人とネアンデルタール人の種としての大きな違いに出会うことになるのだ。


 プラド捜査官は、午後からのペネロペとの約束の前に、早朝からまたタイムドームに来ていた。例の石斧の件についてどうしても確かめたいことがあったのだ。

 さまよえるネアンデルタールは実在しないコンピュータのプログラムだった。館内を歩き回っていたのは、それを追いかけていたペネロペだった。だが、ホプキンスが帰ってこなかったときは、確かに盗難があった。つまりは一度だけ外部の侵入者の犯行に見せかけ、誰かがデータ室にマスターキーで本当に侵入し、プリントアウトされたエデン文書を盗んでいったのだ。

 その時のデータ室周辺の監視カメラ映像は残念ながら残っていない。中央管制室と来賓席の人の動きをもう一度チェックしなおす。

「ううむ、ペネロペ以外でこそこそしている人物はいない。だが…」

 だが、この映像には、最初から最後まで映っていない人物も何人かいる。マスターキーを扱える重要人物の関係でこの画面にいないのは…。まずブルコス会長、アイリーンもいない。まあ、ブルコス会長は現場の仕事には直接関わっていないから当たり前か? それからあのホプキンスのライバルニューマン博士もいない。そういえばあの博士は、いつもフラッと現れてフラッと去ってしまう。いつもどこにいるのだろうか。さらにアルフォンス社長はずーっと映っているが、考えてみれば、お連れのザ・モンスター、ガルシアは一度も映っていない。ロビーで待っていたと言われればそれまでだが、どこか違和感がある。もう一度このあたりから確認してみるか。

 まず、ゲートの受け付けに連絡して、ブルコス会長の所在を確認する。現在、第二応接室で接客中だが、そろそろ終わるころだと聞いて、応接室に向かう。

 到着すると、ちょうどブルコス会長が、客を送り出すところだった。プラド捜査官は邪魔にならないようにさっと柱の陰に身を寄せて、客が帰るのを待つことにした。その時ドアを閉めながらブルコスが客と話す声が聞こえてきた。

「…つまりホプキンスは、結果として、全人類を敵に回すような行為に及んでしまったわけですね」

「彼のあの悲惨な過去を考えれば、致し方なかったかもしれません。彼は18万年前の世界で自分でも予想だにしなかった体験をしたのでしょう。すいません、結局、何の解決策も出せなくて。でも、その時が訪れたら、できうる限りの協力を惜しみません。くれぐれも、時間倫理委員会に知られることのないように…」

「はい…。心して対応します」

 そして二人は、プラド捜査官のすぐ前まで歩いてきた。捜査官と目が合うと、いつも陽気なブルコス会長は珍しくまじめな表情で、捜査官に挨拶をした。客はサングラスの落ち着いた中年だった。指に大きな琥珀色の指輪をしている。

 彼は確か…? ペネロペの雇い主のエージェントKか? だがサングラスの男はプラド捜査官を避けるようにさっと帰って行った。

 さてブルコス会長は、今度はプラド捜査官を迎え入れると、なぜか、こちらの質問には全く答えず、新しく発見したチーズケーキだと肉まんのような丸い不思議なケーキをしつこく勧める。あれ、まだまだ今週の星占いは続くのか。食べ物に見とれていると運をのがすとあった、冗談じゃない。でも、あまり言うので食べてみると、これが本当にうまかった。特大のチーズ味のマシュマロの中に、濃厚で癖のないチーズクリームが入っている。そこにメイプルシロップとリキュールのソースをかけて食べるのだ。

「え?! いけますね、これは。甘ったるくないし、濃厚なのにさっぱりした味ですね」

「そうじゃろう、そうじゃろう」

 ペネロペにもブルコス会長にも、いつも食べ物でペースを取られてしまう。今までこういうグルメ人種たちとは関わりがなかったので、毎回苦労する。

 やっとのことでブルコス会長から聞き出したことは、

「わしゃ、みんなも知っている通り、広報官アイリーンとともに、放送スタジオにおったな。あそこはなかなか眺めもいいんじゃよ。ハハハ」

 アイリーンにも確認したが、たぶん間違いはないという。なんだか、タヌキおやじにしてやられた感じだ。さっきの客との対話はいったいなんだったのだろう。

 次にニューマン博士のバイオラボに向かう。中ではニューマン博士が、何人かのタイムシークの隊員を集めて、なにやら打ち合わせをしている。プラド捜査官が行くと、さっと話をやめ、ニューマン博士がこちらに黙って歩いて来る。用件を伝えると、ニューマン博士は隊員たちに待つように言って、隣の小さな実験室にプラド捜査官を誘った。みな今回の転送からは外れたが、池波たちよりずっと順位の高い優秀な隊員ばかりだった。

 こちらの部屋には最新のいろいろな機器が並べられていて、壮観な眺めだ。

「打ち合わせ中なので、すぐに終わらせてくれ」

 どうやら今日もご機嫌がすぐれないようだ。時間企画会議寄りの隊員たちを集めて、何を話していたのだろう。こちらの用件を言うと、こんな答えが返ってきた。

「ははは、何を言ってるのかな。私は、エンジニアでもないし、現場スタッフでもない。私の仕事は、主に現地での研究のサポートと、持ち帰ったデータの分析だ。転送時にドームの見物席にいる必要はないんだ。いつもここのラボから、モニターで見てるよ」

