第1話 セロ爺さんの村
イスタンブールの転送センターからわずか2時間ほどの小さな村に私はたどり着いた。地中海に面した半農半漁の人口150人ちょっとの小さな村だ。十数年来の付き合いの凄腕シェフのオーギュストの紹介だから、きっといい場所なんだろう。おいしいものが期待できそうだ。村の中は観光用自動車などの交通機関の乗り入れが原則禁止なので、私は夕暮れの古びた坂を歩いて上って行った。振り返ると真っ青な地中海と、目の前には果樹園や小さな集落が見える。まるで一挙に百年の昔に来てしまったような感じだ。
「いらっしゃい。ほう、日本人かい。オーギュストの知り合いだってな。大歓迎だ」
丘の上のコテージの管理人セロ爺さんが、案内してくれる。自炊ができるふた部屋のかんじのいいコテージだ。これからしばらくの間世話になる。
「夕食はどうなさる?」
「ああ、今夜は頼むよ。おすすめのもの、なんでも持ってきてくれ。好き嫌いは何もない」
「ほい来た」
爺さんは鼻歌を歌いながらすぐそばの自宅兼管理事務所に消えて行った。
「ふううー」
大きく息をついて、リビング兼キッチンのソファーに体を沈める。窓の外では暮れゆく群青色の地中海が見える。
とにかくこんなことになるとはまったく考えもしなかった。リアルイブプロジェクトは順調に進み、第1号の隊員、カピウス・ホプキンスは、18万年の時を越え、ネアンデルタール人の意外な素顔を明らかにし、さらにイブを、最初の一人の女性を突き止めたのだ。
だが、ホプキンスは帰ってこなかった。事故なのか、事件なのかも定かでない。
帰ってくるはずの日に、転送センターに侵入者があり、盗難事件が起きた。しかも、戻ってきたのはシャトルカプセルだけ…。さらにホプキンスが送ってきた最後の報告書も、何者かによってファイルが壊され、あとかたもない。直前に送ってきたホプキンスの通信文にはこうあった。
「私の神は死んだ、わたしのホモサピエンスも死んだ」
いったい彼の身に何が起こったのか?
カピウス・ホプキンスは、本来、こんな深刻なことを書くような男ではない。フィールド調査を身上とする行動的な人類学者で、丸メガネにちょび髭のどこかユーモラスな人懐っこい男だった。革新的な時間調査企画会議に推薦され、意欲的に報告書をまとめていた。それが、なぜ、一体どうしたというのだ。
私、池波鉄也をはじめ、数十人ほどの控えの隊員は、次の方針が決まるまで、しばらくの間自由待機となったのだ。
私は、選出順位があとの方なので、すぐに招集がかかることはまずあるまいと、この保養地でゆっくり待機としゃれこんだわけだ。
まあ、実は先月まで、18万年前のジャングルで生活するための、サバイバル訓練をやっていて、やっと帰ってきたところだったので、少しゆっくりしたかったのもある。数週間、亜熱帯林のジャングルで、水も食料も現地調達という過酷なサバイバル訓練だったのだ。
「ほれほれ、池波さん、夕食だぞ」
それは無農薬野菜と手絞りオリーブオイルの地中海風サラダ、地元の魚介たっぷりの漁師風のシチュ―だった。セロ爺さんとおかみさんの手作りだそうだ。
「うあー、旨そうだ。やあ、素晴らしい!」
さっそく料理にむしゃぶりつく私に、セロ爺さんが言った。
「ああ、細かいことはだいたい事前に聞いておいたんだが、そのう、インフォセレクトはなにかあるのかね」
「ああ、タイムサーチの隊員のためのセレクトキーがあるんで、モニターと3Dプリンターだけで結構ですよ」
「ほう、そりゃあ、よかった。わしらには何かと操作が面倒でな。ははは」
セロ爺さんとおかみさんは備え付けのマルチモニターと一般用3Dプリンターのリモコンを置くと、戻って行った。
インフォセレクト…。あらゆるメディアが発達し、莫大なデータの蓄積された近未来。人々は限られた日常の中で、いったいどのメディアからどんな情報を得るのが理想的なのか悩んでいた。世界中の新聞が読める環境が整い、テレビもチャンネル数が増え、ネットも刻一刻と新しい情報に更新され、映画も動画もスポーツ中継も街にあふれ、一体どれをどれだけ見るのが効率的で役に立つのかが深刻な悩みになったのだ。
