第2話


 朝の光は独特で、他のどの時間帯より清らかで眩しくて白い。


 そんな光の中で、たっぷりの熱い湯の中で身体を弛緩させると、あぁとかうぅとかいう声が自然と出てくる、その優雅な時間が好きだ。酒を飲んだ次の日の入浴には体内の毒された血液の温度が上がって浄化されていくような気がすることを知ったのは、シンとの付き合いで酒を覚えてからの一番の収穫である。




 で、記憶の帰ってくる気配が無いんですけど。




 籠から逃げた小鳥が帰ってくる前に気配がありますか?と言われたら、そりゃ困りますがね。記憶が帰ってこないんですけど、としたら、旦那が帰ってこないんですけど、っていう話になって、そんな奥さん相手にしたら面倒臭いに決まってる。


 整理だ。戻ろう。昨日はシンと家で飲んだ。前の日の晩は肉焼いて食べた。昼食べない風呂屋行く朝起きた。シンとは何度か飲んでいる。初めて会ったのは説明会。説明会には行った…そこだ。いや違う。


 家はあった。何故だ?金はかなり持っていた。なぜだ?服を着て、金を持って生まれるなんてことがあったのか?馬鹿め、ある筈がない。



 今、こんなに優雅な時間なのは?


 

 なんでこんなにのんびりしてるんだ俺は?のんびりしてなくてもどうにもならないが…確かにどうにもならないな。記憶が無くなってるのに呑気に鼻歌交じりで髪を洗うという状況を聞くと馬鹿野郎だが、じゃあ髪を洗わないんですかという話。無論、洗うべき。だから洗った。お母さん!髪、洗えたよ!お母さんて誰?



 誰かに相談したいが、シンしか居ない。



 …シンか…。



 あいつは良いやつなんだけど、話してると悪ノリをしがちで、すぐにふざけ始め、脱線するという癖があるんだよな。良いやつなんだけど。

 相談しても果たして頼りになるかどうか疑わしいが、とはいえ他に選択肢も無いのは事実だし、気は乗らないが、この不安を一人で背負い続けるのはちょっと嫌だ。勝手に一部背負わせてしまおう。


 

 しかしお風呂屋か…。



 「ん、すみません、牛乳。」


 「はい、100ディミです。」


 「…あれ、おじさんはやっぱり毎日見てるから、こいついつも居るなとか常連さん、覚えたりします?」


 「そうですねぇ、割と毎日の人なんかは覚えますよね。」


 「僕なんかいつ頃から来てるとか解ります?」


 「お客さん?ひと月ふた月くらいですかねぇ?常連さんはずっと来てるような気がするから詳しくは解りませんけど、1年はないかな?毎度ありがとうございます。」


 「正解…流石ですね!また来ます。」



 少なくとも1ヶ月位はここで生活をしていることは解った。つまり、俺の記憶は間違いなく2週間前より前の記憶が無い。

 知らない自分。俺の知らない俺っていうとちょっと格好良い。自分探しとなるとちょっと格好悪い。



 とりあえず、シンの職場に行こう。あいつは実家の店を継ぎたくなくて出てきたと言っていたのに、結局同じようにカフェで働いているのだから、何をやっているんだと思うのだが、見知った仕事の方が気楽は気楽よな。

 今ならまだ混む前だし、大丈夫よな。



 風呂屋を出てカフェに向かって歩いていると突然、袖を引っ張られた。袖を引っ張られるのはいつも突然。じゃあ突然って言わなくても良かったか。

 …などと下らないことを考えながら振り返るとボロ布1枚みたいな恰好の黒髪の女の子が居る。




 「わたしは犬…。」


 「ん…今はこれしか無いけど。」




 可哀そうに、15、6歳か17、8歳か、19歳?まさかの10歳?まぁ歳はよく解らんけど、確実に俺より若いのに妙ちくりんな物乞いをせにゃならんとか、世の中全部間違っとる。わしは嘆かわしい。駄洒落みたいになってしまった。