 予想通り、取りつくしまがない。プラド捜査官もあきらめて帰ろうとした時だった。

「おや、こ、これは」

 プラド捜査官は、その最新の機器が並ぶ部屋の片隅に何かを見つけたのだった。

 最初は全くそれがなんだったか、思い出せなかった。ただ、何か重要なものだったようにピンときたのだ。

「ちょっと失礼します」

「急に、一体なんだね」

プラドは部屋の片隅に積んであった真四角の大きな箱に向かって歩き出した。

「n3」と書かれた不思議なロゴのようなものがある。そうだ、これは、カルメンセレクトの片隅に載っていた。謎の箱だ。

「ニューマン博士、この箱はいったいなんですか」

 すると博士はそっけなく言った。

「最新の3Dプリンターだ。受注生産だから知られてはいないが、特に珍しくもないがね。」

 ああそうですかと引き下がってしまえばそこで終わっていたかもしれない。でもプラド捜査官は、持ち前のポーカーフェイスで食らいついていた。

「n3の3は3Dだとして、nは何でしょうね」

「そんなこと、ネイチャーかなんかだろう。一般用の樹脂やプラスチックだけでなくて、自然素材なんかも対応してるんだ…」

 その言葉を聞いた瞬間、物静かなプラド捜査官が、珍しく握りこぶしを振って、瞳を輝かせた。

「そういうことだったか…!」

 プラド捜査官は怒鳴りだしたニューマン博士におかまいなく、四角い箱や中身をデジタル映像に記録し、部屋を出て行った。

 そして、すぐにペネロペに連絡を取った。

「…うん、うん、だめもとで結構だ。調べられるだけ調べてみてくれ」

 そして、高速鉄道の時間に間に合うよう、急いで移動を始めた。


 セキュリティパスと交通網のシステム化が進んでヨーロッパ周囲の移動が画期的にスピーディーになってきている。一度も途中駅に停車せず、車両ごとに別々に目的地まで行けるシステム高速鉄道も便利だ。プラド捜査官のように国から国へとどんどん捜査を進める場合などは、マルチ交通システムをよく使っている。大きな荷物なしで手荷物でよければ、高速鉄道や高速バスが直接空港の旅客機のすぐ横まで客を運ぶ。そのまま部屋を移るように飛行機に乗り、その間の荷物や身体チェックはゼロ、乗り換えやロスタイムなしに目的地までまっしぐらだ。

 特に国際警察機構に勤務するプラド捜査官はセキュリティレベル4を持っているので、わずらわしい手続きは一切なく、簡単に目的地まで飛べるわけだ。

 アルフォンス社長のインフォセレクトの大企業、メタトロン社の本社は、イタリア北部の新開発都市の中心にある。ここは新交通網の実験区域で、自転車用の道路が完備され、普通の自動車はなかなか侵入できない。中心部へは、電気自動車か燃料電池車で、しかも自動運転システムに対応した車種でなければ入ってはいけないことになっている。

 だから、中心部も緑に囲まれ、とても静かで、空気もきれいだ。

 プラド捜査官は空港から無人タクシーに乗って、約束の場所まで走って行った。さすがイタリア、タクシーとは思えない斬新なデザインであでやかな原色の車体が街に映える。

 クレジットカードを入れて、あとは36か国語に対応した音声ガイドが案内してくれるので、ストレスもない。渋滞もほとんどない。忘れ物をしてもカメラがすぐに見つけて、音声で対応してくれるので心配もない。プラドは配信で取寄せた、プリンターのカタログを移動中にずっと読んでいた。気が付くともう到着だ。

「あら、時間ピッタリね。まるで日本の列車みたいね。」

 約束のホテルのロビーに今度はかなり早くからきていたようだ。ペネロペは今日は、おとなしい落ち着いたシックなコーディネイトで出迎えてくれた。

「おや、今日はいやに地味な感じじゃないかい」

 するとペネロペがうなづいた。

「今着替えたばかりなの。どうしてかって、ほら、お向かいメタトロン社を見てよ。真っ赤なドレスじゃとってもいけないわ」

「え?」

 それは、最新の高層ビルのようでもあったが、その外観が協会の大聖堂のようなのだ。重厚な色と装飾、特にあちこちにデザインされた見事なステンドグラスが厳かな雰囲気を醸し出していた。しかも、隣に巨大な屋内型の遊園地があるのだが、そのハートピアの入り口に飾ってある楽しそうな看板には、アトラクションの「空飛ぶノアの方舟」と「海が割れる、モーゼライド」の絵が飾ってあるのだ。

「なんかすごく宗教関係の施設みたいだけれど…」

「つい最近まで、見落としていたんだが、メタトロン社は名前は科学的だけれど、保守系のビッグカンパニーだ。確か契約者の70パーセントは敬虔なクリスチャンのはずだ」

建物に近付きながら、くやしそうな顔をして、ペネロペが付け加えた。

「…ああ、すぐに気付けばよかった。そのメタトロンっていうのも、聖書に或る天使長メタトロンからとっているみたいよ」

 その大聖堂のような大きなビルの前に立ったとき、プラド捜査官の予感は確信に変わろうとしていた。

 高い天井、静まり返った受付、いったいこれが大企業のロビーなのか? 大理石の廊下を歩き、厳かな受付嬢に捜査のためのアポを取ってあることを告げるとしばらくして大きな足音が近付いてきた。

