カナリヤ〈米津玄師〉
予報外れの雨に降られて、仕方なく宮下璃奈が雨宿りに入った公園の温室では、何やら展覧会のようなものが行われていた。
よく開店したばかりの店先で見かける、胡蝶蘭のような花もあれば、見たこともない、まるで食虫植物のような袋のついた花もある。
「これは何の花?」
案内の席にいた、メガネをかけて暇そうにスマートフォンをいじっていたライダースジャケットを着た青年に璃奈は問うてみた。
「これはみんな蘭の仲間です」
聞けば胡蝶蘭も、袋のついたパフィオペディラムという舌を噛みそうな名前のものも、みんな蘭の仲間なのだという。
「これはここの公園が愛好家の団体にお願いをして、花を出してもらって、それで展示しています」
青年は公園から頼まれて当番に来ていたらしく、
「まぁだいたい来るのはグループホームとか福祉施設とかの人たちなんですけどね」
目線を花に向けたまま言った。
やがて雨が止むと璃奈は帰ったのであるが、
「一応、名刺だけ渡しておきます」
と言って帰り際に彼に手渡された名刺には、中須
それからはしばらく会うこともなく、璃奈も忘れかけていたのであるが、思わぬ所でバッタリと再会した。
璃奈が勤める会社で会議のプレゼンテーションが行われることになり、取引先から担当が来るというので準備をしていたときに出くわしたのである。
「…あのときの」
歩夢は顔を覚えていたらしい。
「…中須さん?」
とりあえず挨拶もそこそこにしていると、
「おーいポム、行くぞ!」
後ろから声がしたので歩夢は立ち去ったのだが、彼は仲間からはポムと呼ばれているようであった。
プレゼンテーションのあとにランチミーティングの場が持たれ、
「あなたポムさんと知り合いみたいだから」
そう上司に言われると歩夢の向かい側に璃奈が座ることになった。
「一回だけ、公園で少し話しただけなんですけどね…」
璃奈は口ごもった。
「まぁあの日は雨でしたしね」
歩夢も気づかわしく話を合わせる。
その場で連絡先の交換だけして、帰ってから「今日はすいませんでした」と璃奈はメッセージを打つと、
「こちらこそ、気を使わせて申し訳ないです」
歩夢は人を傷つけることを極端に嫌うところがあるらしい。
一ヶ月ばかり過ぎて、ミーティングで璃奈の会社に来るのが最後になったという歩夢は、
「次回からは現場に回るんで、こちらにはほとんど来なくなるかと思います」
璃奈に深々と頭を下げて、
「…これ、宮下さんにお土産です」
渡されたのは、小さな素焼き鉢に入った棒針のような多肉植物である。
「これ、ブラサボラって植物です。窓辺で育てたら香りの良い花が咲くと思います」
璃奈は歩夢が植物に詳しいことを思い出したが、
「育て方がわからなかったら、いつでも教えるので連絡ください」
そう言うと歩夢はその日は帰っていったのだが、
「…あの」
璃奈の呼び止める声に歩夢は振り返った。
「もらったお礼に、お茶しませんか?」
「今日、自分バイクで来てるんで」
タンデムで良ければ、近くのカフェまで送ります──歩夢はオフィスの駐車場に停めてあった黄色のカスタムカブのピリオンシートに璃奈を乗せると、交差点を何ブロックか走った先にあったオープンカフェまで璃奈を連れてきた。
璃奈は生まれて初めてバイクの後ろに乗ったが、思ったより風が心地よかったのと、歩夢の運転が優しかったのが感動的であったらしく、
「ポムさん…また、乗ってみたいです」
璃奈は去り際に言った。
「そのぐらいなら、いくらでも宮下さんを乗せますよ」
歩夢は気さくなところがあったらしい。
それからは何度となく休みの日に二人で黄色のカスタムカブでカフェ巡りをし、他愛のない話を長々とした。
「ポムさん…飽きないですか?」
気を遣う璃奈に、
「僕はまったく飽きないですけど、璃奈さんは?」
逆に気を遣われてしまうほどであった。
そんな調子でデートを重ねていった璃奈と歩夢であるが、歩夢には奇妙なところがあった。
璃奈に触れようとしないのである。
普通のカップルなら手をつなぐぐらいはあるのだが、歩夢はそれすらしない。
