第12話 ポマトの汁に御用心
私にとって、母の教えは人生の指標でした。
幼い日に教えられた挨拶と感謝……それを忘れず生きてきました。
私は今年で十五歳になりますから、もう十二年も母の教えを忘れずに生きてきたことになります。
母の名はカトレア。私が六歳の時に亡くなりました。母が亡くなった日の事は、今でもハッキリと覚えています。
母が死んだあの日、私はたくさんなものを失いました。そう、本当にたくさんなものを……。
久しぶりに夢の中で母に出会い、昔を思い出した私は少しの間、母との思い出に浸っていました。優しい思い出……それはもう、望んでも決して叶わない幸せです。
「母様……あっ!」
懐かしい顔と声を思い出しながらも、朝の礼拝の時間が差し迫っていることを思い出した私は、自らの
水瓶から手桶に水を注ぎ、手早く顔を洗い歯を磨き、クローゼットの中から着替えを引っ張り出すと、寝間着の代わりに着ていた白のワンピースを脱ぎさり普段から着ている修道服に袖を通します。
修道服は濃い青を基本色とし、肩から胸元までと手首の袖口を白くすることでアクセントを出し、そして長いロングのスカートが、十五歳にしては肉付きがいい体のラインを隠してくれるのです。
「やっぱり少し大きいですね。動きにくくなるからサイズを合わせたいとこですが……」
少し大きめの服……それは155cmの身長に似合わず成長した自分の胸に、男性の視線が集まるのを防ぐ効果があり、先輩シスターズが用意してくれた服でした。
着替えが終わると今度は椅子に座り、手鏡を覗き込みながら簡単に身なりを整えていきます。
鏡に映る自分の顔はいつもと変わらず、いつも通りの顔が映っています。
「ん〜、今日も変わりないですね♪」
母譲りの薄い緑の瞳と、大人になり切れず、子供っぽさがまだ少し残る童顔な顔に、寝跡が付いていないかチェックです。
少し寝癖がつき、跳ねている部分を見つけた私は机の引き出しに入れていたクシを取り出し、何度か髪をとかします。
「寝癖などがあろうものなら、先輩シスターズに何を言われるか……朝からお小言は勘弁です」
朝日の光を束ねたみたいな金糸の柔らかな髪は、何の抵抗もなくクシを通し、肩まで伸びる髪はクセがなく、いつも通り真っすぐに伸びています。
輝きすら放ちそうな自慢の髪……母が良く褒めてくれたのを思い出します。
髪をとかし終えると、服と同じ青い色をしたベールを頭に被りピンで留めます。
髪と同じく肩まであるベールが、金糸の長い髪を隠すと簡単な身支度が終わりです。椅子から立ち上がり部屋を出て行こうとしたとき……。
「あっ! 十字架!」
胸元を見て思わず声を上げた私は、急ぎ机へと
引き出しの中には金で作られた精緻な細工が施こされた十字架が鎮座していました。母の形見である大事な十字架を机の引き出しから取り出すと、首から通し胸元の定位置におさめます。
これを下げていると、母が見守ってくれている気がして、寝るとき以外はいつも身につけています。
私は簡単に身支度を終えるとすぐに部屋を後にし、今日も神に感謝するため、早足で教会の礼拝堂へと向かいます。
母の教えに従い、毎日欠かさず参加している礼拝……遅刻はあっても、休んだことはありません。
私の胸で、母の十字架が揺れる程のスピードで礼拝堂へ急ぎました。
「二日連続で遅刻したら、トーマス神父に注意されるだけでは済みそうにありません……リゲルお願いよ」
リゲルがうまくトーマス神父に言ってくれていると信じて走ります。
昔から体を動かすのは得意な方で、普通の人と比べて運動神経が良かったのは幸いでした。そのおかげで何度……遅刻を免れたことか! この力を与えてくれた神に感謝しつつ、今日も教会へ爆走です。
私やリゲルが暮らす孤児院は、教会の裏側に建てられおり、2つの建物の間には広い中庭があります。孤児院と教会を行き来するには、この中庭を通らなければなりません。しかし……なぜか毎朝、私は爆走してる気がします。不思議ですね?