「申し訳ございません。只今、メタトロン社の専属インフォコーディネーターの全国会議がこの奥で行われているのですが…」

 身長2メートルのガルシアは、その大きな体を縮めてひたすら申し訳なさそうに話し出した。プラド捜査官は、その話に割って入った。

「もしかして、ネアンデルタール人の報道関係でもめているのではありませんか…。」

 ガルシアは感心したように言葉を続けた。

「ほう、さすがに捜査官、カンがいい。まだ議題の半分も終わっておりません。それで、まことにすみませんが、2時間ほどお待ちいただけませんか。よろしければ隣のテーマパークで時間でもつぶしていただけると…。」

 プラド捜査官は、ガルシアから飲食代込のワンデーパスポートを二人分もらい、ペネロペと一緒に隣のテーマパークに入って行った。

 大きなドーム球場のような施設の中は一年中快適だ。乗り物コーナーの手前には、古いイタリアの街並みを模したお土産ストリートやイベント広場、美しい噴水を囲んだ屋台コーナーもある。

 グルメで知られるアルフォンス社長の関係だから、食べ物もかなり力が入っている。ここの屋台だけにしかない、プレミアムミートパイやスシロールや、シーフードカップなどはファーストフードとも思えない逸品だ。でもペネロペは可愛いカップに入ったストロベリーポップコーンをさっそく買って、それを片手に、ときどきわけもなく、プラドにしだれかかってくる。はためから見れば、捜査官の二人連れには決して見えないだろう。したたかな戦略だ。

「ねえ、奥に行きましょうよ。ほら、そこに乗り物コーナーのゲートがあるわ」

 プラドは彼女を無視することに決めて、テキパキと動き回る。

 まずゲートのすぐ手前にあるインフォメーションシアターに入る。ここでは膨大なチャンネル数を持つ、保守系のメタトロン社のセレクトニュースがすべて視聴できる。もちろんセレブ向けから、マニア向け、電子知能セレクトからコーディネーター体験まで様々あるのだが、ためしに一番人気の一般大衆向けニュースセレクトを体験してみる。

 まずテレビ系の短く編集された総合映像がふたつ、世界中のネットから厳選されたネットニュースや動画が20ほど自由に選べる、さらに新聞と今日発売の雑誌の項目ピックアップが3つ、スポーツと映画のコーナー、その他特別なニュースがふたつと言った具合で、最短15分ほどで、無駄なく情報の全容が把握できる。もちろんおすすめの番組や動画、配信映像などを全部みていれば、数時間はしっかりと楽しめる。特徴としては、やはり、有名な神父のお説教やゴスペルなど宗教的なコンテンツがいくつも含まれている。

 そして最後に誰もが知ってるメロディにのって、有名な言葉で締めくくられる。

「メタトロン社は皆様の知性に情報を、心に安らぎをお届けします」

 なるほど、自分たちが相手にしていたのはこういう団体だったのか…!

「ねえ、ユーリ、私あれとあれに乗ってみたいな」

「もちろん…うん?」

 ちょっと待て、ユーリと言われてすぐ返事をしてしまったが、ユーリは誰にも知られていないはずの子供の頃の愛称だ。きっとこの女、特権を利用して、自分のことも洗いざらい調べ上げてあるんだろうな。これって、自分に対する一種の圧力か?

「ねえ、ユーリ、ほらこっちこっちよ」

 最初はノアの方舟だ。これはよくあるスイング式の海賊船の豪華版、ロボットコーナーや3D映像がついているという。入り口に並ぶと、なんでノアが方舟を作ったかの説明映画が流れるのだが、これがまたよくできていて、並んでいる間も飽きさせない。大きな船に乗り込むと、百種類以上のいろいろな生き物のオスメスのペアのロボットが船室で迎えてくれる。見た目も凄いが、お茶目に動いたり話したり、大洪水に関する質問にいろいろ答えてくれる。電子知能の発達は素晴らしい。聞くたびにユーモアたっぷりの質問を返してくれるし、リアクションの動きもいくつもあり、飽きない。子供向けだが、なぜかかわいいとペネロペに大うけだ。最後に大画面のある映画館のような部屋に何十人も入ると、船が少しずつスイングを始める。そして、目の前の大画面には大雨、雷、洪水の3Dスペクトル映像、やがて揺れが激しくなってくると、場内は暗くなり、画面は大嵐の海のようになっていくつも波が迫ってくる。揺れは最大となり、あちこちで悲鳴が聞こえる。プラドも、予想以上の迫力とスイングにしてやられた感じだ。やがて揺れが収まり、ハトが希望のオリーブの枝をくわえて、飛んで帰ってくると、場内が明るくなり、アトラクションは終わりだ。ペネロペは大喜びだが、プラドは船のスイングに少しばかり気分が悪い。