初めは潔癖症かと思ったが違うようである。
璃奈を嫌いならデートそのものをしないはずであろう。
璃奈が問うてみると、
「いやぁ、考えたこともなかった」
頭をかいて歩夢は苦笑いを浮かべながらも、璃奈に申し訳なさそうに言うと、ようやく手をつないでくれた。
そのようにして付き合い始めてからしばらく過ぎた頃、
「ね、ここのカフェ行きたいんだ」
璃奈がスマートフォンで見せたのは、一軒の石蔵づくりの海沿いのカフェである。
「あ、そこ昔行ったことある」
歩夢は少し戸惑い気味に言った。
「…もしかして、元カノととか?」
歩夢は表情が固まった。
「あ…図星だったかな? 嫌なら女友達と行くから」
「いや、そういうのではないから大丈夫」
歩夢はいつものフラットな調子で言った。
週末は朝から晴れていたので、例の黄色のカスタムカブのピリオンシートに璃奈を乗せ、海沿いに続く道をトコトコ走って例の石蔵づくりのカフェまで来た。
店内に入ると、まだ午前中だけに席は空いていた。
マスターの妻と思しき店員がオーダーを取りに来た。
「カフェラテとフラペチーノで」
「かしこまりました」
店員は奥に下がった。
しばらく店の雰囲気を眺めていたり少し話したりしているうち、カフェラテとフラペチーノが来た。
「ポムさん久しぶりだね。いつ以来だっけ?」
「いつ…でしたっけ? しばらく来てないから忘れちゃいましたよ」
歩夢は笑いながら言った。
「まぁあの子があんなことになってから、ずいぶん来てなかったもんねぇ」
マスターが余計な単語を出した。
「でも元気になったみたいで良かった」
喜ぶマスターとは裏腹に、歩夢の顔は曇っていった。
カフェからの帰り、休憩で立ち寄った公園でベンチに腰を下ろすと、
「あの…ポムさん」
「…ごめん。別に隠してた訳じゃなくて、璃奈さんに余計な心配とか迷惑とかかけたくなくて」
「…ふふふ」
璃奈は微笑んでから、
「ポムさん、優しいんだなって」
「?」
「カフェの話を最初に出したときから、何かあったのかなってのだけはわかってた。でも言いたくないことなんだろうなって思ったから訊かなかった」
「璃奈さん…」
歩夢は見透かされていたらしかった。
「じゃあ話すよ。璃奈さんは頭の回転早そうだから、きっと理解してもらえると思うし」
そうやって話し始めたのは、歩夢の元カノの話である。
そもそも歩夢にポムというあだ名をつけたその彼女とは、行きつけのレストランが一緒であったらしく、いつしか打ち解けるようになって交際が始まった。
「でも、彼女の悩みに気づいてあげられなかったんだよね…」
気を許していると思っていたつもりであったらしいが、一週間ばかり仕事で空けている間にいなくなってしまい、のちに彼女が自ら生命を絶ってしまったのを知ったのは、少しく間があってからの話であったらしかった。
「その彼女さんと来てたのが、あのカフェだったってことなんだ…」
璃奈はしばらく考え込んでから、
「私も無神経だったね…ごめんなさい」
「いや、璃奈さんは何も悪くなんかない」
いつまでも引きずっている自分に問題がある──歩夢はつぶやいた。
「もしかしたら、もう前を向けって言われてるのかなって」
歩夢は璃奈に申し訳なさ気な顔をした。
しばらく璃奈と歩夢は友達のまま交流を続けていたある日、璃奈は窓辺で香りがしてくるので見てみると、前に歩夢からもらったブラサボラに花が咲いているのを見つけた。
星型の花の中心からハート型の白い花弁が開いて、璃奈はもしかしたら歩夢は白いハートを望んでいたのかもしれないと思うところがあった。
不意に璃奈は歩夢に連絡をしてみた。
が、なかなか繋がらないまま、ついには連絡がつかなくなった。
会社も辞めたらしく、璃奈は街なかで黄色いカスタムカブを見ると、歩夢ではないかと思って目で追ってしまうときがあるらしかった。
ちなみに歩夢のくれたブラサボラは、今でも時期が来ると香りの良い花を咲かせているとのことであった。
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