 しかし、わたしは犬と来たもんだ。猫じゃ駄目だったのか。




 「猫じゃ駄目だったのか?」


 「知らないよ、ぱっと小銭渡したけど、まさかそれで、猫じゃ駄目ですか?って聞いて、万が一会話が盛り上がっちゃったらどうすんのよ?」


 「ちょっとそこにカフェがあるんだけど、どう?」


 「イケてる店員さんがいっぱいサービスしてくれるよ?」


 「ではこちらをどうぞ…まぁ飲め飲め。」


 「ういうい。俺さ、なんか覚えてないって言ってたじゃん覚えてる?」


 「ぱっと聞くと意味不明だが、まぁ覚えてるよ。寝ても治んないの?」


 「寝て起きて風呂屋行って良い湯だったんだけど、牛乳飲んでも治らなかった。」


 「何もかも忘れて風呂入るとか、まさに優雅。」


 「ただ、お風呂屋のおじさんに聞いたら、1ヶ月以上1年未満来てるらしい、俺が。」


 「他人に自分のことを聞く勇気。」


 「説明会に行く1週間前より昔のことは忘れてしまったよ。」


 「齢20にしてボケ老人になってしまったな。」


 「禿げてないのは救いだわ。」


 「いっそ禿げてても解らんだろう、ボケてるから。」


 「今の俺はボケてないから。」


 「トボケやがって。ささ、おじいちゃんどうぞどうぞ。」


 「んまい。お前も飲め飲め。さて、事態は見た目以上に深刻な訳だが。」


 「朝は風呂でのんびりして牛乳飲んで、夜は友人招いてホームパーティしてる裏にまさかそんな深刻な事態が!?」


 「パーティだったのか。」


 「楽しい男が2人いれば、それはパーティ。」


 「では、改めまして。深刻なパーティな訳だが。」


 「今日うちの店来てコーヒー飲んで、今ちょっと忙しいから夜にしてくれって俺が言ってからのこの深刻パーティじゃん?」


 「いかにも、この深刻パーティである。」


 「その間何してたの?」


 「自分探しよ。」


 「手掛かり探してたのか。どうだった?」


 「肉まん食べても思い出せなかった。」


 「深刻肉まん…か。」


 「なんか思い出せそう?」


 「いや思い出すのは俺じゃないから。」


 「そこに気付くとは流石です。」


 「そもそもなんだけど、思い出したい?」


 「そう改めて言われると、別に思い出したいこともないな。無くしたものが分からない以上、遺失物届を出しようがない訳で。」


 「そこに気付きましたか。」


 「そうだな、このままで良い訳じゃないんだけど、手の打ちようもないし、でも困ってる訳でもないし。」


 「逆に。もしお前が何かどえらい悪いことをしてたとか思い出したらどうよ?」


 「知りたくない上に、知ったら俺はもう俺でいられない。自首して斬首刑か切腹だな。」


 「もしお前が何かの病気で余命あと1年なことを思い出したら?」


 「何でもっと早く思い出さなかったんですかとかいう医者の理不尽。」


 「もしお前が経験済だったとしたら?」


 「息子を殴る。そして悶絶。二重の意味で。」


 「ご理解いただけましたでしょうか?」


 「一応、良いバージョンも言って貰える?」


 「もし可愛い彼女が居たら?」


 「記憶が無くなったのはほんの2週間前なのに訪ねてこない彼女か…。」


 「遠距離かもしれん。」


 「遠距離してる男が言うと、そういえば俺にもそんな子が居た気がする。」


 「気のせいだよ。」


 「斬り捨てるの早くない?」


 「遠距離の場合、一度くらい遊びに来たことあるだろ?なのに女の痕跡が一切感じられないんだよ。手紙とかも無いだろ?それに、例えばうちにはリズの忘れてったハンカチがあったりする。」


 「それは今度貰うとして。」


 「あげませぬ。」


 「それは今度使わせて貰うとして。」


 「なりませぬ。」


 「それが友のすることか。」


 「それが友のすることか。」


 「まぁ飲め。いやでも、居たかもしれないじゃん可愛い彼女。」


 「居ない。お前も飲め。」


 「ありがと。そのこころは?」


 「世界には2種類のヒトが居る。」


 「いや人間だのエルフだのドワーフだの精霊だの魔族だの色々居るじゃん。」


 「ひっくるめて2種類。恋人が、居るやつと居ないやつ。」


 「成程。」


 「つまり2人に1人は恋人が居ない。ここには2人。俺は居る。お前は居ない。」


 「バランスだな。」


 「飲み込みが早くて助かる。飲め飲め。」


 「つまりお前らが別れたら、俺に彼女が出来る寸法だな。今すぐ別れなさい。」


 「自分の為に友を犠牲にするとは。」


 「安心しろ、リズィちゃんは俺が幸せにする。」


 「よし戦争だ。飲め。」


 「思ったんだけど、2種類のヒトなのに、俺とお前とリズィちゃんだとバランス悪くない?」


 「慧眼です。」


 「結果を発表します。俺に彼女は居たことになります。」


 「めでたい。実にめでたい。」


 「まだ見ぬ彼女は入試までに会えるかな。」


 「明日しかないじゃん。」


 「明日もちょっと自分探しするわ。」


 「優雅なやつか」


 「そうだ。優雅に自分探しをする。」


 「じゃあ見つかったら入試のあとで飲もうぜ。」


 「おう。見つからなかったら入試のちょっとあとに飲もうぜ。」


 「じゃそろそろ片そう。ごちそうさま。」


 「いえいえ、何もお構い出来ませんで。」





 明日は猫の子に会えるかな?





 犬か。



  


 

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