カゼノトオリミチ〈堀下さゆり〉


 深田の里、といえば山のさらに山奥で、地理としては愛媛だが県境に近く、峠を越えれば高知のほうが近い。


 かつては平家の落人が開いたとされる。


 山間の細道をうねうね下れば宇和島へたどり着くのだが、何時間もかけねばならないので、買い出しはもっぱら移動販売か、谷を渡った先の小さなコンビニぐらいのものであった。


 集落には爺さん婆さんばかりが住んでおり、最も若い綾瀬家の女当主の善子ですら、もうすぐ還暦である。


 もともとこの集落の生まれではなかったが、亡き夫の生家である家を守るために、松山から移住してきたのがきっかけであったらしい。


 もっとも集落の面々からすれば松山は大都会で、さらにいえば善子の娘の花世はなよなんぞは藤沢で暮らしているのであるから、どことなく田舎暮らしの連中からすれば浮いたようなところがあるのは否めなかった。



 綾瀬家には小さな棚田が何枚かあって、しかもうねりのある坂を越えなければ田圃の見回りなんぞは出来なかったから、舅から引き継いだC50で水やら草取りやらで乗り回していた。


 手入れの合間、一息ついていると、風がスッと抜けてゆく。


 どうやら風抜けの良いところであったらしく、こうしたところも気に入っていたようであったらしい。


 たまに湘南から娘の花世が盆に帰って来たりはするのだが、


「もうみんないないんだし、気にしないで松山に戻るなり、私と一緒に藤沢に来るなりすればいいのに…」


 などと、シングルマザーの花世なんかは幼い娘の観海みなみと一緒に過ごしながらも言ってみたりするのであるが、


「まぁ、住めば都って言うじゃない」


 と、善子は気に留める様子すらなかった。



 この年は長梅雨で雨が続いており、いもち病も善子の田で出るような年であったから、


「今年はちょっと作が悪いかも知れないねぇ」


 などと井戸端ばなしになっていたのであるが、夜中になって雨脚が強くなった。


 それまで見たことも聞いたこともないような雨音で、寝付けないまま二階で善子は独り微睡んでいたのだが、明け方近くなってドスン、という音が遠くで聞こえた。


 ほどなく、


 ──山津波が来た。


 と、隣の爺さんが傘を手に綾瀬家を訪った。


 夜が明けてから田圃を見に行こうとしたが土砂で覆われて道はふさがり、堆く笹やら杉やら混ざった泥が切り通しにまで流れ込んで、女一人でスーパーカブで行けるような有り様ではない。


 しばらくして麓から消防団が何人か来て、田圃の様相をドローンで撮ったという動画を見せてもらったのであるが、善子の綾瀬家の田圃はことごとく土砂に崩されて、跡形すら分からないぐらいに土砂で埋め尽くされていた。



 何日かして、宇和島や松山からボランティアが来ることとなったのだが、善子の家へ派遣されてきたのは、なぜか関西弁の大学生らしきボランティアの名札をつけた若者であった。


「西木野優平といいます」


 聞けば広島から来たのだ、というようなことを述べた。


「でも何で関西弁?」


「大学は広島なんですが、生まれは姫路でして」


 善子は何となく納得したようで、まずは雨漏りのする納屋の後片付けの手伝いを頼んだ。


「でも命があって良かったですねぇ」


 優平は納屋の段ボール箱やら農機具やらを、雨の当たらなさそうな軒まで出しながら、他のボランティアのスタッフに作業を指示したりしていく。


 熟れた様子の優平を見て善子は安堵したのか、


「ほんとに助かります」


 深々と頭を下げた。



 このとき優平は耕耘機のエンジンチェックもした。


「動けば使えるし、使えればまた農作業できますからね」


 バイクのサークルに参加している…という優平からすれば、気付きの範疇であったらしい。


「ずいぶんレアなスーパーカブですね」


 優平は例の見回り用のC50を見つけた。


「エンジンかかれば買い出しも楽になりますよね」


 キックペダルをかけたり押し掛けしたりしてみたが、動かない。


「これはもしかしたらキャブレター見てみるしかないかも…」


 サイドカバーをポケットの硬貨で開け、中から出した工具で手早くキャブレターを開けてみると、ゴミが出てきたので、なれた調子でタオルで拭いてから、


「焼酎ありますか?」


 善子が瓶の焼酎を持ってくると中を拭いて脱脂し、再びキャブレターを組み込んでエンジンをかけてみると、今度は一発でかかった。


「これで買い出しできますよ」


 優平は汗まみれになりながらも笑顔で復活を喜んだ。



 全ての片付けが終わるまで優平は何日か来ていたが、後片付けが済むと、


「田圃が心配ですよね…」


 土砂の流れた棚田は重機でないと復旧は難しいらしく、


「いや、逆にこれでここを離れる踏ん切りがついた」


 善子は藤沢の花世と観海のもとへ移る決心がついたようで、


「せっかくカブも直したのに、処分するしかないのかなぁ」


「西木野さん、乗るなら乗っていいよ」


 どうせなら詳しい人に乗ってもらったほうがいい──善子のいつわらざる思いであったらしかった。


「でも…」


「だって娘は車もあるから」


 善子は決めたら動かない気性であるらしい。


 とりあえず優平はその日は結論は出さなかったが、数日して別の集落へボランティアへ移動することとなって、挨拶に顔を出した際、


「あんたにあげるから乗りなさい」


 善子は鍵を優平に渡したのである。


 

 そうして優平は善子のスーパーカブで、そのときは広島まで帰ったあと、後日届いた書類で手続きをし、保険も入り直して、善子のC50は広島へ渡ったのであるが、優平はボアアップしたり、少し歪んでいたのでバーハンドルに変えたりはしたものの、カラーリングだけは気を遣ったものか、アバグリーンのままであった。


 やがて。


 優平が就職で東京へ移る際、


「こいつも連れていきます」


 と、一応連絡だけして広島から乗って上京し、雨の日にはレインウェアを着て通勤したり…と相棒として乗り続けていたようである。



 しばらく過ぎた夏の日、優平は恋人と鵠沼の海岸へ海水浴に出かけた。


 ドリンクを買いに出た帰り、駐車場で優平のカスタムカブを見ていた日傘の人物がいたので声をかけてみると果たして善子で、


「元気に使ってるねぇ」


 互いに再会を懐かしんで、よもやま話に花を咲かせていたが、背後から恋人の声がしたので優平が反応すると、


「それじゃあまた」


 日傘が曲がり角へ消えるまで眺めたが、振り返ると恋人のもとへ優平は駆けていくのであった。


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