第3話 蛹

 あの日、どうやって家に帰ったのか、私はあまり覚えていない。

 小部屋の向こうに男はおらず、代わりに和装の女が振り向いて、私を見て微笑んだ。お金を寄越せとも言われず、高額な化粧品を売りつけられることもなく、何かあればまたこちらに、という言葉と共に送り出されただけだ。

 頭が酷く混乱していた。身体は変わらず窮屈で、思い通りに動かず、いつもの景色すら違って見えた。

 翌日になってもその感覚は拭えず、会社に行けば当然、自分が自分だと証明することに労を要した。当然だ。顔のみならず、身体まで別人に変わってしまったのだ。他人に見分けられるはずがない。私の痕跡は、頭の中にしかなく、その脳内ですら思うようにならない。

 佳奈が私を見て、哀しそうな顔をした。話しかけようとしたが、背を向けられ、たったひとりで私は取り残された。

 仕事が終わり、遠巻きに私を見つめる視線にいたたまれずに職場を飛び出すと、私はあの雑居ビルに駆け込んだ。全てが夢で、そんな店などないのではと怯えたが、人気のない廊下の奥に変わらずに扉はあって、私を迎えた。

 重い鉄扉を押し開けて、暗い室内に踏み入る。壁際の蝶が、ばらばらに翅を開いて硝子の中を逃げ回った。煌めく鱗粉が照明を撥ねて、私は目眩に溺れる。よろめいて蝶が暴れる水槽に背を着けて、大きく喘いだ。震える喉から、知らない人の声が漏れる。

「どちらさま……ああ、貴女か」

 衝立の向こうから、あの男が顔を覗かせた。

「いかがです。お望みの姿に変身を遂げた気分は」

「こんなの、私じゃない。なによ、何をどうしたの?」

 男は小首を傾げた。心底、不思議だという顔が、じっと私を見ている。

「貴女が望んだんでしょう」

「違うわよ。こんなの、こんな、自分の思い通りにならない身体なんて……頭だって、ぼんやりして」

「そりゃそうでしょう。ほら、ヒトの魂って言うのは、いわゆる人魂の形なんてしていない」

 男が何を言っているのか、よく判らない。呆然としている私の前で、男は私の形をなぞるように指で宙にヒトの形を描いた。

「ヒトの魂ってのは、器にぴったりの形をしてるんだ。幽霊見たら、判るでしょうに。だから、器を変えたらはみ出しちまう。貴女は器の形を変えたでしょう。そしたら、魂が器に沿わずに外に出る。大丈夫、はみ出た処は千切ればよろしい。足らないトコには何かを入れる。でなけりゃ器はへにゃへにゃで、不自然な形に歪んじまうからね」

 男が私の胸と腰を指さした。ここに詰まっているのは、私ではない、別の何か。

「そうやって、千切った透明なモノを、足らないトコに足してやるのさ。貴女の場合には、自分の分で賄えなかったから、他の人の分を足した。窮屈なのはそのせいだろう。貴女以外の魂が、一つの器に入っていりゃあ、そりゃあ狭苦しくたって仕方がない。頭がぼんやりするのは、貴女と一つ処に入った別の魂が、まだばらけてるからさ」

 まあ、落ち着いて座りなさいよ、と男が私の肩を押して、椅子に導く。私の意に背いて、手足が椅子に、すとんと座る。自由にならない掌が、私の意思とは無関係に慈しむように腕を撫でる。頭のどこかで声がする。やっと、身体が手に入ったと。違う。これは、私の身体じゃない。

「元に戻して」

「貴女は歪にこねくり回され、千切った魂を、他の魂とくっつけた。もう元には戻れないよ。仕方がないさ、自分で望んだんだ」

「違う、望んだのは、これじゃない」

「じゃあなんだっていうんだ」

「綺麗な姿を手に入れて、あの人に好かれたかったの。これじゃあ満たされない」

「そりゃあそうさ、魂が千切れたんだから満ち足りるはずがなかろうよ。だから言ったろ。自分のためじゃないなら止しときなさいってさ、お嬢さん。元の自分が恋しいったって、後の祭りだ」

「厭よ、戻して、戻りたい」

 言葉とは裏腹に、私の唇は勝手に微笑む。私の目は自分の身体を見下ろす。私の中の、私でない部分が、この身体を得たことを悦んで浮き立つ。胸の内の華やぎの底で、私は息を殺して泣いた。

 かちゃりとどこかで扉が開く。白檀の香りが忍び寄った。

「どうしたの、騒がしい。あら、お客様じゃないの。どうされたの、泣いているでしょう」

「施術が気に入らないって仰ってますよ」

 衝立の向こうから和装の女が現れて、あらあらと、私の背中に優しく掌を当てて撫でさする。ひんやりとしたその手の形に、私は縋りつこうと顔を上げた。

「こちらのお嬢さん、元に戻りたいんだそうで」

 男が呆れた口調で告げると、女はしばらく私を見てから、そうなの、と優しく尋ねた。微笑みながら泣いていた私は、必死の思いで首肯する。

「ようござんす。やってみましょう」

「姐さん、そりゃあ……」

「お黙りなさい。お客様が望むのなら、そうするのが役目でしょう」

 ぴしゃりと叱りつけられた男は何かを言い淀んでいたが、私に目線で確認すると、大きな溜息を吐く。

「もう少し我慢をしていりゃ、ばらばらの魂だっていずれは馴染むんですけどね。誰かの見た目や些細な性格の変化なんて、他人は思ったよりも気にしちゃいませんよ。まったく、変わりたいだの、元に戻せの。贅沢でいけない」

 男はぶつぶつと文句を言いながら、私の前によく冷えたお茶を注いだグラスを置いた。

「いいんですか。あなたの魂を元に戻せば、この身体はなくなっちまう。へにゃへにゃに崩れてしまうんだ。それでもいいのかい。夜の向こう側には、戻る場所などありゃしませんよ」

「私は元の私がいいのよ」

 厭うように、私の身体の中の知らない魂は全身を震わせ、声なき叫びを上げていた。こんなもの、私の身体ではない。私の身体は、これじゃあなかった。

「それなら、そういたしましょう。貴女の望みのままに。骨も皮も肉も全て」

 男に促されるまま、私は一息に、花の香りのするお茶を飲み干した。たぷん、と身体の内側で、冷たい水が揺らいで、千切れた。胸の内が、ひどく騒ぐ。私が私でなくなる。

「なに……何が起きてるの。身体が、溶けてしまいそう」

「元に戻りたいんでしょう。そんなら一度、蛹にならなきゃいけないね。蛹さ、知っているかい。彼らはあの小さな蛹の中でどろどろに溶けて崩れて、もう一度生まれ変わるんだ。次に目が覚めたら貴女は……」

 最後の言葉は聞き取れぬまま、私はどろりと溶けて崩れた。

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