そこで、個人のために新聞、雑誌からテレビ、ネット、その他まですべての情報を個人の要望に合わせてあらかじめセレクトする産業が著しく発達していた。
とはいってもその中身も実に多様だ。
一番簡単なのは、インフォアドバイザー。個人の情報収集のサポート活動から始まり、セレクトニュース、従来のワイドニュースに視聴者に合わせたパーソナルフィルターをかけて配信する、大衆向きのもの。
少し値段が高くなってくると、インフォセレクト、個人の詳細なデータに基づき、人工知能がすべてのメディアからその都度柔軟にセレクトするサービスなんかもある。このあたりになると、同じニュースを何度も見るわずらわしさもないし、知りたいことはすぐに先読みして知らせてくれる。
さらに専門家や富裕層のためには高額な個人サービスがたくさんある。
インフォコーディネートは個人や法人向けに行うちょっとお高いサービスの総称だ。主に世界の5大ビッグカンパニーが行う情報コーディネートで、こちらにはいろいろな専門家が出入りしている。
インフォデザイナーは職業やステイタスに合わせた情報セレクトをデザインし、提案する。
インフォハンターは世界のほとんどの国を網羅し、金融の裏情報、穀物の作柄から大物スターのゴシップまで、他では入手しにくい特別なテーマに合わせた情報を独自の人脈や評定法でセレクトする。
インフォアナライザーとは、検索ランキングや、ソーシャルネットワーク上の人々の傾向などをリアルタイムに分析集計し、全体の人々の傾向を探る。
インフォエディターは、最新の論文や流行の書籍のポイントや要旨を簡単にわかりやすく解説。最近では、ドラマシリーズや長編映画のあらすじ映像も好評。
そして、ニューロシーカー。無意識の行動や深層心理を反映した情報の提案。
ざっと上げただけでもこんなにある。
私の使っているインフォキーは、この中ではインフォデザインの分野に入るもので、隊員として知っておくべき一般ニュースや人類学、自然科学を中心とした最先端の科学ニュースが、短い時間でひと通り掌握できるようにセレクトされている。一時大ブームになったのは、「情報を変えると人生が変わる」というコピーだった。有名人やセレブと同じ情報に変えるだけで、人生も変わるというふれこみで、これが火付け役となって、インフォセレクトが一般的になってきたのである。
もちろん自分で独自に情報をセレクトする達人も全人口の三割以上はいるようだが、最近はマスコミとセレクト企業が互いに相互乗り入れするようになり、状況はますます複雑化している。
翌朝、自分でも驚いた。鶏の声で目が覚めた。そういえば、果樹園の中をニワトリが歩き回っていたような気もする。こんな体験は子供の時以来だ。
窓を開けると涼しい海風と遠い波の音、静かでいい天気だ。
今日はゆっくりして疲れを取ろうと、遅い朝食を済ました後、村に散歩に出ることにした。セロ爺さんに聞くと、海辺の絶景スポットや、観光果樹園、グルメ工房などの場所を教えてくれた。オーギュストも言っていたグルメ工房にさっそく散歩がてら言ってみよう。
丘の上の小道をぐるりとまわり、果樹園を見学しながら、村の中心の方に降りていく。この辺は果樹園も無農薬有機栽培だからか、オレンジや葡萄など数種類の果樹がわざと混ぜて植えてあるうえに、下草も生やしっぱなしにしてあるので、森の中を歩いているような雰囲気だ。ベンチで日向ぼっこをする老人たち、果樹園で働くおかみさんたち、小さな子供たちも一緒にいて、誰もかれも私にあいさつをしてくれる。いつの間にか、オーギュストの知り合いでタイムサーチの隊員だと知れ渡っているようだ。
やがて村の中央広場の方に降りてくると、観光客や保養地の客もちらほら姿を現す。取れたての無農薬野菜や果物を売る露店がいくつも出ている。そしてそのはす向かいにあるのが、この村出身のゼルバというシェフの店「ゼルバキッチン」だ。そしてそのレストランにくっついて建てられている公会堂のような建物がグルメ工房だ。中では村の若い層を中心に、たくさんの人が出入りして働いている。
