ふぅが悪ぃ
ナツメ
ふぅが悪ぃ
ゆきさーん、でーこんあるからめーでーてくださいなー。
またおばあちゃんが何か言っている。節のついたような独特の言い回し。
わたしは昔からおばあちゃんが嫌いだから、その歌うような節回しもやっぱり嫌いだった。
だいたい、おかあさんの名前はゆきではない。ゆみだ。二十年来自分の嫁をやっている人間の名前も覚えられないなんて。まあ覚える気がないのだろう。
毎年、嫌々この家に来る。
父方の祖母の家。いつからあるのかわからない古い一軒家で、トイレは汲み取り式だ。
それが、山の中にある。
比喩ではなく、本当に山の中にあるのだ。近くに電車は通っていない。車がないとたどり着けないような場所。
この家からの徒歩圏内で、他の人に会ったことがなかった。
「りんちゃん、オレンジジュース飲む?」
珍しく、何を言っているか聞き取れた。が、わたしはジュースは飲まない。小さい時から飲まない。おかあさんがそれを何度言っても、やはりおばあちゃんは覚えない。
「わたしはジュース飲まないってば」
つっけんどんにそう返すと、
ほーじゃったかほーじゃったか、りんちゃんはジュースはのみません〜。
と、また例によって妙な節で言いながら台所に去っていく。
早く東京に帰りたい。
夕飯は無心でテレビに集中する。この家のご飯はまずい。水が多くてべちゃべちゃしているのだ。
おばあちゃんはテレビの感想とか近所の噂話とかを矢継ぎ早に息子――おとうさんに話している。
わたしはおばあちゃんの話は努めて聞かない。よくわからないし、腹が立つから。
でも、たまにうっかり、耳が拾ってしまうことがある。
ゆうちゃんとこもな、リフォームしたんじゃって。うちもせんとおえんじゃろ。
「なんでだよ、別にしなくていいだろ」
おとうさんが言い返す。
そねーにいうても、うちだけせんなぁ、ふぅがわりぃじゃろ。
まただ。
「
「ふぅがわりぃふぅがわりぃって、気にすんなよそんなこと」
おとうさんが少し語気を強める。おかあさんとわたしは目配せして肩を竦める。わたしたち家族は、おばあちゃんのこういうところに辟易していた。
おばあちゃんは納得できないようにすこしモゴモゴ言ったが、すぐにテレビに映ったタレントに気を取られたらしい。
おとこなのにこねーなおんなみてーな格好して、しゃんとしとらんでへんじゃろ、なぁりんちゃん。
そうやって嫌なことを言ってわたしに同意を求めるところも、嫌いだ。
東京に帰っても、たまにおばあちゃんから電話が来る。わたしは留守ということにしておとうさんが出てくれる。
おばあちゃんは声が異常に大きいから、受話器越しでも大体何を言っているか聞こえる。
誰々ちゃんは何々したからうちもしないとふぅがわりぃ。
どこそこの孫のなんとかちゃんが結婚したから、りんちゃんも学校出たらすぐ結婚しないとふぅがわりぃ。
おとうさんはイライラして言い返すけど、のらくらと、何々ちゃんとそう話した、誰々さんもそう言っていた、と言って全然響いていない。
電話を切るときのおとうさんの虚脱しきった顔は、すこし胸が痛む。
しばらくしておばあちゃんが亡くなった。
おじいちゃんはとうに亡くなっていたから、長男であるおじさんと、次男のおとうさんとで手分けして葬式の準備をした。
その時にわかったのだが、あのあたりのおばあちゃんの親戚――誰々ちゃん、何々さんとおばあちゃんの話に名前が上がったひとたちすべて――は、みな、もうとっくの昔に亡くなっていた。
おじさんもおとうさんも面識はあったが、葬式に呼ばれるほどの血縁の近さではないし、帰省した時にわざわざ挨拶にも行かないから、おばあちゃんの話を聞いて、みんな元気なものだとばかり思っていた。
おばあちゃんがボケていたとは思えない。
おかあさんの名前を覚えないのも、わたしに嫌いなジュースをすすめるのも、差別的な物言いばかりするのも、昔からそうだった。もしあれがボケなら、二十年ずっとボケてたことになる。
ふぅがわりぃ、ふぅがわりぃって、いったい誰の目を気にしていたんだろう。
ぼんやり空を見上げる。
火葬場の煙がもくもくと青空に上がっていく。
わたしはせいせいして、もう二度とこの土地には来ないだろう、と思った。
ふぅが悪ぃ ナツメ @frogfrogfrosch
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