「まだあとひとつは乗れそうよ」

 水面がふたつに割れた中に飛び込んでいくというモーゼライドは行列が長かったので、もうひとつのエデンライドに乗ることにした。

 流水に浮かんだ小さなボート型の美しいライドに乗ってひたすら流れていくらしい。なぜか全部ふたり乗りだ。乗ってすぐに真っ暗な水路をしばらく流れるところが、カップルに人気らしい。また何を考えているのか、そうすることが礼儀だと思っているのか、暗闇の中でペネロペがしなだれかかってくる。プラドはもちろん微動だにせずそのまま進んでいくと、やがて天井から光が差し込み、物語が始まる。

「…ばか…」

 突然ペネロペがつぶやく。やがて美しい音楽に合わせて、少しずつ少しずつ、水路のまわりに世界が出来上がって行く、空が、海が、大地が生まれ、命が芽生え、命があふれ、七日をかけて世界が出来上がり、そこに美しい森が現れる。

「ああ、いい香りがする、うわあ、本物だぞ」

 どうもここは本物の植物園になっているようだ。美しい花畑、珍しい不思議な植物たち、乱れ飛んでいるのは、本物の蝶、清らかなせせらぎと光る宝石のような川の砂利…。

「キャー、蛇だわ」

 精巧な蛇のロボットに導かれ、奥に進めば、美しい庭園の中心に、光る大きな赤い木の実が…。

 禁断の赤い実、謎の蛇、そして、アダムとイブは楽園を逃れていく…。人間は何を手に入れ、何を失ったのだろう。プラドは、今頃ネアンデルタール人の森にいるであろう池波を遠く思っていた。

 やがてふたりはエデンライドを降りる。出口は大きな鏡となっていて、プラドとペネロペが並んで近付くと、美しい植物園をバックにしてまるで自分たちが楽園を逃げてきたような錯覚にとらわれる…。

 ふたりはそのまますぐ横にある、小さなカフェショップに入る。緑に覆われ静かなたたずまいの「楽園カフェ」だ。ここはパスポートを見せて中に入るとフルーツやおしゃれなケーキ、ソフトドリンクが食べ放題飲み放題の食の楽園でもある。

 ペネロペはチャッカリ飲み放題のワインとフルーツを楽しんでいる。

「うわあ、なんて新鮮なフルーツなの。おいしいわ」

 はしゃぐペネロペ。プラドは構わず話を始めた。

「実は、リアルイブプロジェクトの計画段階の議事録をちょっと当たってみたんだ」

「ああ、アルフォンス社長が入ってる時間企画会議の方ね」

「ちょうどその前のダイナソーアイプロジェクトが大成功をおさめた後で、委員たちはみんな乗り気だった。確か最初はミッシングリンクを探そうと言うので盛り上がったが、じゃあ、どの時代に行けばいいのかということで、いくつもの案が出された。最終的には、400万年前の最初の直立二足歩行の初期人類か、もっと確実に転送できる、ホモサピエンスの始まりかで決定されることになった。それでニューマン博士たちのミトコンドリアDNAを遡るリアルイブが投票の結果採用となったのだが、最後まで反対していたのがアルフォンス社長だ。せめてイブの名前を外してくれとね」

「…そうね。リアルイブプロジェクトの結果によっては、聖書の内容とどこか違ってくるかもしれない。さっきのエデンライドも台無しね。下手をすれば、メタトロン社は、かなりの顧客を失う可能性があったかも…」

 恋人気分ではしゃいでるように見せているが、話はすべてきちんと頭に入っているようだ。

「もちろんそれだけでは、直接の動機にはならない。なぜかと言えばその後、アルフォンス社長はプロジェクトチームと和解し、計画は何のわだかまりもなく実行されることとなったからだ。ただし、議事録にはなんで社長が最終的に認めたのかは記録されていない。ただ、一度はそれで収まっていたのだが、どこかで歯車が狂い出したのだ。もしも、社長の予想外の何かがプロジェクトの途中で発生したとしたらどうだろう。」

 それだけを聞いてペネロペはすべてを察したようだった。

「リアルイブプロジェクトなのに、なぜかホプキンスは偶然、ネアンデルタールの村に行ってる。今度の池波だって、同じ経路を行くように計画されているわ。それって偶然だったのかしら」

「わからない、だが、リアルイブプロジェクトは、ホプキンスが過去に渡ってから、どうも何かがおかしい」

「なるほどね。人類学者のホプキンスは、過去でなにか余計なことをしでかしたわけね。そういえば…」

「そういえば、なんだい?」

「私の今回の雇い主のエージェントKが言っていたわ。今回は最初は単なる殺人事件で終わると思っていたら、とんでもなく手に負えない代物だってね」

「とんでもなく手に負えない代物? そうか…、実はここに来る前…」

 プラドは今朝のブルコス会長のことをペネロペに話し始めた。だが、その時、ガルシアから連絡が入った。

「長々とお待たせいたしました。今やっと会議が終わりまして。社長がお会いになると言っております」

「了解いたしました。只今そちらに向かいます」

 プラドとペネロペはふたりで楽園を後にすると、派手な無人タクシーの走る街中に出てきた。

「ええっと、昨日電話で調査を頼んだ件だけど」

「ええ、あなたの予想通りよ。裏は取れたわ」

 そして、厳かに階段を上り、巨大な礼拝堂へと乗り込んでいった。


「あ、寝過ごした!」

 涼しくて寝心地のいいツリーハウスで目を覚ますと、もうネアンデルタールの村は動き出していた。

 私が寝ていたのは偶然空室になっていた小さなツリーハウスだったが、枕元にはもうすでに、朝ごはん用のフルーツがいくつかおいてあった。

 昨夜は大きな獲物があったのでみんな一緒に食べたのだが、基本的には、彼らは家族中心で行動するらしい。

 フルーツを片手に、自動カメラをオンにして広場に顔を出す。そうすると、あっちの小屋からも、こっちの小屋からも、朝ごはんを済ませた家族がどんどん出て来る。

 あれ、何か不思議な感じだ。どの家からも、女性と子供たちが出てくるのだが、どの家族も決まってひとりかふたりの生まれたばかりの赤ん坊を連れている。みんな同じころに一斉に生まれたとしか思えない。