そう、この村出身の三ツ星シェフにより、料理で村おこしをする試みが十数年前に行われた。
冷凍しても全く細胞の破壊が起こらない新型の冷凍システムや、栄養が壊れない高価なジューサーをドーンと導入し、本格的な村おこしを始めたのだ。レストランで作った高級料理を特殊な皿のまま急速冷凍して届け、温めるだけで盛り付けまでプロ並みのアイスディッシュが最初のヒット作だという。村人とレストランのスタッフで地元の食材を使って、どんどん新製品を開発し、今では出稼ぎや工場の誘致に頼らなくとも村だけで十分やっていけるようになったのだ。グルメ工房の入り口の脇には、工房の売れ筋商品が安い価格で売っている。
「今、一番売れているのは何ですか?」
売り子の村の娘さんが丁寧に教えてくれる。黒い髪、黒い瞳のなかなかのべっぴんさんだ。
「この村の無農薬有機野菜を使った田舎風エビのシチューディッシュと、川や種の栄養まで活かした低温加工酵素野菜ジュースですね」
製品を手に取って、裏側の文字を確認する。
…すべて村人の手作り!おいしい幸せの味…という文句の下にアドバイザーの有名シェフの名前が並んでいる。オーギュストの名前も確かにある。オーギュストはこの村のゼルバシェフの親友で、この村にもたびたび来て製品の開発も行っているのだ。
「へえ、お客さん、オーギュストさんのお知り合いなんですか? オーギュストさんは、それはそれは料理も凄いんですが、一度しゃべりだすと止まらない陽気な方で、すっごく楽しい方ですねえ」
「やっぱりか、あいつはどこに行ってもおしゃべりだなあ」
シーフードがおいしい創作料理のレストランで客とオーナーシェフとして知り合い、いつだったか日本の能登半島のイカで作った魚醤「いしる」を進呈したことから付き合いが深まり、二人で評判の店に通ったりする仲になった。
説明をしてくれた娘さんに礼を言って、その冷凍シチューと酵素ジュースを1パック買い、隣の三ツ星レストランに入る。中では従業員だかお客だかわからないたくさんの村の人がいて、まるで家族のように迎えてくれる。ランチコースを頼むと朝採れたばかりだという地中海の魚や無農薬野菜が次々と出て来る。新鮮なことは言うまでもないが、手搾りのオリーブオイルがたまらないアクセントをつける。おしゃれなのにあったかい、心の通った味だ。
「おや、こりゃあ凄い」
パスタが出たのだが、安いランチコースの値段からは想像できない豪勢なものだった。
贅沢なキャビアのたっぷり入ったさわやかな味のクリームパスタだった。
「う、うまい…幸せだなあ」
するとペトラと名乗る爺さんが話しかけてきた。
「海沿いの養殖場でチョウザメの完全養殖をやっていてね、オシャトラという中型のチョウザメのキャビアがとれるようになったんだ。どうだい、うまいだろう。」
「へえ、キャビアもこの村のものなんですね。道理でこの値段でだせて、しかもうまい。」
私も専門は生物学なので、絶滅危惧種に取り上げられたこともあるチョウザメの養殖にはとても興味があった。こんど見学に行くかな。
すると厨房から大柄でちょっぴり太めのシェフがやってきた。
「池波さんですね。ゼルバです。オーギュストからよく聞いてますよ。繊細な味覚を持つ食通で、特に海鮮料理には目がないと聞いています。ランチコースはいかがでしたか」
うわー、あのおしゃべりのおかげで全部筒抜けだ。
「いやあ、野菜も魚も、何もかもうまかったです。味もお店の雰囲気もあったかくて幸せな気分になれますよ。ううむ、キャビアも最高!」
話を聞くと、更に、養殖に時間と手間のかかるベルーガと呼ばれる大型のチョウザメのキャビアも来年から村で低価格で売り出せるだろうとのことだった。ベルーガと言ったら、さらなる高級品だ。これは、またこの村に来るしかない!
