第29話 日常、遠堂澪夏の一日

 小説家の遠堂 リュノこと遠堂 竜之介の担当編集者、九十九 綴里が家を訪れ、図らずもエンデュミオンと遭遇した日。


『そ、それじゃ、今日の所はお邪魔しました!』


 澪夏の帰宅をこれ幸いと綴里は編集部に帰社し、その日は他にこれといったことも起こらず、遠堂家の面々も床についた。


 その翌朝。


 まだ朝日が昇りきらぬ薄暗い中、台所に立つ人影がいた。


「さてと、今日もお弁当詰めますか!」


 遠堂 澪夏ミオナの朝は早い。


 行方不明の兄を案じて、北海道の実家から遥々スポーツ推薦で入学した都内の進学校は、遠堂家のアパートから電車を乗り継ぎ2時間半かかる。


 8時30分の始業に間に合うためには、準備を含めて5時には起きなければならない。


「……いってきまーす」


 竜之介もエンデュもまだ起きていないので、返事がないのはいつものことだ。


 竜之介のことを心配して、とは言ったものの、中学からやっている水泳は本当に好きだし、部活にも勉強にも打ち込める今の学校には満足している。

 長時間の通学も、2年も通えば慣れたものだ。


 電車に揺られながらでも、お気に入りを音楽を聴いたり、テスト期間中は英語のリスニング練習をしたりと、意外とやれることは沢山ある。


 今日は英単語の小テストがあるので、単語帳を読み込んでの登校だ。


「おはよー、あれ、澪夏が勉強してる! やめなよ、一緒に赤点取ろうぜー?」


「おはよ、澪夏。あんたね、赤点取ったら補習だって言ってたじゃん。ほら、勉強するよ」


 途中の駅からは、親友の彩華あやか紗綾さあやが揃って乗ってきた。高校からの付き合いだが、二人は幼馴染みらしく、いつもセットが基本。あやさやコンビと先生たちにも覚えられている仲良し二人組だった。


 別に、待ち合わせしているわけでもないのだが毎日同じ電車に乗っているので、寝坊でもしない限りは毎日こうして顔を合わせる。


「二人ともおはよ、彩華はまた赤点の危機なの? この調子だと、一緒に卒業できないかもね……私、彩華のこと忘れないよ……!」


「ひ、ひどい! 卒業はするしっ!あ、やっべ教科書忘れた。紗綾、ノートか教科書貸して」


「おバカ! 私だって勉強するから! まったく、仕方ないな、後で私が見るとき返しなさいよ」


 こんな調子で、勉強な不得意な彩華を紗綾がサポートするのをよく見かけるが、紗綾は小さい頃の怪我のせいであまり走ったりできないらしく、それを彩華がさりげなく助けているのを、この二年だけで何度も見た。


