第190話 愛ゆえに……前編
「グアァァァァァァァァァァァァッ!」
憤怒の断末魔が草原に響き渡る。その声は遥か果てに見えるアルムの町に届くほどの声量だった。
見えない斬撃が打ち込まれた瞬間、憤怒は地面に激突しながら草原を
うつ伏せに倒れ、ピクリとも動かない憤怒……それを見たヒロとリーシアは互いに顔を向けると無言で
「ヒロ、やりましたか?」
「ええ、リーシア、体に異常はありませんか?」
リーシアが右腕や体のアチコチを触り確かめ始める。
「私は特に変わった様子はありません。ヒロは?」
「僕も特に……お互い紋章が継承された形跡はありませんね。とすると」
ヒロとリーシアが再び大地に倒れる憤怒に視線を向けた。
「遠距離から仕留めましたから、おそらく憤怒の紋章はアリアさんの遺体に残っているはずです。近づいて確かめてみましょう」
「そうですね。アリアさんの遺体、できればポーク族のみんなに引き渡してあげたいですが……」
「難しいですね。多分、アリアさんの遺体に触れると同時に憤怒の紋章が継承される可能性がありますから、このまま遺体を焼いて、誰かが骨に触らないよう土に埋めるしか……」
「ですね。ヒロ、せめて家族三人、同じ場所に埋めてあげましょう」
「そのつもりです。リーシア、遺体に触らないように注意してください」
「はい。行ってみましょう」
二人はゆっくりと、死んだであろう憤怒の遺体のそばへと歩き出す。
ヒロの最後に撃ち放った見えない飛ぶ斬撃により、できた道……草原の地面が十数メートルに渡りめくれ上がり、茶色い地肌が見えていた。
抉られた道を歩き、横たわる憤怒の前にまで移動した二人が、憤怒の様子を上から見下ろす。
「少なくとも、息はしていないようですね」
たとえ死んだフリをしていたとしても、わずかな呼吸と体の動きは誤魔化しきれない。完全に静止したアリアを見てヒロは確実に憤怒を仕留めた事を確認する。
その様子を見たリーシアの顔に焦りの色が浮かんでいた。
「ヒロ……」
「分かっています。せめてアリアさんの身に付けていたものをポーク族のみんなに届けてあげましょう。カイザーやシーザー君のも……みんな一緒がいいでしょうから」
「大丈夫ですか? 憤怒の乗り移られたら?」
「遺体に触れないようにします。カイザーに乗り移った時は、遺体に直接触れたからみたいですし」
「気をつけてください」
「分かってます。リーシアは離れていてください」
ヒロが手に持つミスリルロングソードを地面に突き刺しながら、うつ伏せのまま倒れるアリアの姿を確かめる。やはり呼吸をしている様子はない。
アリアから聞いた話や憤怒の喋っていた内容から、憤怒は血縁者が近くにいるか、血を媒介にして他人に殺されなければ紋章が継承されない。そして遠距離から倒された場合、周りに乗り移る者がいなければ、憤怒の紋章はその遺体に残り続け、次に遺体に触れた者に継承されるとヒロは推測を立てていた。
「やはり紋章はアリアさんの右腕に宿ったままですね」
ヒロは無造作に投げ出されたアリアの右腕を見ると、そこには、なんの力も感じられない憤怒の紋章があった。
禍々しいオーラも消え失せ、完全に沈黙している憤怒にヒロは安堵すると、膝をつきアリアの遺体から形見の品が何かないか探し始める。
「この指輪がいいかな?」
ヒロは投げ出された右手の指にハマった指輪を見つけると、アリアの体に触れないよう、指輪だけを指でつまみ、その手から引き抜こうとした時だった!
「なに⁈」
ヒロの右の手首を、死んで動かないはずのアリアの左手が掴んでいた。
「ヒロ!」
後ろに控えていたリーシアが声を上げる同時に、細いアリアの手がヒロの手首を握り締める。まるで万力に挟まれたかのような力にヒロが抗う。
「クッ! 完全に死んでいたはずなのに」
ヒロは右腕に力を込めるが、華奢なアリアの手はビクともしない。視線をアリアの小さな手に向けると、いつの間にか漆黒のオーラが、薄らと左腕を包み込んでいるのが見えた。
「オーラ……しまった! 外部からオーラで体を動かしたのか⁉︎」
ヒロとエルビスがやっていたことを、憤怒は宿主の肉体が死にながらも行っていた。
それを見たリーシアは、とっさにその場を動こうとするが、『グッ!』と堪えて踏み止まると、そのままヒロと憤怒の様子を見守る。
(ふっはっはっはっはっはっ、油断したな?)