 私はホプキンスの記録をもう一度思い出してみた。そうか、彼らは一夫多妻制の上に、繁殖期が秋と決まっていたのだ。だから、きっと私が来る一か月前にベビーラッシュがあったのだろう。あとあとになってわかるのだが、彼らはヘクトールを家長とする、親族の集団だった。つまり、彼らはヘクトールのたくさんの妻たちの家族や子供たちだったのだ。そこがホモサピエンスとは何かが根本的に違う、しかしとても家族的で幸せな村であった。


彼らは皮の加工がうまく、いろいろな袋や狩りの道具、そして寒い時期のための毛皮なども手作りしているが、基本的にパンツをはかない。でも全くいやらしく見えないのは、繁殖期ではないからだろう。

 私たち現代人は、のべつ幕なしに繁殖を行っていて、星座占いとかできるわけだけれど、全員春生まれの彼らの間では星占い師は食べていけないだろう。

「イケナミ!」

 アリオンが声をかけてくれた。フルーツは、おいしかったかと聞くので、とてもうまかったとお礼を言った。

 アリオンは私の傷口の具合を見て、あと数日でよくなるから、それまでうちの家族と一緒にいればいいとのことだった。その言葉に甘えて、彼の4人の妻と子供たちと一緒に行動することにした。獲物の大群が近づいて来る時期や、獲物が減って海に降りる夏などを除いて、彼らの行動パターンは決まっているようだ。午前中に近くの森で、果物や水、その他食べられるものを女性中心で集めて回る。

やがてアリオンを呼ぶ、たくさんの声がする。このアリオンと同じで村の手伝いに来ているアリオンの家族だ。アリオンの3人の妻と子供たちが呼んでいたのだ。

 アリオン家は、みな仲良く、皮の袋やざるのようなものを持って、にこにこしながらアリオンについていく。今日は小さな川に行くのだという。森を奥まで進むと、一跨ぎできそうな小さな流れがいくつかある場所に出る。

 まずは、アリオンがその周辺をよく見回り、少ししてゴーサインを出す。すると子供たちは、水の中にバシャバシャと飛び込み、水遊びしながら、何かを探しはじめる。女たちは、流れの緩やかなところに行って、まずは水浴び、そして岸辺の草の中を手探りで探し始める。

 どうも、カニや川エビが取れるらしい。ここでは第一夫人のヘラが楽しそうに声をかけながら、みなをまとめている。第三夫人のルイは例の小さい赤ちゃんを連れているので、そうそうに岸に上がり、食器につかう木の葉や食べられる木の実を取り始める。今は、雨期が終わったばかりで、木の実が多い時期なのだという。豊かな森の恵みはあっちにもこっちにもある。

 私は浅い水辺で、怪我のない右手だけを使って、川エビを取ろうとしたがうまく行かない。そうだ、デイパックに、生物採集用の折りたたみの網がいくつか入っていたじゃないか。私は長さ20センチほどの棒を取り出し、ボタンを押した。筒の中に折りたたんで入っているアルミ合金とアラミド繊維で作られた網がシャキンと飛び出してくる。水中用の流れにまけないがっしりした網だ。

「うわあああ!」

 子どもの歓声があがる。網を使って川岸の水草をガサガサとこすると、ヤゴやら川エビやら、いろんなものが一網打尽だ。すると、子供たちが集まって来て、食べられるものだけ選別してくれる。私が網を入れるたびに歓声が起こる。私もなんとか面目躍如だ。子供たちはそれぞれ自分の皮袋にたくさん獲物を入れて大喜び。

 ひとりの男の子が、あっちに行こうあっちだと、私を誰も行っていない方へ誘う。だが、進んでいくと、突然のうなり声、やばいと思って岸辺の藪を見ると、現代で言えばコモドドラゴンのような、オオトカゲがいるではないか! メガラニアの仲間か、5m近くある。私は、しまった、例の杖は荷物の所だと一瞬パニック状態、でも私を連れてきた男の子は、迷わずカン高い声で助けを求めた。オオトカゲはうなり声を出して口を開き、長い舌を出し入れしながらこっちに動き始めた。ちきしょう、こうなったら、魚取りの網で一時しのぎだ。でも私が手アミをへっぴり腰で構えるより早く、アリオンが、目にもとまらぬ速さで駆けつけると、、槍を突き立てた。

(グルルルル…)

 大トカゲは、唸り声を上げながら反撃したが、二度、三度と容赦なく突き刺さるアリオンの槍に、最後は逃げていった。アリオンの父親としての威厳はさらに高まり、みな何事もなかったように、食糧探しを始めた。彼らは、こんな感じで家族で動き回ることが多いようだ。仲もとてもよい。