 要するに、お似合いの二人組みなのだ。


「紗綾のノート、やっぱわかりやすいなぁ」


「もう、お世辞言ってももう助けてあげないから!ほら、さっさと覚えて!範囲そんなにないし、補習になったら一緒に帰れないじゃない!」


 澪夏は一年生の頃から、内心こいつら付き合ってるんじゃないかと思っているのだが、親友なので余計な詮索はしないのだった。


 そんな慌ただしい登校を終え、学校に着くと、すぐに授業が始まる。

 澪夏自身、スポーツ推薦とは言え、この学校は文武両道を掲げており、三年生にもなれば、授業のレベルも下手な予備校より実践的な大学入試対策になる。


「はぁ……つかれたー……」


 お昼休みには、もうくたくたになっているのがここ最近では日常茶飯事だ。


「澪夏、一緒にお弁当食べよ?」


「あたしも、あたしもー!」


 お昼も、お弁当をあやさやと一緒に食べることが多い。


「あ、澪夏のお弁当、今日はお兄さんが作ったのじゃないんだ?」


 彩華が何気なくそう言って、澪夏のお弁当を覗き込む。


 今日の澪夏のお弁当は、昨日の残り物の惣菜や冷凍食品を詰めた普通のお弁当だ。


「澪夏のお兄さん、めちゃくちゃ料理上手いんだよね。 この前貰った卵焼き、超美味しかったし」


「ねー、うちの兄貴なんか未だにママにお弁当作って貰ってるし、料理できるお兄さん羨ましいなあ」


 高校に入って、兄貴が"海外"から戻ってきてから、何度かお弁当を作って貰ったことがある。

 大抵、竜之介が徹夜した日なんかにフラッと作ってくれるのであまり当てにはしていないのだが、妙に凝り性なので完成度がやたら高い。


 妹としては、そこが少しだけ癪だった。


「うう……わ、私だって料理できるし!兄貴より、兄貴より上手いはずだもん!」


 だから、多少声が上擦っても仕方ないはずだ。


 そんな澪夏を見る二人の目は、ちょっとニヤニヤしたような優しげなものだった。


 午後の授業を終えると、澪夏はすぐに校舎を出て、ある場所に向かう。

 澪夏にとっての正念場、水泳部の活動場所である屋内プールだ。


 スポーツでも名門なだけあって、完全屋内で温水完備、循環型の50mプールが2本もある、ちょっとした市民プールより整った設備で、全国クラスのライバルである部員たちと切磋琢磨する。


 水泳の世界では、0.1秒でも縮める為に、泳ぎのフォームから、手先、足先の動き、水の抵抗を減らす技術など覚えることは山ほどある。


 澪夏はしかし、そんな水泳が好きだった。


 おそらく始まりは、家族で訪れた地元の海水浴場。その頃は澪夏より泳ぎの得意だった兄が、おっかなびっくり浮き輪にしがみついていた澪夏に泳ぎを教えてくれたのを、今でも覚えている。


 ふっと息を吸い込み、指先から滑らかに着水する。流線形を意識し、極限まで抵抗を削る。

 一秒でも速く、気持ちは絶対に折れない。


(今年のインターハイは必ず……!)


 澪夏は、そうして目標に向かって部活に取り組んでいるのだった。


 そうして、練習を終えると夜中の7時頃。

 他の運動部の生徒達が帰る中、澪夏は2時間の帰路につく。


 うつらうつらしながら、家に着くのは9時頃だ。


「ふわ……ただいま~」


 家のドアを開けると、最初に目に飛んできたのは竜之介ではなかった。


「おう、ミオナか!よくぞ帰ったな。疲れているだろう、夕食の支度は出来ているぞ!」


 エプロン姿が引くほど似合わない、自称エルフの居候、エンデュミオン。


 高身長の金髪碧眼イケメンが、フライパン片手にエプロン姿でお出迎えしてくれるという、そういう性癖の人には刺さりそうなシチュエーションだが、あいにく澪夏にそういう趣味はない。


「見ろ、今夜のハンバーグはこの私が手ずから捏ねた逸品だ。はは、中々どうして面白い!」


 ハンバーグくらいでやたらと得意気だが、エンデュミオンとの付き合いに慣れてくると、むしろ良くやったねと誉めたくなるから不思議だ。


 この生活力皆無のエルフは、どうも料理や家事が苦手というか、全般的に不器用らしかった。


 それでいて、何故か傲岸不遜なので、一周回って子供に見える。これで性格が悪ければ真性のクズだが、居候を気にしてか積極的に動こうとはするので、根は良い人らしい。


「はいはい、わかったって。ほら、皆で食べよ」


「ああ、 今、竜之介が付け合わせを炒めている。先に座っているがいい!」


 そう言って、エンデュミオンは台所へと戻っていった。


 兄との二人暮らしも、もちろん楽しくなかったわけではない。ただ、この奇妙な三人暮らしも悪くないかなと、澪夏は一人笑ったのだった。

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