明日の夜のフルコースを思わず予約し、すっかり満足してコテージに帰る。
「おお、やったあ」
ここに来る前に頼んでおいた貴腐ワイン「トカイアスー」の高級品がもう届いていた。今夜の楽しみがまた増えた。
私は遠くに海を臨める書斎に陣取ると、タイムサーチ隊員専用キーを使って、今日の分のニュースセレクトをザッと確認した。今日は特に大きなニュースもない。景気は相変わらずいまいちで、戦争や紛争は無くなることもなく、格差社会も相変わらずだ。
そして、タイム転送センターはいまだに沈黙を守ったままだ。
深く知りたいことや、繰り返しや関連記事にも対応しているが、ただ一通り見るだけなら二十分ほどで大量の情報を確認できる。しかしインフォセレクトが発達してから、同じニュースを何回も繰り返し見ることも無くなり、番組の引き延ばしに付き合う煩わしさも無くなり、本当に知りたい、知るべきニュースを効率よくみられるようになった。好きなスポーツの結果はわざわざ調べなくともいつも把握できるし、自分の興味のある雑誌の記事や映画なども見逃すことも無くなった。時間は大幅に短縮され、理解は深くなった。でも、本当に知るべき真実は、近くなったのだろうか?
一通り確認が済むと私は二つのファイルを呼び出し、しばらく集中して独学に励んだ。
一つは行方不明のホプキンスが最初に送ってきた報告書「森の人文書」だ。偶然ホモサピエンスの村でなくネアンデルタールの村に迷い込んだホプキンスの報告書である。ネアンデルタール人がホモサピエンスとは全く違った独自の文化を持ち、豊かに暮らしているさまが実に生き生きと描かれている。
彼らと楽しく行動を共にし、心を通わせるあのホプキンスの人懐こい笑顔が浮かんでくるようだ。
それにしても残念なのは、ホプキンスがネアンデルタール人の村を出て、ホモサピエンスの村に行き、イブを発見した過程を記したエデン文書が失われてしまったことだ。
そしてもう一つは、第一版が出来上がって来たばかりの「ネアンデルタール日常会話集」だ。ホプキンスが収集した彼らのさまざまな会話を、言語解析用のスーパーコンピューターで簡単なテキストにまとめたものだ。彼らには、神も身分の高い低いもなく、みんな対等で、薬草の知識など現代人が学ぶべき部分も多い。この村に滞在中に毎日頑張れば、日常会話はひと通り覚えられるかもしれない。
今日の夕食は、買ってきた村の売れ筋シチューにすると言っておいたのだが、おかみさんがわざわざデザートに採れ立てのオレンジなどの果物を届けてくれた。
「いやあ、おいしそうだ。すみません」
「あらま、そのシチュ―、アルマからかったやつだろ。あんた独身かい? アルマが、なかなかハンサムだって言ってたよ。いいねえ、若い人は…」
この村はみんな顔見知りですべて筒抜けらしい。でも、わずらわしいと言うよりも、なんかあったかい。私は嫌いじゃない。
思った通り、シチューは素材の良さが活かされた素朴な味で、フルーツは最高にうまい。そして、今夜のお楽しみ、貴腐葡萄の高級ワインだ。私は酔っぱらう直前ぐらいが好きで、高級なワインをちょっぴりたしなむくらいがちょうどいい。もともと酒に強いほうでもなく、酔っぱらってしまうと、せっかくの酒の味がわからなくなってしまうからだ。
今宵のトカイワインは、限りなく、甘く、深い。
このワインはハンガリーの東北部でカビが付き、水分がとんだ葡萄で作ったワインがたまたま美味だったところから歴史が始まった。ヨーロッパの王侯貴族の中でもてはやされた高級ワインだが、一度カビによって腐ってから熟成させるという変わったワインだ。
「人類も一度腐りきらないと、熟成しないのかな…」
貴腐葡萄のワインを眺めながらそんなことを思う。
暖かい村人と触れ合いながら、ゆっくりと時間は過ぎて行った。
数日後、午前中に海岸で釣りをしてきた私は、午後は予定通り森の人文書を熟読し、ネアンデルタール人の日常会話を練習していた。