広い中庭には食べ盛りな子供の胃を満たすため、孤児院のみんなで作った菜園があり、今日もさまざまな野菜達がモリモリ実っています。
『グゥ〜』と、お腹を鳴らす私は、教会への最短コースから外れ、中庭の脇に作られた菜園を経由するコースに進路を変更して菜園を通り抜けると、赤々と実ったポマトの実をもぎ取って口に運びます。
「今日も美味しく実ってくれて、ありがとう♪」
ポマトは酸味が効いた水気が多い赤い野菜で、寝起きでまだ怠い頭の中をリフレッシュしてくれます。
私は大好きなポマトに感謝すると、それを
トーマス神父が遅刻して、礼拝が始まっていませんようにと、淡い期待をしながらポマトを食べ終えた私は、礼拝堂の入り口前に到着しました。
入り口の扉にそっと耳を当て、中の音を聞いてみると……扉の向こうから、トーマス神父が神に喋りかけている声が聞こえてきます。残念ながら、もう礼拝は始まっており、私の期待は早くも打ち砕かれてしまいました。
私はそっと音を立てず、少しだけ扉を開き体を滑り込ませると、静かに扉を閉めます。そして誰にも気づかれずに、何食わぬ顔で最後尾の椅子へ座ることに成功しました。
部屋の中を見回すとリゲルと孤児院のみんな……それと町の人が礼拝堂の椅子に腰掛けて、神父様の話を聞いています。そしてトーマス神父が神への言葉を言い終わると、全員で感謝の祈りを捧げ始めます。
「神に感謝を……」
それぞれが思い思いに、神への感謝を心の中で捧げ、私も神への祈りを捧げます。
どれくらいそうしていたでしょうか……目を閉じ、祈りを捧げていた私の肩を誰かが叩きます。
「リーシア、大丈夫ですか?」
肩を軽く叩く感触と名前を呼ぶ声で、私は眠りの世界から現実世界へと引き戻されました。
目を開けると目の前に、トーマス神父がいつの間にか立っていて、私の顔を覗き込んでいます。
どうやら礼拝が終わったのに、一向に祈りが終わらない私を、心配してくれたみたいです。
「リーシア、祈りに集中していたようですね」
「トーマス神父様、気づかずにごめんなさい」
トーマス神父の問いに、私は平静を装い謝ります。
(危なかったです! どうやら寝ていたのは、バレていないみたいです!)
「いや、それよりも体調は大丈夫ですか?」
神父様が自分の体調を気遣い、話しかけてくれたみたいでした。
「はい! 今朝も元気に満ち溢れています。神への祈りも、つい力が入ってしまいました。ありがとうございます」
元気に答える私の言葉に、トーマス神父の顔が
「はて? とても元気そうですね?」
「はい! 今日も元気いっぱいです。神に感謝ですね」
そう答える私が周りに視線を移すと、みんなが『やってしまった』みたいな顔をしていました。
リゲルなど、顔色が青くなりアワアワです。
あれは体調の悪い顔色ではなく、私がやらかした時に心配する顔色です。つまり……。
「ふむ、すると体調は問題ないと?」
「は、はい……概ね問題はありません」
「そうですか、それは良かった」
トーマス神父の声のトーンが低くて怖いです。
「実は礼拝が始まる前にリゲルから、リーシアが体調を崩していると聞いてね」
「えと……」
「リゲルは礼拝を休むように言ったのですが、あなたが無理を押して
私はベールの下で、冷や汗をかく思いで答えます。
「確かにそうでした……」
私はトーマス神父の表情をうかがいますが……心配をするトーマス神父の目が、怪しい者を見る目に変わってきました。
「リゲルは、『遅刻しても良いからゆっくり礼拝堂に来るよう、リーシアお姉ちゃんに言って来ました。だから遅れて来ても怒らないでほしい。怒るなら僕を怒って』とまで言ってました」
(リゲル……なんていい子! ありがとう)
私は心の中でリゲルに感謝します。
「はい、確かに礼拝堂に来るまでは体調が優れず、リゲルの言う通り休もうと思いました。ですが、私の中で何かが言うのです。逃げてはならない、試練に打ち勝つのですと……」
「ほう? 神の声を聞いたと?」
「いえ、神の声ではありません。あれはきっと私の心が諦めるなと言っていたのかもしれません」
私は手を胸の前で組み神に祈ります。
「何とか礼拝堂に着きましたが、礼拝は始まっておりましたので、そっと中に入り神に祈りを捧げていました」
「病を押してまでかね?」
「はい。ですが神に祈りを捧げている内に体調もだいぶ良くなり、もうすっかり元に戻りました。これも神のお力です。神に感謝いたします」
私はこのまま押し切れると感じました。ですが……。
「時にリーシア、一つ聞いても良いかね?」
「はい。何でしょうかトーマス神父様?」
「そのベーゼの白い部分に付いている赤いシミは何だね?」
「え?」
私は慌ててベーゼを確認すると確かに赤いシミがベーゼに付着しています……結構目立つシミでした。
走って食べている時に、ポマトの汁が飛び散ってシミを作ってしまったみたいです。
「な、なんのシミでしょう。気付きませんでした。お恥ずかしい限りです。ホッホッホッ」
顔を青くしながら誤魔化しますが、冷や汗が止まりません。
でも、まだいけると私の中の何かが叫びます……平然とやり過ごせと!
「本日の礼拝も終わりましたし、着替えて参ります。それでは朝食の準備の時間ですので、失礼いたします」
礼拝堂を出ようとする私にトーマス神父の声が低い声て尋ねてきました……。
「リーシア、何か言う事はありませんか?」
「……」
トーマス神父の目が怖いです……あれはもう。何もかも分かっている顔です。もう逃げられないと悟り、私は覚悟を決めて口を開きました。
「リゲルありがとう。トーマス神父様、今日のポマトはとても美味しかったです♪」
トーマス神父のお説教がお昼まで続きました……。
〈今日もポマトは美味しく実っていた!〉
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