「これは、憤怒!」
ヒロとリーシアの頭の中に、憤怒の思念が声となって響き渡る。
(確かに我は宿主が死ぬ寸前に血縁者か、血を媒介に殺されなければ他人には乗り移れん。だが、死したあと体が動かせないなんて、一言も言った覚えはないな)
「何だと、僕たちが騙されていた⁈」
「そんな……ヒロが読み間違えるなんて……いま助けます」
ヒロは何とか掴まれた腕を振り払おうとするが、憤怒はそれを許さず、握る腕の力がさらに増す。
(もう無駄だ。お前とのパスはつながった。教えてやる。この状態からの継承条件は、一度でも触れたものに我の意志で自由に体を乗り移れることなのさ)
「そ、そんな……じゃあ、もうヒロは……」
(もう継承を防ぐことはできないな。ハッハッハッハッ! どうだ最後の最後で騙され出し抜かれた気分は? クックックックッ!)
「クッ、リーシア、憤怒まだ継承の途中です。今のうちにヒール(滅)で僕を殺してください。いまならまだ間に合う!」
「そんなこと出来るわけないじゃないですか! ヒロ、他になにか手は⁈」
(ああ、最高にいい気分だ。安心しろ、お前の体を乗っ取ったあと、お前の意識はしばらく残しといてやる。お前の手でこの女が傷つき悲鳴を上げる
「憤怒、キサマ!」
憤怒の言葉に、ヒロは怒りの声を上げていた。それは自分のためではなく、リーシアを想っての怒りだった。
「リーシア、お願いです。憤怒をこのまま野放しにはできない。このままだとアルムの町に住む人が皆殺しにされてしまう。だからお願いです。僕を……殺してください!」
「ヒロ……」
リーシアの顔を見ながらヒロは自分を殺せと叫んでいた。
それを聞いた少女は……下を俯いてしまう。
「ダメです。私はもう……ヒロを殺せない……ヒロ、ごめんなさい」
「リーシア……」
泣いていた……大粒の涙を流して少女は泣いていた。その涙を目の当たりにしたヒロは、もう何も言えない。
「お願いです。私はどうなってもいいから……だからヒロと町の人を見逃してください」
「リーシア何を⁈」
ヒロはリーシアの突然な話に。面を食らっていた。
(ほう? 自分の命を差し出して、コイツと町の奴らを助けろと……フッフッフッフッフッ、いいだろう)
「本当ですか⁈」
「……」
意外な答えにリーシアは驚き、ヒロは無言で答える。
(ああ、ただし、助けるのはどちらかだけだ)
「どちらか?」
(そうだ。自らの手でどちらか選ばしてやる。お前の手でこの男を殺すか、町の人間を皆殺しにするか選ばせてやる)
憤怒の声が嬉々とした邪悪な声で、リーシアにそう告げた。
「私に、どちらかを殺せと?」
(そうだ。悪い取引ではないだろう? 町の人間を殺せば、最後にお前の死ね姿をコイツに見せて男は解放してやる。男を殺せば町の奴らは見逃してやる。約束してやろう、何があろうと、あの町の人には手出ししないとな)
「リーシア、憤怒の話に耳を傾けるな、コイツが約束を守る保証はどこにもない!」
(女……信じる信じないはお前次第だ)
「私は……」
二人の言葉にリーシアの心は揺れ動いていた……どちらを選んでも自分の命はない。それは構わなかった。だが問題はどちらを生かすのかだった。ヒロを切り捨てて大多数を助けるのか、町を見捨てて好きな男を生かすのか……少女の中で葛藤が起こっていた。そして……。
「……さい」
「リーシア……」
「ヒロ、ごめんなさい。私……決めることなんてできない。町の人たちを見捨てられません。町の人なんてみんな赤の他人なのに……孤児院と教会のみんなだって、生きるために利用してた赤の他人なのに……見捨てればいいのに……見捨てられない」
ポタポタと少女の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
「でも、町の人たちを助けたらヒロが……ごめんなさい。私……私は……どっちも選べない……」
「……」
リーシアは答えを選べなかった。それは少女にとって、どちらも大事な、かけがえのないものだったから……ヒロは少女の答えを聞いて覚悟を決めた。
「リーシア、それでいいんです。君がそんな選択をする必要ありません。だから泣かないでください。君に涙は似合いません。いつも明るく笑顔なリーシアでいてください。僕は君の笑顔が大好きなんです」
「ヒロ……ありがとう」
男は少女が悲しまないよう、精一杯の笑顔で応えると、
少女もまた泣くのを止め、笑顔で男に応えていた。
(クックックックッ、とんだ茶番だったな。まあ最初から約束など守る気はなかったさ。さあ最後の別れは済んだか? それじゃあこれで終わりにするとしよう。散々手こずらせてくれたが、これで終わりと思うと名残惜しいな。ハッハッハッハッ! では、サラバだ!)
「憤怒!」
「ヒロ!」
アリアの右腕に宿る紋章が突如として光を放つと、紋章は瞬時に消え去り、代わりにヒロの右腕に禍々しい漆黒のオーラをまとった紋章が浮かび上がるのであった。
〈勇者の思いが聖女に届いた時、世界の運命は書き換わった!〉
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