ネアンデルタール人は、現代人に比べると寸胴短足だが、がっしりした体格で、当時のホモサピエンスより特に成人男子と比べるとずっと怪力で強かったようだ。ホプキンスの文章の中には、彼がヘクトールと名付けた村の若いリーダーの一人がよく出て来る。ヘクトールは背も結構高く、ものすごい怪力で現代の格闘技のチャンピオンでも相手にならないだろうと書かれていた。知能も高く、ヨーロッパから中東にかけて広く分布していた彼らがなぜ、ホモサピエンスとの争いに敗北し、滅んで行ったのか興味が尽きない。
するとセロ爺さんがフラットコテージを訪れた。
「池波さん、あと十五分ほどで、お客さんが来るそうだ。なんだか荷物が届いてるよ」
おかみさんが二人のスタッフを連れてコテージにやってきた。
「お客さん? 荷物? スタッフまで来てる? どういうことだい?」
スタッフは礼儀正しく挨拶をすると、天気の確認をしたうえで組み立て型のテーブルとイスを庭でサッと組立て始めた。いったい何が始まるのか? テーブルや椅子が出来ると、素敵なテーブルクロスが鮮やかに広がり、大きな花瓶に数えきれないような花が咲き誇った。そこにあっという間に食器が並べられ、有名パティシエの手作りケーキと紅茶の用意が完成だ。コテージの庭はいつの間にか素敵な屋外カフェに変身していた。
「やあ、突然の訪問をお許しください。エイドリアン・クロフォードです」
ちょうどセッティングが終わるころ、タキシード姿の意外な有名人が姿を現した。セレクトニュースで大活躍しているセレクトキャスターの訪問に、近所の村人も集まってきた。
飛び込んできた隣のおかみさんがさっそくクロフォードを捕まえる。
「あら、クロフォードさん、今朝も番組に出てましたよね」
「あれ、見ていただけたんですか? 光栄だなあ。ええっとお名前は…?」
さっと握手する有名キャスター。国民的人気のセレクトニュースのキャスターにして、コミュニケーション行動学や心理学のオーソリティーでもあるクロフォードは村人にも大人気だ。あっという間に一人一人の名前を憶え、楽しそうに会話を始める。
「いやあ、うれしいなあ。どうです、おいしいケーキとお茶がありますよ。どうぞ、どうぞ」
いつの間にか大きなテーブルは村人で埋まり、みんなでケーキや紅茶を飲み食いしながら、楽しいお茶の時間になっていた。
クロフォードは、身を乗り出したり、大げさに驚いてみたり、おかみさんや娘さんたちを爽やかにほめまくったり、とにかく会話が止まらない。でも、こんな大物が、なぜ私の所に?
屋外の紅茶パーティーセットは、いつの間にかセロ爺さんの一家に寄贈されることになり、クロフォードはご丁寧にテーブルクロスにサインまで入れていた。ひと通り紅茶パーティーに片がつくと、村人たちはあの花瓶に飾られていた鮮やかな花をお土産に楽しそうに帰って行った
数分後、クロフォードと私はコテージの書斎で向き合っていた。クロフォードと私はもう何度か転送センターで顔を合わせている。転送センターの大手のスポンサーの一人なので、どうも強く出ることができない。
エイドリアン・クロフォード、大物のインフォコーディネーター。ビッグカンパニーの一つメタトロン社でニューロシーカーの高度な機能を備えた人工知能を開発、一躍有名になるが、その後、突然の退社。今は高額の個人コーディネートを行うセレブ向けのインフォデザイナーチームの統率者として知られている。
相手の心を読み取る卓越した心理学者でもあり、陽気で社交的な顔の裏側は、抜け目のない策士だともっぱらの評判だ。
今回、タイムサーチの計画に早くから注目、協力し、大手スポンサーとして基地内にも出入りしている。
「さすがだねえ、池波君。村人たちとうまく付き合っているのがよくわかった。村おこしに関係した施設や観光スポットも全部回ったようだし、短期間でこれだけ村になじむのも、一種の才能だねえ。古代の人類ともうまくやっていけそうじゃないか」
ハンサムで知的で実績がありしかもお金持ちのクロフォードだが、得意の心理学を応用し、この短時間で私の村での行動や人間関係や結びつきなどを細かくリサーチしたようだ。全く抜け目がない男だ。いつもにこにこしていて、大きな声など出したことのない男だが、裏で何を考えているのか全く分からない。
「それで、今日はいったいどのような…」
インフォセレクトの業界の人々は、新聞記者などとは違い、現場に足を運ぶことは極端に少ないはずなのだが…。