 それを見ていた第二夫人のマリが、第一夫人の陽気なヘラの所に行って何かを話し出す。

「ようし、帰るよ」

 ヘラの一言で、みな楽しそうにはしゃぎながら、村に戻りだす。

 彼らは、とにかく、獲り過ぎはしない。獲り尽くせば自分たちが後で困ることをよく知っているようだ。もう今日は十分取れたので、早めに帰ろうということなのだろう。

 アリオンがまた先頭に立って、槍を構えながらの帰路だ。子供たちは今度は、小枝や枯草をどんどん拾いながら歩いていく。やがて村のすぐ近くまで来ると、アリオンだけ離れて、一人で狩りに出ていく。女や子供と安全な村に帰った私は、またせがまれて火を起こす。帰り道に拾ってきた小枝がどんどん燃え上がる。すると、子供たちがどこにおいてあったのか、平たい大きな石をいくつも持ってきて、火の中に入れる。やがて熱くなった石の上で、例の海藻の塩をふりかけカニや川エビを焼くのだが、これがたまらなくいい匂いだ。私もわけてもらったが、香ばしくて、本当にうまい。甲殻類の石板焼き、これもブルコス会長に行ったら、よだれもんだな。

 午後は女たちは、木の実や野生の芋のようなものを石の上で磨り潰し、主食の一つである団子づくりや、細かい手仕事を始める。子供たちは安全な村の中で、結構楽しそうに遊んでいる。

 やがて、夕方が近付くと、ヘクトールと血のつながりのある若い男たち、この村の若い狩人たちがひとり、またひとりと帰ってくる。獲物は取れたり取れなかったりだ。

 ほほえましいのは、男たちが帰ってくると、必ず子供たちが寄って行き、遊びだすことだ。狩人も疲れているだろうに、子供をおんぶしたり、一緒に相撲のようなことをしたり、とても楽しそうだ。それをほほえましく見守る母親たち、なんか、幸せ感いっぱいだ。

 そのうち、アリオン家の二人の子供が、好奇心のまなざしで私の所に来る。私も今はアリオン家の一員だから、子供と遊ばないとな。男の子のトールとレイだ。トールは第二夫人の子供で、レイは第三夫人の子だが、同じ年の春に生まれたらしく、双子のように似ていて、仲もいい。二人は、現代人で言ったら小学生の低学年ぐらいか?

 さすがにオモチャは持ってきていないので、近くにあった木の実を拾って、おはじきのような遊びをして見せたら、結構受けた。子供たちはうれしくなって、近くの茂みから、いくつも木の実を集めてきた。ためしに数を数えてみた。

「1、2、3、4、5…」

 すると驚いた、彼らの言語に、ちゃんと数に関する言葉があり、自分たちの言葉で数えだしたのだ。本当かどうか、今度は最初に5つの木の実を並べ、逆にひとつひとつ減らしていく。そうすると間違いなく、反対に数を数えている。しかも驚いたことに、何もなくなったときに、「ノウル」という彼らの言葉を必ず言うのだ。それってゼロのことなのか? この18万年前の彼らにゼロの概念があったということなのか? それがなんとなくわかったのは翌日だった。

 私と一緒に行くと川エビがたくさん取れるとか、いつでもすぐ火を起こしてくれるとか評判になったらしく、あちこちの家族が気軽に声をかけてくれるようになった。

 すると、あの村のリーダー、最高のゴールドネックのヘクトールが私に声をかけてきたアリオンより大きくて魅力的なリーダーだ。何でも、「ノウル」の儀式があるのだという。ゼロの儀式? なんだろうと思って、付いていくことにした。村を離れてしばらく行くと、小さな森の小道が二つに分かれていた。するとヘクトールが話しかけてきた。私に道を教えようとしているようだ。

「ここを左に行くと、ジーゴのいる岩場に出る。気をつけるといい。」

 ジーゴとは、私もまだ見ていないがその身振り手振りからすると、どうもサーベルタイガーのようだ。見たいような、恐ろしいような。

 意外なことだが、彼らは基本的に一人で狩りをおこなう。ヘクトールのような村のリーダーも、まだ家族を持てない若い狩人も1人で狩に出る。獲物の大群が近付いた時は別らしいが、力を合わせて、がっぽり獲ろうなどとは思わないらしい。一人一人のゴールドネックが、家族の食べる分だけを毎日狩り、余計に取れればみんなに配る。一人一人が家族の生活を守るため働く孤独な狩人なのだ。だから男は一人残らず、村の周囲の道をきちんと覚えなければいけない。私も、新しい仲間として教えを受けたわけだ。なぜかうれしい。

 すると、さらにヘクトールが私に聞いてきた。

「もしも、森の分かれ道でどっちに行ったらいいかわからなかったらどうする?」

「ええっと、どうするかなあ、印をつけて、どちらかに歩き出すかなあ」

「我々はこうする。どちらにも行かない。ここでしばらく待つ。森は私たちを守ってくれる。森にとどまっていれば、死ぬことはない。そのうち誰かがきっと助けに来る」

 何ともおおらかな答えだ。でもそうだよな。砂漠や荒れ地じゃないんだから、あせって動かない方がいいに決まっている。森とはそういう場所なのか。

 そこを右に曲がって、しばらく歩く。すると、人の気配がだんだん近くになってくる。先ほどまでいた村とはかなり雰囲気の違うもう一つの村に出た。村のあちこちに槍や石斧、石のナイフなどの工芸品が並び、勇壮な活気がある。そこには、ネアンデルタール人の男だけが、たくさん集まっていた

 ヘクトールの話では、ここは、若い結婚する前の男たちの寝床で、年老いた長老たちに狩りや獣のさばき方を習い、共同生活をしているのだという。村の男たちが狩りに出かけた後の村の警備も交代でこの若者たちが村に来てやっているそうだ。若者たちはここで腕や力を磨き、村に帰って来て、若い娘を勝ち取って、またハーレムを築くのだろう。

 だが、今日は何か雰囲気が違う。どうやら、年老いた長老の一人が、その天寿を全うしてその生涯を終えたらしい。

 長老に血縁の者が小屋の前に出された遺体を取り囲んで、嘆きの声を上げている。遺体は愛用していた毛皮がかけられ、その周りにはたくさんの石の矢じりや、骨の工芸品がいくつも並べられている。きっと腕のいい狩人だったのだろう。少し離れたところで若者たちが石器や木のヘラを使って、墓穴らしきものを掘っている。よし、私に任せろ、チタン合金の折りたたみスコップの威力を見よ!

「おう、イケナミ、凄いな。感謝する。」

 ヘクトールにそう言われると、素直にうれしい。でも照れる。

 私は汗だくになって、土を掘り、みんなと協力して遺体を運び、彼の遺品を入れた。するとみんなが近くの茂みから、きれいな小枝や花や木の実をたくさんかぶせた。遺体のまわりは小さな森のようになった。こうするとここからまた大きな木が生え、森が豊かになるのだという。すると、みんなが墓穴のまわりに集まった。村のリーダー、ヘクトールが中心に立ち、儀式の言葉を唱えた。

「…我々は、森に生まれ、森に還る。…ノウル」

 すると全員が繰り返した。

「…ノウル。」

 ノウル、それはゼロをあらわす。今、ひとつの命が消え去った。しかし、何もないゼロではない。森に還る、森と一体になってしまうことだった。

 そういえば、ゼロを発見したというインドもまた、砂漠ではなく、モンスーン地帯でもあり、森林文化だったのだろうか。ゼロは、目の前からなくなることではあるが、大いなる無限大に、支え合いの循環の輪の中に還ることだったのだ…。しかも、ここで私はもう一度思い知ることになる。儀式はここで終わり、土がかけられ、遺体は森に還るのだが、最後の最後まで「神」は出て来ない。聞いてみても、自分たちの存在を超越するような大きな存在を表すような言葉がない。彼らに神はいないのか? それとも…。

 儀式が終わると、若者たちが儀式のために用意しておいた肉料理がふるまわれ、私もごちそうになることになった。とても食べきれないような大物の丸焼きだった。やはり、藻塩が効いていてメチャクチャおいしい。

 食べ終えると、あっちでもこっちでも、若者たちが、レスリングのようなじゃれ合いを始めた。最初は、まだまだこどもなのかなあと思ってほほえましくながめていたのだが、そのうち、見ているこっちも熱が入ってついつい盛り上がってしまう。

 盛り上がるわけだ、実はこのレスリングは、もうすぐ季節の変わり目に行われる、女性を巡っての命がけの戦いのリハーサルなのだ。時が満ちれば、遠くの村に出かけ、自分の欲しい娘を、場合によってはハーレム全体をこのレスリングで勝ちとって、自分の子孫を残さなければならないのだ。レスリングでまったく勝てなければ、一生独身で、この村から抜け出せずに終わることになる。

 ネアンデルタール人の男は、第二次性徴として、まず立派な赤髭が伸び、急所である首を守る。ここを締められればすぐに決着だ。さらに髭が伸び始めると、体が女性よりかなりがっしりしてきて筋肉が発達し、頭骨は徐々に後ろに伸び、太い首と一体化していく。

 ホプキンスは、一度若い挑戦者がリーダーのハーレムに侵入し、リーダーと本気のレスリングをしたのを目撃したという。そのあまりの迫力に、ぜひ村を上げてのレスリングを見たいものだと書いていた。そのリハーサルを見られるだけでも私は幸せ者だ。

 すると、長老の一人が声をかけ、きちんとした練習試合をしようと言い出した。今日は村のリーダー、ヘクトールもいるので、本番のような緊張が走る。

 まだ髭も生えそろっていない本当の若い子から、第一試合だ。まだふたりともほっそりした子供体形でかわいい感じだが、戦いが始まると、目の色が変わり、凄い気迫だ。

 もちろんネアンデルタール人は素っ裸だから、えりもまわしもなにもつかむところがほとんどない。だから、両腕を前に伸ばして組み合い、タックルやそり投げなどを仕掛けていく。相手を仰向けにすれば勝ちらしい。まだ弱い若者は、首の力が弱いのか、組んでもすぐに首を取られたり、我慢ができなくなったところを投げられそうになる。でも、それをこらえてこらえて何度も立ち向かっていく。