「ここに来た理由は2つある。ひとつは、君が近いうちに過去に飛ぶ確率が非常に高いという情報をつかんだからだ」
「それはどうですかね。過去に飛ぶのは今の装置では一人が精いっぱいですけど、私の名簿の順位は8番目だから、ここ数年は無いんじゃないかと…。」
だが、彼は自分の情報に自信があるらしく、私の意見には少しも耳を貸さなかった。
インフォコーディネーターはそれぞれの情報について、信憑性や実現の確率などの、独自の評価基準をもっているらしい。
「そして、ふたつ目は謎の情報だ。実はある確かな筋の情報で、こんな言葉が飛び込んできた」
するとクロフォードは、小さなメモ用紙を、こっそり見せた。
「…!?」
そこには『さまよえるネアンデルタール人が石斧を振り上げた時、予期せぬ事件が起こるだろう』とあった。
「これは、ホプキンスが行方不明になる前日に、私がつかんだ情報だ」
「前日…? やっぱりあれは事故でなく事件なんですか」
「もう、捜査機関は事件ということで動き出しているよ。ただ確証がまだ無いんだ」
なんだ、やけに転送センターの沈黙が続くと思っていたら、現実は結構大変な事になっていたわけだ。言葉を失った私にクロフォードはとんでもないことを言い出した。
「…私はねえ、池波君、こう考えているんだ。ホプキンスは何かの事件に巻き込まれ18万年前の北アフリカで殺害されたと。」
「え? それは、どういうことですか?過去に飛んだのはホプキンスだけだから…、ホプキンスは18万年前の世界の誰かに、犯人に何らかの手で殺害されたってことですか?」
「その可能性は非常に高い」
「そんな…。しかし、それが事実だとして…18万年の時を越えて、殺人事件は成立するんでしょうか」
「わからない。だが、君も知っている通り、ダイナソー・アイや森の人文書が発表された時、大フィーバーが起こり、マスコミも我々インフォセレクト業界も莫大な収益を上げることができた。だが、ホプキンスが行方不明になり、これからも同じようなことが続くと、我々の業界にとっても死活問題になりかねない。いいかい、タイムサーチプロジェクトは必ず成功しなければならない。膨大な先行投資によって成り立っているのだから…」
「私にどうしろと…」
「私に協力しろとは言わない。第一君は選ばれた隊員候補だから、どのマスコミにもインフォコーディネーターにも直接情報を流してはいけない協定だ。だから、君と私は必要以上に接近しすぎると訴えられてしまう。だが、これからも怪しい情報があれば君に知らせる。時期隊員に選ばれるかもしれない君が、自分の身を守ることこそが、私にとってもベストのセレクトなのだよ。十分気を付けてくれ」
「はい、ありがとうございます」
しかし、8番目の男がすぐに選ばれるなんてあるんだろうか。首を傾げていると、3Dプリンターに受信があった。
「おや、今頃何だ?」
3Dプリンターから出力されたのは、複雑な紋章の入ったカードキーだった。
エイドリアン・クロフォードは、そらみろと言った顔で微笑んだ。
「3人の次期メンバーだけが招待される有名スポンサーの主催するレセプションの招待キーだ。ほうら、君は8番目から繰り上がって、もう3番目以内に入ったようだぞ」
「そんな…まさか…。いったい、なぜ?」
3Dプリンターは、小規模の工場システムや、データだけで商品が送れる新しい流通方法として日常生活に普通に使われている。だが、その高いコピー能力が新しい権利問題などを引き起こしたり問題も多かった。そこで、最近のタイプには、まがい物でない証拠の暗号データシールが貼られることになり、セキュリティレベルが大幅に上がった。そこでその形や彫刻そのものに暗号を仕込む高度な技術も開発され、いろいろな取引に使われるカードキーが流通するようになったのだ。今送られてきたカードキーは、芸術的なデザインでしかも高度な暗号紋章のついた高級なもので、記念品にもなるクオリティだった。
クロフォードの情報はやはり確かなようだった。その翌日には転送センターから緊急招集がかかり、やっと馴染んできたこの村ともさよならしなければならなくなった。
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