第一試合は、なかなか技が決まらず、長引いたが、最後はあっけなくタックルでひっくり返された。

 私が、ヘクトールに面白いと声をかけると、お前もやるかと切り返された。私は左手の怪我をみせ、とっても無理だと遠慮した。というか、今の第一試合の若者でも、現代人に比べたら上半身の筋肉は凄く、私などにはとても勝ち目などなさそうだった。

 第2試合、第3試合と進むにつれて、髭も生えそろい、みんな頭の形も流線形になり首がゴッツく太くなっていく。最初に組んだ時の音もガシッと、凄い音がする。しばらく首相撲の力比べになり、第2試合は一瞬のそり投げ、第3試合は上手投げで豪快に勝負が決まった。

 第4試合は、相手のすきをついて、片方が相手の首を絞めにかかり、ぎりぎりの攻防が続いたが、結局首を絞められた方がギブアップ、見ている方もハラハラした。そして第5試合は、もう、村にいるハーレムを作っている男たちとあまり変わらない者同士のヤングチャンピオン決定戦ってところだ。組み合っただけで、凄い筋肉の躍動、見ている方が力が入る。一瞬のすきを狙ってお互いに技を掛け合うが、強いもの同士すぐに技を返していく。最後はお互いに大技を掛け合い、もつれて、結局一方があおむけに倒れた。勝負ありだ。すると、大勝負に勝った若者が、ヘクトールに挑戦したいと言い出した。長老はいさめたが、当のヘクトールはさっと立ち上がった。

「いいだろう。かかってこい」

 それから後のヘクトールは何と大きく、強く、偉大に見えたことか。すぐに若者の前に出て行き、身構えた瞬間の威圧感、凄まじい気合で突っ込んでいく若い魂をものとせず、組んだ瞬間に、若者は簡単にひねられ、宙を舞い、吹っ飛んだ。若者は、すぐに立ち上がり、今度は鋭い踏み込みでタックルだ。だがヘクトールはがっしり受け止めると、そのまま横に投げ飛ばした。まったく相手にならない。自信をなくした若者を、ヘクトールは抱き上げて、お前も強くなったなとほめていた。若者は喜んで、ヘクトールにひれふした。言ってみれば若者にとってヘクトールは「神」なのだ。

 人類学者のホプキンスは、凄絶な男同士の争いについて詳しく書いている。実際にはパターンは確認できているところで3通りあるらしい。ひとつ目は、まだ若い娘を自分と血のつながりが薄い群れからさらうのだという。もちろん父親が邪魔をしてくる。その時レスリングで認められれば、たとえ勝利しなくとも、許してもらえるそうだ。もちろん娘があまり嫌がれば成立しない。普段から目を付けて機嫌をとっておくことが大事らしい。

 ふたつ目は、ハーレムごと乗っ取る戦いだ。これは村の中でも実力者同士の場合らしい。この時は、完全に相手を動けなくなるまでやっつけなければいけない。でも老いた父親は、この勝負に負ければ新しいリーダーを祝福し、自らは若者の村に行って、らくらくご隠居暮らしになるのだという。若者は、たくさんの女と名誉を手に入れ、村のリーダーとして働くのである。

 そして、3つ目は、特別な月の特別な夜に開催される格闘祭りだ。それぞれの村で、別の村から来た男たちが集まり、今日のようなレスリング大会が行われ、そのランキング上位者から順に、、好きな娘を選べるのだという。

 現代人とはかなり違う。私がこの村に生まれていたら、一体子孫は残せたのだろうか。まあ死に物狂いで努力して何とか小さなハーレムを持つことができたとしよう。でも、やっとの思いで家族を作っても、うかうかしていると若い奴らに負けて娘もハーレムも持って行かれてしまう。気を抜く暇もなさそうだ。男たちの闘争本能は、この女性を巡る運命の一戦に集中しているせいか、彼らはいつも穏やかで好戦的な部分が全くない。なんというかエネルギーの持って行き方が違うのだ。そのエネルギーは。いかに勝ち残って自分の子孫を残すかということに費やされる。そして戦いが終われば敗者も老体も支え合って生きている。彼らの言葉にも行動にも戦争なんてものはない。彼らの活力は、外側ではなく、群れの内側に向いているのだ。

 ヘクトールは、ごちそうの残りを大きな葉にくるんでもらうと、私と一緒に帰路についた。そして、夕暮れに村に到着すると、それぞれの家族を呼んで、分け隔てなく、みんなにそれを石のナイフで切り分け、配り始めた。もちろん自分はたらふく食べてきたと言って、一口も口にしない。取り分の多い、少ないでもめることも何もなく、みな陽気にそれをもらってにこにこ顔だ。助け合うのも当たり前、分け合うのも当たり前だ。

 私がさすがだと思ったのは、ヘクトールが、長老格から赤ん坊まで、すべての顔と名前を憶えていて、一人一人に名前を呼んで話しかけるところだった。若者たちを入れても100人ぐらいの集団だから当たり前かもしれないが、なんかとてもあったかい。村人同士もみな、どの家に誰々がいると一人一人がわかっていて、和気あいあいだ。その輪の中に入れてもらった私は本当に幸せ者だと思った。そういえば、村人同士がいがみ合ったり、悪口を言っているのも聞いたことないしな…。

 私はその日、安らかに眠りにつくことができた。

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